おじいちゃんの家に、「けえいっさ=けいいちさん」と呼ばれているおじいさんがいた。
おじいちゃんの家(私の母親の実家)は、いわゆる過疎地、本当の奥まった田舎の旧家だった。そこに、住み込みの昔の言い方で言うと、「作男」の「けえいっさ」(正確には「けえいっつぁ」という発音になるかしら?)がいた。
けいいっさは寡黙で、いつも土間に一番近いところに一人ポツンと座っていた。
少し離れたところに箱膳と呼ばれる一人ずつの小さな机のようなお膳(引き出しがついていて、そこにそれぞれのお茶わんとお椀とお箸が入っている)の前に、おじいちゃん一家が座り、食事をしている。
水が大切な山間部なので、それぞれのおちゃわんは洗わずに、食事の最後にお茶をお茶わんに入れ、沢庵で、回りのご飯をおとし、それを今度は味噌汁のお椀に入れて、綺麗に飲みほして、一人ずつの箱膳に入れる。
しつけは厳しいとはいえ、従兄弟たちはにぎやかに食事をしている。
おじいちゃんは明治生まれの髭をたくわえた、頑固一徹の、笑った顔は見たことのない人だった。私はちょっと怖くて、おじいちゃんの膝に乗ったりなんて出来なかったけれど、従兄弟たちは遠慮なくまとわりついている。
一家の食事が終わるころ、土間をつたって、やってきた、けいいっさは上がりがまちに腰かけると、地下足袋をぱんぱんとはたいて、自分の席に着く。
すると、おばあちゃんが、ご飯を盛りつけてやりに、黙ってけいいっさの前に座って差し出す。けいいっさが口の中で何かもぐもぐしながら頭を下げる。
そのあと、おばあちゃんは神棚にお供えしたカチカチになったご飯を、猫のえさ入れにぼんと入れ、残った味噌汁をぶっかけて、猫にやる(文字通りねこまんま)
けいいっさは、一人前を向き、もくもくと食べて、食べ終わると、タバコを煙管で吸うと、しばらく、そのまま、たたずんでいる。
そして、2階の蚕部屋脇の、自分の部屋へ上がっていく。
夏休みは、しばらくおじいちゃんの家で過ごしたが、けいいっさは昼間は田んぼや畑で、もくもくと働いていた。
たまに母親がタバコ銭だと、いくらか握らしてやっていたが、彼がいわゆる給料というものをもらっている様子はなかった。
夏休み、一人でおじいちゃんの家に行った時、おばあちゃんと二人きりになった時に聞いてみた。「けえいっさには、お給料って払っているの?」
おばあちゃんは、「あの人には、ちゃんと住むところも着るものも食べるものもやっているから、給料はなくてもいいんな」と言った。「それでも、ちゃんと払わなければいけないんじゃない?そうすれば、ちゃんと家庭も持てるでしょ?」その時なんて答えたのか、覚えていない。結婚はできないと言ったか、そんな(事が出来る立場の)人ではないと言ったか?そんなことを言ったように思う。
その時「飼い殺し」と言う言葉が思い浮かび、学校の授業で、戦後の農地解放の事を知り、戦前に「作男」とよばれる人たちがいたことを知った私は、彼がそう言う立場の人ではないかと、気になった。江戸時代は結婚できる人は商家なら、番頭さん以上だったとかで、独身で一生終わる人も多かったそうだ。農家や商家で一生そこで結婚もせず「飼い殺し」になる人も多かったと聞く。
昔の旧家の農家にはそう言う人がいるのが当たり前だったと、母は言う。けいいっさとなれなれしくしてはいけないとも、言われた。従兄弟たちもけいいっさがいてもいなくても、まるで空気のように、だた、そのにいる「物」としているように見えた。
そのころの田舎、特におじいちゃんの家のように山間部では耕作用の機械は入れられないから、田畑を耕すのは役牛と呼ばれる、牛が、体の後ろに大きな梳き鍬をつけられて、畑を耕していた。
けいいっさは、「役牛だ」と思った。
ほとんど自給自足の生活で、山に蝉の声が浸み入るような山間部の生活は、嫌いではなかったし、夏休みにしばらくおじいちゃんの家にいるのは楽しみだった。
けれど、目の隅に入る、けいいっさの黒い影のような存在はずっと、心の中に、残っていた。
私が高校生の時だったと思う。
学校から帰った私を待ちわびたように、母がけいいっさが亡くなったんだって。と知らせてくれた。
朝、けいいっさが下りてこないから、おばさんがのぞきに言ったら、もう、冷たくなっていたそうだ。
おじいちゃんが悲しがっていると、ちょっと意外な事を母は言った。
前の晩、お風呂からなかなかでてこないので、おじいちゃんが様子を見に行ったら、一心不乱に体をごしごし洗っていたそうだ。
もう、出ないとと言うと、「今日、お迎えが来るから、綺麗にしておかないと」と言ったそうだ。そして、その通り、たぶん、休んですぐにお迎えが来たらしい。部屋の中も綺麗になっていて、掛かっていた布団も綺麗に掛かり、まっすぐ上を向いて、ちゃんと手を組んで亡くなっていたそうだ。
けいいっさは文字通り仏になったのだと、思った。
それから、30年以上たった、ある日、母親に、けいいっさがなぜおじいちゃんの家で飼い殺しになっていたのか、聞いてみた。
けいいっさは、今なら知的障害と言われるような人だったらしい。そして、おじいちゃんの同級生で、おじいちゃんと仲が良かったのだそうだ。そう言えば、囲炉裏の前で、おじいちゃんとは話をしていたのを思い出した。
単に上下の関係、主従の関係ではなかったのだ。
農地解放があった時、小作の家だった、けいいっさの家にも土地は与えられたが、知的障害があるので、このままでは生きていけないと判断した母親が、おじいちゃんに一生面倒を見てほしいと頼んだらしい。
もともと、おじいちゃんの家の手伝いをしていたので、お母さんが亡くなった時に引き取ったと言うことだそうだ。
なぜか、おじいちゃんとは、小さいころからずっと仲良しで、けいいっさがいじめられているのを、おじいちゃんはいつもかばってやっていたそうだ。
そして、けいいっさが亡くなった時、おじいちゃんは大泣きしたそうだ。
30年も経って初めて聞いた。
あの怖いおじいちゃんが泣いたと言うのも信じられなかったし、また、けいいっさが亡くなって悲しんでくれる人がいたと言うことに、何かつかえていたものが下りたような、気がした。
ずっと、けいいっさの人生ってなんだったんだろうと、思っていたけれど、もしかしたら、けいいっさは孤独な、かわいそうな人生なんかではなく、おじいちゃんのそばで、幸せだったのかもしれない。
母も、おじいちゃんは、けいいっさが本当に好きだったんだよ。けいいっさが亡くなった後あんなにがっくりくるとは思わなかったと言っている。
考えてみれば、おじいちゃんは、けいいっさの亡くなった後、転んで骨折をし、そのまま寝たきりになり、往診に来てくれた先生が「おじいちゃん、頑張るんだよ」と言われて、うなずいて、そのまま天国に行った。
もしかしたら、けいいっさがむかえに来たのかな…。
一緒にまた、囲炉裏の前に座っているのかな…。
なぜか、最近、しきりに、けいいっさの事を、思い出してしまうの。
なせか、泪が出てくるの…。
なぜなのかな…。
おじいちゃんの家(私の母親の実家)は、いわゆる過疎地、本当の奥まった田舎の旧家だった。そこに、住み込みの昔の言い方で言うと、「作男」の「けえいっさ」(正確には「けえいっつぁ」という発音になるかしら?)がいた。
けいいっさは寡黙で、いつも土間に一番近いところに一人ポツンと座っていた。
少し離れたところに箱膳と呼ばれる一人ずつの小さな机のようなお膳(引き出しがついていて、そこにそれぞれのお茶わんとお椀とお箸が入っている)の前に、おじいちゃん一家が座り、食事をしている。
水が大切な山間部なので、それぞれのおちゃわんは洗わずに、食事の最後にお茶をお茶わんに入れ、沢庵で、回りのご飯をおとし、それを今度は味噌汁のお椀に入れて、綺麗に飲みほして、一人ずつの箱膳に入れる。
しつけは厳しいとはいえ、従兄弟たちはにぎやかに食事をしている。
おじいちゃんは明治生まれの髭をたくわえた、頑固一徹の、笑った顔は見たことのない人だった。私はちょっと怖くて、おじいちゃんの膝に乗ったりなんて出来なかったけれど、従兄弟たちは遠慮なくまとわりついている。
一家の食事が終わるころ、土間をつたって、やってきた、けいいっさは上がりがまちに腰かけると、地下足袋をぱんぱんとはたいて、自分の席に着く。
すると、おばあちゃんが、ご飯を盛りつけてやりに、黙ってけいいっさの前に座って差し出す。けいいっさが口の中で何かもぐもぐしながら頭を下げる。
そのあと、おばあちゃんは神棚にお供えしたカチカチになったご飯を、猫のえさ入れにぼんと入れ、残った味噌汁をぶっかけて、猫にやる(文字通りねこまんま)
けいいっさは、一人前を向き、もくもくと食べて、食べ終わると、タバコを煙管で吸うと、しばらく、そのまま、たたずんでいる。
そして、2階の蚕部屋脇の、自分の部屋へ上がっていく。
夏休みは、しばらくおじいちゃんの家で過ごしたが、けいいっさは昼間は田んぼや畑で、もくもくと働いていた。
たまに母親がタバコ銭だと、いくらか握らしてやっていたが、彼がいわゆる給料というものをもらっている様子はなかった。
夏休み、一人でおじいちゃんの家に行った時、おばあちゃんと二人きりになった時に聞いてみた。「けえいっさには、お給料って払っているの?」
おばあちゃんは、「あの人には、ちゃんと住むところも着るものも食べるものもやっているから、給料はなくてもいいんな」と言った。「それでも、ちゃんと払わなければいけないんじゃない?そうすれば、ちゃんと家庭も持てるでしょ?」その時なんて答えたのか、覚えていない。結婚はできないと言ったか、そんな(事が出来る立場の)人ではないと言ったか?そんなことを言ったように思う。
その時「飼い殺し」と言う言葉が思い浮かび、学校の授業で、戦後の農地解放の事を知り、戦前に「作男」とよばれる人たちがいたことを知った私は、彼がそう言う立場の人ではないかと、気になった。江戸時代は結婚できる人は商家なら、番頭さん以上だったとかで、独身で一生終わる人も多かったそうだ。農家や商家で一生そこで結婚もせず「飼い殺し」になる人も多かったと聞く。
昔の旧家の農家にはそう言う人がいるのが当たり前だったと、母は言う。けいいっさとなれなれしくしてはいけないとも、言われた。従兄弟たちもけいいっさがいてもいなくても、まるで空気のように、だた、そのにいる「物」としているように見えた。
そのころの田舎、特におじいちゃんの家のように山間部では耕作用の機械は入れられないから、田畑を耕すのは役牛と呼ばれる、牛が、体の後ろに大きな梳き鍬をつけられて、畑を耕していた。
けいいっさは、「役牛だ」と思った。
ほとんど自給自足の生活で、山に蝉の声が浸み入るような山間部の生活は、嫌いではなかったし、夏休みにしばらくおじいちゃんの家にいるのは楽しみだった。
けれど、目の隅に入る、けいいっさの黒い影のような存在はずっと、心の中に、残っていた。
私が高校生の時だったと思う。
学校から帰った私を待ちわびたように、母がけいいっさが亡くなったんだって。と知らせてくれた。
朝、けいいっさが下りてこないから、おばさんがのぞきに言ったら、もう、冷たくなっていたそうだ。
おじいちゃんが悲しがっていると、ちょっと意外な事を母は言った。
前の晩、お風呂からなかなかでてこないので、おじいちゃんが様子を見に行ったら、一心不乱に体をごしごし洗っていたそうだ。
もう、出ないとと言うと、「今日、お迎えが来るから、綺麗にしておかないと」と言ったそうだ。そして、その通り、たぶん、休んですぐにお迎えが来たらしい。部屋の中も綺麗になっていて、掛かっていた布団も綺麗に掛かり、まっすぐ上を向いて、ちゃんと手を組んで亡くなっていたそうだ。
けいいっさは文字通り仏になったのだと、思った。
それから、30年以上たった、ある日、母親に、けいいっさがなぜおじいちゃんの家で飼い殺しになっていたのか、聞いてみた。
けいいっさは、今なら知的障害と言われるような人だったらしい。そして、おじいちゃんの同級生で、おじいちゃんと仲が良かったのだそうだ。そう言えば、囲炉裏の前で、おじいちゃんとは話をしていたのを思い出した。
単に上下の関係、主従の関係ではなかったのだ。
農地解放があった時、小作の家だった、けいいっさの家にも土地は与えられたが、知的障害があるので、このままでは生きていけないと判断した母親が、おじいちゃんに一生面倒を見てほしいと頼んだらしい。
もともと、おじいちゃんの家の手伝いをしていたので、お母さんが亡くなった時に引き取ったと言うことだそうだ。
なぜか、おじいちゃんとは、小さいころからずっと仲良しで、けいいっさがいじめられているのを、おじいちゃんはいつもかばってやっていたそうだ。
そして、けいいっさが亡くなった時、おじいちゃんは大泣きしたそうだ。
30年も経って初めて聞いた。
あの怖いおじいちゃんが泣いたと言うのも信じられなかったし、また、けいいっさが亡くなって悲しんでくれる人がいたと言うことに、何かつかえていたものが下りたような、気がした。
ずっと、けいいっさの人生ってなんだったんだろうと、思っていたけれど、もしかしたら、けいいっさは孤独な、かわいそうな人生なんかではなく、おじいちゃんのそばで、幸せだったのかもしれない。
母も、おじいちゃんは、けいいっさが本当に好きだったんだよ。けいいっさが亡くなった後あんなにがっくりくるとは思わなかったと言っている。
考えてみれば、おじいちゃんは、けいいっさの亡くなった後、転んで骨折をし、そのまま寝たきりになり、往診に来てくれた先生が「おじいちゃん、頑張るんだよ」と言われて、うなずいて、そのまま天国に行った。
もしかしたら、けいいっさがむかえに来たのかな…。
一緒にまた、囲炉裏の前に座っているのかな…。
なぜか、最近、しきりに、けいいっさの事を、思い出してしまうの。
なせか、泪が出てくるの…。
なぜなのかな…。
正直に言うと、なかなか、今の人にはわかってはもらえないことで、もしかしたら、山奥の水も不自由な不便な生活の事を少しでも知っている人でないと、理解できないかもしれない。わかって、いただけるのはオラケタルさんぐらいではないかと思っていたからです。土地の痩せた地方での暮らしを感覚的にわかってもらえる方はそういないからです。
邪念もあり、我儘な心を持っている私にはできない、そう、オラケタルさんもおっしゃるように、「生き仏」だったのかもしれません。
と言うのは私のおばあさんの後添えがそんな人だったようにいま思っています。
母親の父が早くなくなって、多分男手がほしいだけで入ったような待遇を受けた小さなおじいさんだったのを覚えています。
当時としては珍しく、母親が嫁に行くとき「嫌だったら何時でも帰って来い」と今風に行ったそうですし、自分も話をした覚えが無いのですが、畑に行くと何か孫への土産だといって栗や柿を持って帰ってきました。
結局は、子供もできなかったのは、おばあさんの意地というか何かがあったのかも、、、、、
とにかく、けえいっさと言う人は、自分死期さえ知っていたのは、生きながらの仏様だったのではなかったでしょうか
おじいちゃんが、けいいっさの事を思っていたっていうことを知って、どこかで身分を嵩にきてひどいことをしているのではなかったかと思っていたので、見直したというか、うれしかったというのか、ほっとしたというのか。お髭のように立派なおじいちゃんだったんですね。