名邑十寸雄の手帖 Note of Namura Tokio

詩人・小説家、名邑十寸雄の推理小噺・怪談ジョーク・演繹推理論・映画評・文学論。「抱腹絶倒」と熱狂的な大反響。

@ 非論理エッセイ 【ソクラテスの言葉の嘘】

2021年01月11日 | 日記


「自分は何でも知っていると云う人間と、自分は何も知らないと云う人間が居る。どちらが賢いか」
 これは、ソクラテスの言葉だそうです。さて、如何なる答があり得るでしょうか。ソクラテス曰く、「知らないと云う方が賢い」。本当にそうでしょうか。

 タルコフスキ-の詩に「私は賢く愚かだ」と云う一節があります。参考になりますか。ならない。それでは、より分かり易い観点から考えて見ましょう。

「賢くなければ、自分の愚かしさに気付かない。自信過剰の愚か者でもなければ、自分が賢いなどとは思わない」
 これなら論理的ゆえ、聡明な読者諸氏であれば理解出来た事でしょう。余計混乱した…。確かにソクラテスの論理には矛盾があります。が、論理哲学はどれも同じ様な屁理屈ばかりです。

「あるがままの賢さと、あるがままの愚かさがある」
 これで、ご納得頂けたかと思います。
「だから、何なのさ。そのまんまで、何も分からん」

 それでは、どうせ分からないものと諦めて、禅思想風に付記させて頂きます。

 質問にも答にも意味がありません。二元論を排して、絶対的な根本義を求める。そう悟った時に真理が見えます。これなら、お分かりでしょう。チンプンカンプン…ですか。参ったね。

 そういう方は、御存分に迷って頂く他ありません。人間は、迷いたいから論理を求める訳です。理屈を勝手にこね回して智性と呼ぶ。従って、ごく自然な人類の因果とも云えます。






@ 非論理エッセイ 【本格推理作家廃業】

2021年01月11日 | 日記
 江戸川乱歩という推理作家兼評論家に「探偵小説の謎」という病的な本があります。ありとあらゆる殺人のトリックが項目別に整理されている。将来推理作家を目指す少年少女諸君が、何か独自の殺人トリックを考え出したと思ったら参照すると良いでしょう。同じ方法が記載されていれば使わなければ良い訳です。もっとも、これは良心的な作家の場合です。

 殺人トリックなど何処が面白いのでしょうか。推理作家として、まじめにそう思います。密室殺人など、ロボット万能の世の中になれば馬鹿げている。アリバイ証明などコピー技術の氾濫で陳腐になった。遠隔殺人というのなら宇宙衛星からレーザー光線で殺せば良い。これは、仮想論理ではなく現実の話です。そもそも、人を殺すのに大掛かりな仕掛けを考える馬鹿が何処にいるでしょう。

 著作権や版権が持てはやされる時代ですが、著作権切れの名作が読書候補に並んでおります。「太陽がまぶしかったので殺してしまった」という物語があります。主人公は嘘吐き偽証と異端視され死刑に処される。人間世界や裁判の真実を描いた「異邦人」と云う作品です。これなら、殺人の動機として永久著作権を差し上げたい。トリックでない処に絶妙の面白さがあります。謎を通してこの世の真相が現われる。こういう作品に「本格」という形容詞を付けたいものです。

 本格推理小説と謳うからには、「推理のトリック」が描かれるべきではないでしょうか。事件解決の方法論に主たる面白みがあります。帰納法、演繹法、はったりショック療法、暗示、催眠療法、誘導話法。どれも目新しい事ではなく科学的な方法です。一番高度な作法は、真理や真実が暴き出されるソフォクレスやカミュの様な作風です。

 こういう事を書くと、「本格推理小説の伝統に反している」と揶揄されます。「犯人を見つける物理的なヒントが物語に隠されていなければならない」「そのヒントが序盤にある程高度な本格推理小説」と云われます。本当にそうでしょうか。何もヒントが無い事件を演繹推理で解決する方が格段に面白い。物理的には何もヒントが無いからこそ、本格推理と云える。ヒントは、複層した物語の背後に確としてあります。「太陽がまぶしかった」という事実の背後に真実が現われる。そんな推理作家がいても良いと思いませんか。思わない。馬鹿ちょん。失格退場ですか。参ったね。では推理作家を廃業します。さようなら。

 推理小説家を廃業して思い付いたのがSF作家です。作品も幾つかある。それが良い。と、そこで大きな問題に突き当たってしまった。「サイエンス・フィクション」とは、「科学的な作り話」を意味します。科学的とは論証可能という事です。論証可能な嘘の話。そう考えると夜も眠れません。

 ありとあらゆるSFは「ノン-サイエンス・フィクション(非科学的な作り話)」略してNSF小説ではないでしょうか。これが悩みの種です。「月世界旅行」「2001年・宇宙の旅」「猿の惑星」「日本沈没」「ET」「12モンキーズ」。数え上げるときりがありません。どう考えても非科学的です。月に宇宙人はいないし、神をだしにしたモノリスもあり得ない。猿が地球を征服、太平洋の断層がごく短時間でずれ日本列島が消える、田舎なまりの米語を話す宇宙人。あり得ません。

 ノン-サイエンス・フィクションの中では、映画監督タルコフスキーの「惑星ソラリス」が面白い。「ストーカー」など絶品です。ところが、ソラリスの作家は「原作を改ざんした」と怒ったそうです。「SFとはいえない」という訳の分からない暴論まであります。「ストーカー」はCG発祥以前の作品ですが、所謂特殊効果さえ使っていません。ちなみに、CGとはコンピューター・グラフィックを差します。コンパニオン・ガールの略称ではありません。

 それならホラー作家にでもなろうか。老人が巨大な海の怪物に呑みこまれてしまった「老人と海」。宇宙で一世紀の間一人で暮らしした「百年の孤独」。二色の怪物に襲われる「赤と黒」。駄目でしょうね。仕方がないので、純文学作家にでもなる他ありません。人生妥協も必要ですが、本格推理作家も落ちたものです。



@ 非論理エッセイ 【柳田國男の言葉】

2021年01月11日 | 日記
「ウソつきはどろぼうのはじまりなどと一括して、これを悪事と認定するような風潮が起こった結果、子供たちはおいおいにウソを隠すようになってきて、新たに不必要に罪の数を増やした。こういう点にかけては、近代人はかえって自由ではない」

 本当の事がちまたで語られれば世界は混乱します。この世の中は、様々な嘘の効用で均衡を保っている。ウソは社会の要である。と云ったとたんに非難ごうごう。そういうあなた方も、朝から晩まで嘘ばかり吐いているのに。良い嘘の例を上げてみましょう。

「何と粋な嘘だろう。善意の方々を救った」
「嘘吐き。本当は、君の罪ではないのに。お陰で助かりました」
「あの嘘は上手い。思わず笑ってしまった」
「立派な嘘だった。正しい世界観を取り戻した」
「これから嘘を云います。弱者や被災者を傷付けたくないから」

 これで良いのではないでしょうか。良い嘘の真意を、方便と考えるのが正しい見地です。間違った道徳律に染まった頭の固い連中も、方便を云うなとまでは云いますまい。ジョン・フォードの映画や山本周五郎の名作は、良い嘘が主題を支えています。

 嘘は吐けつけ茶釜で湧かせ。荘子老子を読んではみたが、嘘を吐くなと書いてない。

 とはいえ、人様を陥れる悪意の嘘はいけません。教養とは、優れた嘘に大きな働きをさせる智慧ではないでしょうか。その中でも至高の精神は、自ら不利と知りながら正義感から沈黙を守る事です。家族や同胞を守る為に命を落とした例が、歴史上数多々残されている。そう思う時、人類は偉大だと信じられます。希望に満ちた未来があるとすれば、先ず正しい嘘の存在意義を確かな観点から見直し社会通念にすべきかと思います。道徳という言葉に意味があるとすれば、善意の嘘こそその中心に据えるべき犠牲的精神なのです。

 僕なども、小学校で親友の罪を被った事がありました。処が、その友人は自分の罪だと届け出たのです。両親を呼び付け自宅謹慎の懲罰と先生に云われました。が、彼の勇気ある行動の為に二人とも無罪お構い無しとなったのです。あれ程想い出深い事は、ありません。あれ以来、人を信じられる様になりました。

 え...どんな罪だったか知りたい。下世話な興味にはお答えしませんし、そもそも彼の名誉を傷付けたくないので「忘れてしまった」と嘘を吐くのが正しい見地かと存じます。






@ 非論理エッセイ 【禅の非論理的真理】

2021年01月03日 | 日記

 「論語」で有名な孔子は「智とは何か」と問われて、「人を知る事だ」と答えたそうです。社会道徳や人の世の成功などという、ごく狭(せま)い観点(かんてん)であれば一理あります。しかしながら、人の思惑など大したものではありません。人の智を超えた処に、本当の智があるのです。

 【智】に関して、禅の創世期に分かり易い例があります。
 時の権力者武帝に追放された壁面対坐九年の達磨禅師を、若い修行僧が訪れます。が、達磨は相手にしません。何度も拒絶された若者は、決死の覚悟で腕を斬り嘆願します。その真摯な心を察した達磨は、何を知りたいのかと問い掛けました。
「心が不安に襲われます。安心を得る法を、お教え下さい」
 達磨は、鋭い眼光で睨み付けます。
「それなら、その不安と云うものをここに出して見ろ」
 若者はいささかもたじろがず、凛とした眼差しで達磨を睨み返しました。
「不安は『心に生じる迷い』ゆえ、お見せする事はかないませぬ」
 その答自体が、若者の求めていたものでした。達磨は、相手の心を看破したのでしょう。
「ほら、お前は既に安心を手に入れたではないか」と諭しました。
 心に生じた幻であれば、平常心を保ち智慧の力で解析し、正しい見地に立つ気魂で消し去る事が出来るという事なのです。この「不安」をより現実的な「災難」という語に置き換えても同じ事です。
 更に云えば、貧、病、厄(くる)しみ、災い、争い、失、死は、森羅万象を覆う当然の理。苦にあらず。こうなると、生半可な覚悟で至る事の叶わぬ境地と云えましょう。が…その実体は、唯単に「あるがままの摂理を、受け入れるだけの事」なのです。

 達磨を訪れた若者は、瞬時に悟ったと伝えられます。寓話にせよ、優れた【智】の表現だと思います。この若い僧・慧可(えか)は、達磨の跡を継ぎ禅の第二祖となりました。そして、その後代々と続く名僧の号に「慧」を付ける伝統が生じたのです。中国禅の祖師と云われる「本来無一物」の六祖・慧能、禅の頂点を極めた臨済慧照、「臨済録」を遺した名僧・三聖慧念などがいます。智慧の慧、禅慧の慧は、【智】のかなめ。その概念には、正しい見地が求められます。更に云えば、智も禅も接近方法に過ぎず、究極の回答そのものではありません。求めるべき真理とは、ひと言で云えば「人の思惑を超えた、内に矛盾を含まぬ普遍の摂理」です。一輪の花で良い。何か一つでも…この世の真理に触れる事が出来れば、限りない無欠の法則が観えて来ます。

 アインシュタインの「E=MC2(特殊相対性理論)」は、物理的な真理に違いありません。しかしながら、精神世界の真理は科学では容易に検証され得ない。何次元もの異相を超えた論理が求められます。一りんの花に込められた生命の美しさには矛盾が無く、ものとしての価値を超えた普遍性がある。喩え地球が滅びたとしても、生命体系の摂理法則は永遠に続く。究極の因果律は、コンピューターでは解析不可能です。その絶対性を計算し切れず爆発してしまう事でしょう。思想にしても藝術にしても、科学論理的な論証はそう簡単ではありません。
 何故放下(ほうげ)せねばならないか。そこにこそ、智や禅の存在理由があります。単に、間違った前提を捨て去るというだけの事ではありません。「分母=ゼロ」詰まり「分子=無限」となる真理は、直観する以外に方法が無い。コンピューターと違い…無限の「意識」を持つ人類の脳は、捨てられ自由になった情報や想念を融合して関連付ける事が出来る。すると【一即多】が観えて来るのです。

 放下とは、一面的な論理に拘(こだわ)る執着を捨てる事を意味しています。
「戦争するからには、勝たねばならぬ」
 本当に…そうでしょうか。
「降伏しても、争いは避けるべきである」
「決して仕返しをしてはならない。何故ならば、報復は報復を呼び、その原因さえ不明となった殺戮が、未来永劫続けられるからである」
 平和を導く正しい見地は、計算方程式からは導き出されません。機械や軍人、或いは利害関係と人惑に固執(こしつ)する政治家には、理解不可能な【智】が求められるからです。計算、戦略などコンピューターの様な論理に依存する人々に任せれば、虐殺と略奪が延々と繰り返される。人間の尊厳は、この一点に掛かっていると云えない事もない。その摂理を導く方法論を、【智】と呼ぶのが正しい見地ではないでしょうか。

 それ程難しい思想ではありません。単純に過ぎるだけの事なのです。良識と信念さえあれば、誰にでも理解出来ます。「あるがままを捉え様とする純粋無雑な心」が【智】の極地たる大悟正覚に近いものと云えるでしょう。






@ 非論理エッセイ 【目と尻尾の関係】

2021年01月03日 | 日記

 孟子は「目が心をあらわす」と云いました。「目は心の窓」と喧伝する方々が多い。本当にそうでしょうか。

 「心が澄んでいれば目も澄んでおり、心が歪んでいれば目も濁っている」と信じる人々が意外に多い。眼病や、目に怪我をした方々に取っては大きな災難です。

 実際には、目は人格に殆ど関係が無い。多くの悪人は目を引き立たせるのがうまく、善良な人間は逆にそんな事を気にしないので目の表情はにぶい。目は単に喜びや怒りや悲しみといった人間の表層心理を直截に表現するだけの事であり、善悪の表現はむしろ逆に出る。善人は善を意識せず、逆に悪人は偽善(ぎぜん)の型を意識するからです。嘘だと思う方はまわりを見渡して御覧なさい。いつもニコニコしている本物の人物は居ない。そういう方は、自分を偽って見せ様とする癖が付いているのです。優れた人物が一般社会では意外と評価が低く、邪悪な人間の評価が高いのはその所為ですが、利益優先社会に於いては奸智に長けた悪人が物理的な功を成し出世するのも事実です。

 目で何かを表現しようとする一流の人物はいない。希求止む処即ち無事。何も望まない無垢な心のままです。超一流の芸術家や大人物にそれと知らずに接すると、凡人という以上に間が抜けて見える事があります。尊敬する人物の名を挙(あ)げてみれば、直ぐお分かり頂ける事でしょう。誰も愛想笑いなどしません。彼等は、人の思惑など気にしない自然体だからです。

 さて「目と尻尾(しっぽ)の進化論的演繹推理」です。犬などの四つ足動物は、目で感情を表現しません。尻尾の動きに自然な感情が出ます。進化の過程で尻尾が消えるに従い、目で感情表現する様になりました。

 美しいお嬢さんが、黒い瞳を輝かせながらあなたを見詰めている。それが嘘かまことか見破るのが難しくなりました。
「君の目はどうしてそんなに澄んでいるの」
「貴方をもっと見詰めたいから」
 これは、夜の社交界に限らず、恋愛から結婚となる一大悲劇における常套句です。

 四つ足動物であれば、尻尾が垂れているか、尻尾を振っているか、或いは姦計を巡らして尻尾を逆立ているか、ひと目で分かった事でしょう。





@ 非論理エッセイ 【塩男の不思議】

2021年01月03日 | 日記
「私はつたないサラリーマンです」という言葉を耳にする事があります。喉元に骨が引っ掛かる様な違和感が生じる。間違った表現とは云い切れない周囲の常識的慣習が、却って疑念を募らせます。サラリーマンという言葉は、現代の国家的大企業の社長にも当てはまります。サラリー(給与)とマン(人間)を合体した「サラリーマン(月給取り)」は和製造語です。発生当時は、大企業に勤める会社員の方が個人商人より上だという意味合いもあった様です。「私は優れたサラリーマンです」と使われたかも知れませんが、どちらにしても無意味な謙遜か虚栄に過ぎません。それはさておき。

 別な観点で造語感覚に違和感を覚えたのは、英語のその又語源が原因しています。元々「サラリー」は、ラテン語で「塩」を意味します。古代では高価な塩で支払いをしたのを、英語圏で給与という意味に変形された歴史がある。欧米では、サラリーマンでは先ず通じません。ラテン系の国だと「塩男」になってしまう。こういう野暮な和製英語は、他にもあります。空っぽのオーケストラだから「カラオケ」。パーソナル(個人の)・コンピューターを「パソコン」。ジーンズとパンツを合体させて「ジーパン」。何故「ジーンズ」ではいけないのか首をかしげたくなります。そこに、日本独特の国際的閉鎖性があるかも知れません。ロス・アンジェルスを「ロス」と表現するのは日本だけです。アメリカでは通じません。ロスと云うのは冠詞ですので、言語学的にも文法的にも無知な発想と云えるでしょう。

 サラリーマンと云う造語には、現実に存在すべきでない様な、造語として稚拙な面を感じます。現に「サラリーマン」と表現すると、欧米では「日本の労働者」と侮蔑的に嘲笑される事があります。「ビジネスマン」「ホワイト・カラー(White Collar Worker)」という方が粋かと思いますが、いかがでしょうか。

 開き直って、汗だくになって働く「塩男」だから「サラリーマン」と洒落るのであればすんなり納得出来ますし、逆にラテン語圏で流行語となるかも知れません。

 国際交流の場では、オリジナル言語族に悦ばれる感覚が望まれます。様々な効用があり、将来的に多国間紛争を失くすには言語表現が重要です。その背後には想念、更に思想が隠れている。文学だけでなく、音楽や絵画、舞踏、演劇にも同じ効用があります。

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良い言葉もあります。「スキンシップ」は米国女性の発案ですが、日本と一部のアジア圏で使われる造語です。英語の「タッチング(おさわり)」などとは異なり、親と子の情愛が現われている。しかしながら、英語圏の女性や母親にこの造語をむやみに使うと、いきなりどつき倒されます。嘘だと思われる方々は、是非お試し下さい。