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旅ラン「日光道中膝痛シ」…(杉戸宿~古河宿)その1

2018年08月13日 | 日光道走膝痛シ(旧日光街道ランニング)
祝日の山の日に旧日光街道走ってきました。

東武動物公園駅から前回終了した地点まで準備運動を兼ねて歩きました。



天気は晴朗なれど温度湿度高し!

というか、クソ暑いッ!

8時45分 旅ランゆったりと開始、

杉戸宿にはまだ古い家屋が残ってました。





明治時代の建築、渡辺金物店跡


木村米店


小島定右衛門邸(角穀跡)
宿場町にはよくある枡形と言われる場所に建っていました。

ですから、屋号の「角穀」は角にある米問屋の意味ですね。



寺子屋のあった宝性院
この辺りが江戸時代は杉戸宿のはずれで、街道は古利根川沿いにあったようです。
杉戸宿は水運が発達していたようです。


東京駅を発見しました





これは昭和40年創業の東京駅食堂という名のお店でした。


旧家渡辺勘左衛門(杉戸銀行の専務取締役)邸

杉戸銀行は1900年(明治33年)設立で、1928年(昭和3年)まで存在していた銀行です。
もともと江戸中期から質屋業を営んでいたそうです。


その全体像ですが、とても大きなお屋敷です。
邸内奥に重厚な蔵があるみたいですが、それはよくわかりませんでした。

昔から金貸し業は儲かる商売ですね。
担保物品を質草にして金銭を貸すのですから、安全確実で何もせずに金が金を生むという、出来過ぎたビジネスモデルです。
よく、質屋は一六銀行と言われますが、今の銀行も担保を取って貸してる限りは、本質的に質屋となんら変わりません。
むしろ、質屋の方が質草がしっかりしていれば、容易に貸してくれるわけですから銀行よりもスピィーディで便利かもしれません。




旧街道は国道4号線と合流します。
単調な国道を汗を流しながら、ゆっくり走ります。



大きな料亭?
誰がこれほど大きな料理屋をつかうのか?
しかも、ここまでは車じゃないと来れないし?



とか、なんとかボケーっと考え走っていたら、次に行こうと思っていたところ(恭倹舎)を通り過ぎてしまいました。

暑さの為でしょうか、Uターンして戻る気がいまいちだったので、自分の鼻先に人参をぶら下げることにしました。

コンビニに入り、ワッフルコーンのアイスを購入し、舐めながら歩いて戻りました。

15分ほど戻ったかと思います。


恭倹舎 (農民・町民に心学を講義した私塾)

稲荷神社の境内にある、江戸時代後期の心学者大島有隣(おおしま・うりん)が1785(天明5)年に設立した学舎です。

----大島有隣-----杉戸町のHPより



 心学者として名を残した大島有隣(義展)は、宝暦5年に大島村(現在の杉戸町大島地区)に生まれました。大島家は旗本三宅氏の名主であり、三宅氏の用人も勤めました。
 心学とは、江戸時代の中期に京都の石田梅岩が起こした新しい学問で、石門心学ともいわれます。心学は、神道・仏教・儒教の教えを日常生活に合わせて説いた新しい日本の倫理のようなもので、武士階層や商人だけでなく、一般庶民を対象として広まっていきました。関東地方では、中沢道二によって普及されています。
 有隣は、安永8年に江戸の伊勢屋孫兵衛が大島村を訪れて心学を説くと、その影響を受けて中沢道二と会い、江戸の参前舎で心学の修行に励みました。


---------


ですが、心学っていまいちよくわかりません。

どうも陽明学のことみたいです。

陽明学と言えば中江藤樹ですが、実は(幕府が厳しく禁教して弾圧したため、儒学のふりをした)ほぼプロテスタント系のキリスト教であると聞いたことがあります。
それと西郷隆盛も陽明学を学び「敬天愛人」が有名ですが、たしかにそれっぽいですね。



小さな学び舎でした。

吉田松陰の松下村塾よりも小さいです。


恭倹舎のすぐそばにある大島有隣と恭倹舎を設立した3人のうちのひとり名主藤城吉右衛門の家

中は生垣で見ることはできませんでした。
ただ、杉戸町のHPに写真がありました。
立派な屋敷ですね。



引き返した地点まで戻り、同じコンビニに入り、飲料水を購入し、例によってノンアルコールビールで喉を潤しました。





途中で転びました。
そして膝を擦りむきました。

それには理由があるんです。



今回のワラーチは新しく作り立てのもので、少し大きめに作ってありました。

ただ、ワラーチは自分の足型の線になるべく近くカットしたいのです。
軽量化という意味もありますが、ワラーチの先端部分の巻き込みを防ぐことにもなるからです。


ワラーチが巻き込んでしまう状態

ワラーチが大きいと巻き込みで転倒してしまうのです。

ですが、ゴム紐と穴、足の位置関係、左右の足の運び方による違いから生ずるズレなど、実際に履いてから、なじませ、その足跡をみながらワラーチの形状を決めないと失敗してしまいます。
よくあるのはカットしすぎて足の指が出てしまうことです。

それで、敢えて大きめのワラーチで走ったわけです。

ですが、見事に巻き込みにハマり転倒しました。

早速、スーパーに入りマキロンを購入してシューしたのでした。

しかし、人間の血は赤いですね。
生きているということです。




次は幸手宿に入ります。

幸手は母の故郷です。

僕の母は戦後、幸手から東京の神田まで電車で通って、洋裁学校で洋裁の先生をしていました。
あの当時、とてもハイカラな仕事であったと思うのですが、それだけ苦労を知らずに育ち、裕福な田舎の家庭(農家)で育ったんだと思います。

それに、戦争の時、田んぼだらけの幸手は疎開先にもなったぐらいでしたから、空襲はなくて戦争の苦労も知らないと母は言ってました。

後々のことですが、洋裁を教えていた他の同僚の先生たちは皆、世間的にも名が知られるほど偉くなったそうです。

ですが、母は父と知り合ったことで運命が変わったのでした。

海軍兵学校卒で戦後、大手の会社で技術者として着実な仕事をしていたのに、サラリーマンを辞めてしまい、何故か、いい加減に歳をとってから大工になった変わり者の親父と知り合ったことで、そういった全てを投げ出すことになったのでした。
(子供のころから大工さんになりたかったらしいです。そして、親父は大工なのに微分積分ができました。)

田舎のお嬢さん育ちだからでしょうか、都会生まれで戦争でも苦労した厳格な親父の母とは相性が悪く、夫婦で同居していた家を飛び出し、借家住まいの貧乏生活を下町の日暮里で暮らしたのでした。

そこに生まれたのが僕だったわけです。
おそらく、祖母は母に陰ながら色々援助してくれていたのではないでしょうか?

ですから、幸手にはよく行きましたし、僕が行くと祖母はよく可愛がってくれました。
行くと、必ず大好物のハムがたくさん入ったマカロニサラダを作ってくれましたね。


いまでも、居酒屋にこれがあると嬉しくなり注文してしまいます。

当時の幸手周辺は一面が田圃だらけ
田圃以外に見えるものは屋敷森だけでした。
あとは、広い青空。


大きな農家で井戸があって、納屋があって、広い土間、台所、馬小屋があって、鶏は放し飼い、典型的な日本の農家でした。
使用人がいたので比較的大きな農家だったと思います。

トンボとり、ザリガニ釣り、積まれた藁の山にもぐったり、近所のヒデ川であそんだり、とにかく暗くなるまで遊びました。
都会の下町にはない遊びができました。

バケツ一杯採ったザリガニなんかは、祖母がその尻尾を甘辛く煮てくれましたね。

あれは、とても美味しかった。

あと、祖母の思い出というと、僕が夜店で買ったヒヨコ(オス)が大きくなり、とても家では飼えなくなって幸手の田舎に預けたら、数か月後に田舎での親戚同士の集まりで、から揚げ!になってお皿の上に出てきたのですが、その事実を知って涙があふれてしまってメソメソしている僕の頭を撫でてくれたこと、忘れませんね。

でも、そのあとで美味しく食べたのですから、あの涙はなんだったんでしょうか?

そうそう、井戸で冷やしたスイカはとても冷たくておいしく、冷蔵庫で冷やしたのとは違う味だったような気がします。

そんな幸手宿なので、街道を走っていると、どこかで見たような景色がいくつもあり、子供の頃を思い出したのでありました。

(つづく)



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