名邑十寸雄の手帖 Note of Namura Tokio

詩人・小説家、名邑十寸雄の推理小噺・怪談ジョーク・演繹推理論・映画評・文学論。「抱腹絶倒」と熱狂的な大反響。

♪ スクリューボール・ジョーク 【恐怖の古文書】

2021年05月19日 | 日記
「世界一恐ろしい身の毛もよ立つ様な恐怖の本はありませんか」

「五百万円出せば…無い事もございませぬ。いわく付きの古文書です」
「是非読みたいが、少し高いな。四百五十万に負けてくれ」
「いいでしょう。但し、条件があります。決して最後のページを見ないと約束して下さい。そして、その約束が守れない場合には、心臓麻痺…心筋梗塞…脳卒中…他にも命に関わる危険があります。過去にこの本を手にした方々は、哀れにも…既にこの世におりませぬ」
「そ、それは一体…」
「何が起きても、当店は一切責任を負わぬという書類に署名して頂きます」
「一体、何が書いてあるんだい」
「この世の黙示録…想像を絶した生き地獄が描かれております」
 金を払い、契約書にサインを済ませ本を受け取ると、直ぐに最後のページを開いた。

 そこには…、定価百三十円と書いてあった。


¶ キネマ倶楽部 【理想的な映画監督】

2021年05月18日 | 日記
「断崖絶壁の端に黄金の箱がある。君が箱を掴んだ瞬間、岩場は爆破され、箱と共に百メートル下の荒海に落ちる。銀幕のスターたる迫力ある演技の見せどころだ」
「サメが、うようよ泳いでいますね」
「死んでも黄金の箱を離さないでくれ。宝を守り抜く勇気を、体全体の動きで表現するんだ」
「箱の中身は何ですか」
「そんな事は如何でもいい。映画を面白くする小道具に過ぎん」
「ちょっと待って下さい。海と云っても、とがった岩場だらけじゃないですか」
「だからこそ冒険恐怖サスペンス喜劇映画になるんだ。大ヒット間違いない」
「主役の僕が死んでしまったら、どうする積もりですか」
「それは本格推理的要素だな。宣伝に使えるかも知れんから、編集の時に考えてみよう」
「と云う事は、詰まり」
「これが、最期のシーンなんだ」

 これは、数々の名作映画で引用される有名なジョークです。

             *

 「蜘蛛の巣城」という映画があります。シェークスピアの「マクベス」に能の技巧を交えて日本風に映画化するという発想だけでも、黒澤明監督の優れた感性が感じられますが、同時に「理想的な映画監督」に特有の強かな計算もあります。

 ラスト・シーンに、主役の三船敏郎目掛けて矢を射る場面があります。首に矢が刺さる場面は特撮です。さもなければ死んでしまうので当然と思われる向きもあるでしょうが、その背景には驚くべき撮影現場の実話があります。それまでの幾多の矢は、本当に射られたのです。戦前戦後のアメリカ西部劇では当然の如く使われた撮影方法です。三船敏郎も、話を聴いた時点では驚きませんでした。あらかじめ方向の定まった一本の矢であれば除けられるかも知れません。が、両側からあれだけ大量に射れば逃げ場が無い。それも、上半身から頭という高い位置を狙っている。「映像では近くに見えるが、撮影技術でそう見せているだけで実際にはかなり距離がある」という安心誘導的おためごかし風の弁解説明もありますが、建物の模様や手の届く画面から計算するとせいぜい 50 cm程度の距離でしょう。射手の手元が狂えば、役者の命はありません。「危険過ぎる」という三船敏郎の苦情に対する黒澤監督の言葉が残されています。

「心配要らんよ。絶対に当たらないから」

 何故余計な実話をブラック・ジョークに加えたか、お分かりですね。この矢を射る危険な撮影は、最後のシーンだったのです。

 撮影後、三船敏郎が黒澤邸に押し掛け「バズーカ砲で殺してやる」と云ったという後日談が遺されました。本気であれば、バズーカ砲という表現はしません。多少の怒りを込めた朗らかな非難を、繊細な神経を持つ取り巻きの方々が曲解して伝えたのでしょう。

 サメのいる荒海に飛び込めというのはジョークですが、過去の撮影現場には危険な例が多々存在します。二頭のはだか馬に両足で立ったまま走れと命令したジョン・フォード、船が山の斜面を滑り落ちた為に怪我人を出し、毒蛇に噛まれた男の足を切り落とす他なかったヘルツォークの「フィツカラルド」、スタント・マンが骨折した「ベンハー」、「メリー・ポピンズ」でクレーンから落ちたジュリー・アンドリュース、本当の火災現場となり撮影隊が逃げた後も役を演じ続けた「七人の侍」の名優諸氏など、数え上げればきりのない恐怖実話があります。

 映画に限らず、オリンピック級のスポーツ選手であれば、危険な練習は当然乗り越えねばならない前提ともいえます。脇役で終わるか、自分自身の主役を演じるか、それはその方々御自身が決める事です。ここで主役という意味は、世間体からとらえた価値観ではありません。

 文学作家も、危険な現象に巻き込まれた経験が物語の背景に流れる事があります。偶然とはいえ、僕などはその最たる破天荒タイプと云えるでしょう。過酷な世界を生き抜いた実体験は透かし絵の様に作品の影となるのです。思い起こせば、関与した百件以上の相談事は異常な事件ばかり。海外在住が長かった為か、それぞれの国の情勢や対処法に悩む日系大手企業から刑事犯罪、何億円単位の金銭トラブル、駐在員や出張者の不始末から生じた犯罪組織相手の交渉事など、警察トップや刑事弁護士でも逃げ出す様な相談事ばかり。共同経営者の一人は米国と中華圏を股に掛けた華僑協会の会長でしたし、取り引きのある経済界トップばかりでなく、政治家や警察高官との交友関係が背景にあります。藁にもすがる様な依頼側の事情がありましたが、要するに誰も相手にしない狂気じみた案件ばかり相談を受けました。詐欺、盗難、誘拐、強迫、傷害事件ばかりでなく、殺人事件まであります。短時間で次々と解決した噂が広がり、思いも寄らない人物から相談されたものです。流血事件に発展した経験もありますが、慣れていた上に解決までの時間が逼迫していた為か生命の危険に無頓着でした。反社会的勢力相手の交渉現場では、強靭な若い男性スタッフが恐怖からお洩らししてしまいましたし、戦場の如き修羅場では...と書き出すと十冊の本になる程なのです。一触即発の緊張状態となった会談の席で、世界的に有名な集団No.1のボスに「今まで会った日本人の中で一番恐ろしい人物」と云われた事さえあります。その理由を問うと「何も恐れていない」と答えたので「それは君の方だろう」と云うと、にこりと笑顔を見せて呉れました。
 今になって残念に思うのは、依頼なさる多くの日本企業側に大きな非があった点です。それは話を聴いただけでも分かりますが、皆さんいけしゃあしゃあと嘘を並べ立てる。サスペンス小説の参考にはなるかも知れませんが、結果的に悪人の命を助ける結果となった例もあるのです。

 しかしながら、そんな実話は表に描きません。作品が臭くなるからです。「この物語はフィクションである」とわざわざ但し書きを添え、読者には分からない様に仕上げます。事実に拘ると、無為自然で尚且つリアルな物語も、その底辺に流れる主題思想も描き切れません。政財界に広い交友経験があると、多くの偉人伝説の虚実は何となく分かります。彼等の実像には、文学で描く程の魅力が無いとも云えるでしょう。優れた文学・映画・演劇は、考え方や行動を通して何らかの思想を表現する藝術です。政治、経済、法律、歴史の観点では、多くの真理が見過ごされる。そう信じる創作家は、文学・映画・演劇の世界に湯水の如く存在します。

 ノンフィクションや歴史劇という文学ジャンルがあります。が、有名な評伝や作品は嘘だらけです。そもそも人間(じんかん)に伝わる話は全て伝聞なので、「山本五十六」や「勝海舟」、「平清盛」や「卑弥呼」も、御本人が聞いたら訂正なさる事は先ず間違いありません。高視聴率を上げ有名人を集めたTV番組の標題に「山本周五郎」とあったので、つい観てしまいました。山本翁が如何に苦労したかという推論や、勝手に選んだ作家のメモ書き、本音をいう筈もない大人物と付き合いのあった凡庸な編集者の好い加減な作り話ばかりで、かの大作家が如何に文体と文学思想を極めたかという観点は微塵もありません。それは兎も角も、出演者は碌に本も読まない方々ばかり。更には、数段格の落ちる作家諸氏の誹謗中傷や褒め言葉など、どちらも意味がありません。こんな番組をご覧になって、山本周五郎の思想を分かった様な気になるのは如何なものでしょうか。とはいえ、番組自体に悪意がある訳ではなく、製作側の意図も良く分かる。作家名に惹かれつい観てしまった馬鹿さ加減を自嘲するばかりです。現代日本の風潮を軽く受け流すのが、精神衛生上良いのかも知れません。小津安二郎監督の名言にある通り、戦時下を思えば平和な時代になったとも云えます。

 古いとか新しいと云う観点も、技巧だけを云々する評論も間違っています。どんなジャンルにもせよ、優れた作品には幾千万の技巧が尽きた処に生じる溜めと間合い、更には何らかの根本思想があります。要するに...本ものと偽せものがあるだけの事かと思いますが、如何でしょうか。









¶ キネマ倶楽部 【バベットの晩餐会】

2021年05月18日 | 日記

 百点満点の藝術作品。尚且つ可笑しい。これに並ぶ完璧な映画は、歴史上数作しかありません。何十回と改めて鑑賞する度に、奇跡的とも云える完成度に唸らされます。

 観客に分かりにくい観点が一つだけあります。それは、モーツアルトのオペラ「ドン・ジョバンニ」から引用される「お手をどうぞ」という短い歌です。この歌は、愛を語った楽曲ではありません。悪漢ドン・ジョバンニが若い女性を騙すシーン。詰まり、悪意に満ちた唄なのです。この重要な要素が、ドラマの主たるモチーフに繋がる。「藝術的なフランス料理は悪魔の宴席」だという大きな誤解を引き起こす心理的な伏線となっているのです。

 牧師の娘の美声に感嘆したオペラ歌手が、純情な娘に声楽を教える。この恋は、音楽と一体になった芸術的ロマンスです。しかし、選曲(お手をどうぞ:色事師の唄)を誤った為に振られてしまう。嫌われたのは劇中の悪漢ドン・ジョバンニなのに、純真無垢な青年歌手パパンが報いを受ける。あの深みのある可笑しさは類を見ません。モーツアルト作曲のこの世のものとは思えないほど美しいメロディゆえに、尚更可笑しい。俳優には殆ど不可能に近いオペラ歌手アシール・パパンの役を、ジョン・フィリップ・ラフォンが快演しています。卓越した歌唱力だけでなく、人間的な深みと大きさのある演技者でないと無理な設定ゆえ、他に当て嵌まる役者は考えられません。どの時代の名テノールでも、歴史に残る名優でも演じ切れない難役と云えます。

 それから十数年後、パリ・コミューンで夫と子供を虐殺されたバベットが、パパンの手でデンマークの田舎町に逃れて来る。そして牧師の娘二人にかくまわれる。脚本家が上手いのは、バベットの料理の腕前をさりげなく丁寧に見せるプロットです。ハムを買いながら「前回の肉は腐っていた」と皮肉を云うシーン、海辺の漁師を巧妙に値切る場面、今まで不味かった干し魚入りビール粥が天上の美味となる。本当の藝術家は、材料が多少悪くても良い作品に仕上げるものですが、良い素材に出会えば一期一会の腕を発揮します。宝くじに当たったバベットは、思い掛けない大金を一夜のフランス料理とワインに惜しげもなく使い果たす。

 この名画は、料理を描いただけの話ではありません。放下禅の真理に則った美学と云っても良い。宗教的な迷信から、二人の老婆はフランス料理を悪魔の晩餐会と誤解する。ところが、一つずつ現われる本ものの料理、グラスのシャンペンやワインの味から目を覚ましてゆく。宗教感を超えた思想表現、味覚以上の巨大な世界を追体験する味わい、ワインを超える香ばしさ、それは映画の随所にちりばめられた製作チームの世界観と魔法の様な映像技術に支えられています。主義も主張も要らない。喜怒哀楽の表層感情にも拘らない。何事にも遅すぎる事はないという正しい想念。バベットの起こした奇跡は、夢や神秘体験や迷信とは異なり、確かな現実の中に確として存在する真理です。「天国の天使達をも魅了するでしょう」という最後の台詞には、正しい見地の重みがある。

 デンマークだからこそ、カレン・ブリクセンほどの人物ゆえに捉えた大きな世界観がある。著者は当時重病で、数々の苦難を背負っていました。だからこそ、こういう物語が書ける。ここに矛盾はありません。俳優諸氏も、これ以上ない上手さです。演技の窮みともいえる名優諸氏の気魂が込められている。価値観の変わる百年後でさえ、間違いなく映画史に遺るであろう名作です。さもなければ、未来はないとも云える。精神、ヒューマニズムなどという曖昧な観点ではありません。世界の在り方、人間存在の根本義を的確に表現した作品です。