大尖山の中腹にあるお寺から陽明山を眺めていると、見ず知らずの中年男性に声を掛けられた。
「さっき撮った写真です」
小さな枝の蛹(さなぎ)から、蝶が飛び立つ瞬間を捉えた映像であった。生まれたばかりの蝶が羽ばたいている。
「この瞬間を捕らえるのに、どれ程待ったのですか」
「1ヶ月くらいかな」
それから度々、山門の石段に腰をおろし茶呑み話をする様になった。表現とは何か、創造と発見の相違と類似性、世界観、無常観、命の再生、神や祈りの実体、執着と悟りの逆説的な関係など、話は尽きない。その後仲良くなり、酒を呑み交わす席があった。
「名邑さんの小説は、何を描こうとしているのか」
説明は可能だが、放下禅には逆説と矛盾があり経験の無い方には理解し難い。そこで、分かり易い論点を御説明する事にした。
「得たいの知れない何か(Something Unknown)です。藝術などと考えた事はありません。既に分かっている想念を描くのではなく、書き出す前には見えなかった真理を、執筆しながら発見する思索行為です」
「何故、寺院が舞台なのか」
別に対象は何でも良いのだが、場所に拘らない観点にはそれなりの摂理がある。
「屋根にある作り物の彫像には、遥かな時空を経た生命体の祈りが因果的に伝わっている。宗教とか迷信とは次元の異なる観点です。常識や論理を捨てた処に現われる普遍的な真理を描くのです」
「真理とは、一体何でしょうか」
「普遍性がある事。裡(うち)に矛盾を含まない事。それだけの事です」
「寺に普遍性がありますか」
「その質問自体が、物理的な観点です。普遍性は、何にでもあります」
「チンプンカンプンな論理ですね」
「良くそう云われます」
それから何日かして、新たな写真を見せてくれた。寺の屋根に飾られた不死鳥だった。御無礼かとは思いながら、小説を仕上げる基本想念があったので率直な感想を述べた。
「構図が完璧でないと思う。撮っている藝術家の思いが、光と影の中に出過ぎていませんか。不為(ふい)の均衡は、自然に現われた様に表現すべきです。蛹(さなぎ)から蝶が飛び立つ瞬間と同じ事です」
写真家は、頷きながらふと印象的な独り言を漏らした。
「山門が邪魔をしていて、絶対的な角度が見付からない。どの時刻が良いだろうか」
その後彼は、何度も何度も執拗に撮り直した。炎天下の日も、寒く曇りがちの日も、大雨の日も、朝も晩も異なる視点から彫像を捉える。その度に、カメラとフィルムの組み合わせを変えたという。その不死鳥の写真を、「血文字の遺言」という小説のカバーに使わせて頂いた。
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古代・道(ダオ)思想の中に「聖存一葉法舟(聖は一葉の法舟に存す)」という想念がある。葉も舟も、物理的な意味ではなく存在概念の象徴と捉えるべきである。法は、法律とは次元の異なる宇宙の摂理を指している。
象徴的に表現すれば、小さな雫(しずく)から樹木の命が生じ、一枚の葉が枝からせせらぎに落ちる。木の葉の小舟は河に流され、森を通り抜け、嵐に出遭い、四季に翻弄される大平野を抜けてゆく。そして、生命の循環法則が大海に流れ込む。その果てには、精神世界の原点、大きな円環構造、そして円心構造がある。物理的な世界観ではない処が、難しそうにみえて意外と単純なこの世の実相かも知れません。