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岩手県盛岡から四季通じて自然、食の情報を発信します。

自転車で見た三陸大津波

2016-10-13 17:23:56 | 日記
自転車で見た三陸大津波防潮堤をたどる旅
武内 孝夫 平凡社
三陸では新たな防潮堤の高さがはたして津波を防げるか、すでに津波から守るべき住民がすでに高台移転しそこに防潮堤を作る意義を問われている地域もあります。
ふりかえり防潮堤に守られ町が津波から救われたり減災につながった地域もある反面無用の長物として扱われた地域もあります。
著者は三陸沿岸を自転車で南下し津波の被害からその後の防潮堤の意義を住民の声に耳をかたむけ取材をしています。
子どものころに田老の民宿に泊まったころはあの防潮堤はあったと思われます。
津波であの民宿や夜に行った銭湯のあたりはすべてが流されていました。
一階は水没するも唯一残ったのは漁協の建物でした。その玄関先には組合長の胸像も津波の難を逃れてそのままありました。
水没した一階は物置として使われ二階から上は通常業務が行われていました。 その防潮堤に守られいると避難しなかった町の人の多くは亡くなりました。
この町は宿命的に津波から逃れる事はできません。対策としてさらに強固な防潮堤を作る事で津波から町を守る決断を行政は下しました。
それには、高台移転する用地の確保が難しさがありまたかさ上げには多額の費用がかかるからになるようです。
三陸と行っても広大な地域ごとに別れ行政単位は複雑さがあり正しい結論を見いだすことはむずかしいようです。
三陸の中で唯一親戚が暮らしているのが気仙沼になります。少年時代に列車と自転車(輪行)で行ったのが最初になります。
海辺の町とはかけ離れた小高い山の市民会館の近くにその親戚の家がありました。
その後も夏には何度か訪れました。この震災と津波でも無傷だったようでした。
海辺には、漁業関係者が住み住宅地が高台に追いやられ結果として難を逃れた事になります。
しかしやはり海とは生活圏が重なりあい、常に危険と隣り合わせにはかわりが無くいち早く海岸線の津波浸水域から逃れるしかない現状にはかわりはありません。
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