五劫の切れ端(ごこうのきれはし)

仏教の支流と源流のつまみ食い

お葬式の値段

2005-07-28 13:13:59 | 迷いのエッセイ
■人生の節目に執り行われる儀式を「冠婚葬祭」と一口で言いますが、これを切り離すと「元服」「結婚」「葬式」「祖霊の祭り」になります。誕生時と「御七夜」「お宮参り」の祝い事が盛んになる一方で、「元服」はほとんど忘れられて宗教的な意味がまったく無い「成人式」が、戦後の民主化を喜ぶ熱気の中で一気に全国的に広まりました。しかし、元々、選挙権を持つ事と「成人」する事とを同価値と見るのが無理だったようで、壇上には選挙目当ての政治家が並んで座席には「七五三」か仮装行列と勘違いしているとしか思えない若者がほろ酔い機嫌で並んでしまうようになって、形骸化を通り越して税金の無駄遣いだの恥さらしだのと非難されるようになってしまいました。間も無く、人工的に制定された「成人式」は人の声によって消滅するでしょう。

■「結婚」も、家と家との結合という意味が無くなってからは、新郎新婦の友人や同僚が集まる催し物に変質してから随分と長い時間が過ぎました。歴史的には農地という財産を守る子孫を得る必要性が常に高かったので、農村でも「嫁取り」「嫁入り」は精一杯に祝われていたようです。勿論、資産の大きさによってその規模には大きな差が有ったのですが、水利権や里山の入会権などで固く結び付いた共同体だった農村が儀式の主役でした。都市社会が成長して来ると、特に資産を持たない職人を中心とする町人の中には恋愛結婚も増えて行ったらしく、その多くは結婚式などは挙行しなかったようです。長屋という擬似的な共同体が嫁を迎える形で式が挙げられた事は有ったようですが、庶民は余り盛大な結婚式とは無縁な暮らしをしていたと思われます。

■戦後の農地改革で、資産の大小や階級差を越えて見栄を張った結婚式をどの農家でも挙行するようになったようで、これが都市部にも影響を与えて結婚産業が大いに流行りました。それが過剰な演出や時には悪趣味と言われるような自己満足型のイベントにもなってそのピークを迎えたようです。最近では、結婚式を挙げない方がカッコ良いと考える若者が増えているとも言われます。元々、子孫繁栄を祈って祝う結婚式は、宗教色が濃厚だったし、その後の封建的な家社会構造が支配力を誇示するような「嫁取り」儀式として定着していたので、民主主義や自由との衝突が起きるのは当然の流れでした。自立した男女の合意によってのみ婚姻関係が成立するという考え方が一般化した結果として、結婚式を嫌う傾向が強まったとも考えられます。余り指摘されていませんが、三組に一組が離婚するという切実な統計数字が永遠の愛だの神秘的な出会いなどを陳腐化してしまっている可能性も考えられます。

■「葬式」はどんな階層の人々も重視して来た儀式でした。死を穢れとして特に怖れた古代の日本人は、長期間喪に服したて死者の霊が祟らないように苦心しました。生前に関係が悪かった人も葬式には参列して祟りを避けようとしました。儒教が入っても、葬式の伝統には大きな変化は起らなかったようですが、仏教の伝来は日本人の心に大きな衝撃を与えました。死を恐れず死体に平気で触れる僧侶の姿に人々は畏敬の念を抱いたと言われます。肉体に関して唯物論的な考えを持っている仏教は、穢れや清めに無関心でした。それが死や死者を怖れる人々にとっては、異界を任せるに相応しい人物と思える理由となって、寺の境内に隣接する土地を集合墓地にして、住職に魂鎮めを頼むようになったのでしょう。仏教は信徒達の願いによって生よりも死に関する専門家が求められたという事です。

■厳しい戒律に従って修行しなければならないはずの僧侶が、修行期間を短い学習期間に置き換えて、魂鎮め用の読経と葬式や法要を行なえればそれで良いと自分達も考えるようになるには時間は掛からず、呪術性を強く感じられる漢訳仏典が日本語に翻訳されずに用いられる事にもなりました。経典は、如何に生きるか、如何に考えるかを語る物よりも、死者を「成仏」させる効能を求められました。こうした考え方は、生前の悟りを目指して修行する僧侶の生活を変えてしまったのです。「冠婚葬祭」の「祭」を外来宗教の仏教が吸収して行く過程で、こうした仏教自体の変化が生まれたと考えられます。

■出家者が戒律と共に授かる法名が、いつしか死者が「成仏」する為の戒名となって、仏教はますます死後を管理する仕事を進めて行きました。インドに始まった火葬という弔い方も日本は強い抵抗が有ったものの、最終的には受け入れました。箸を使う骨上げは、穢れを嫌う土着の心情と大陸から渡って来た食事作法とが合流して生まれたのでしょうし、位牌は道教の影響が強い品物です。墓石の吉兆を占う風水に到っては、死者の弔いよりも遺族の幸福を願う心が全面に出ています。千年以上の長い歴史を刻みながら、死者に対する怖れを解消する事に集中した日本の仏教は、近代を迎えると葬儀産業の一部門となるのも仕方が無かったのかも知れません。

■葬儀には死者を悼むという目的以外に、一族の団結と威勢を示す儀式の意味も有るので、身分の高さや経済力の大きさを誇示するように装飾的な演出が付け加えられると、それぞれの効果を検証する方法など無いのですから、我も我もと儀式を豪華に演出するインフレ現象が起ります。仏教伝来前にも、大和朝廷が豪族達に巨大な墳墓を禁ずる「薄葬令」を出さねばならないくらいでしたが、仏教の葬儀は朝廷とは少し距離を置いたところで禁止される事もなく、宗派ごとに演出方法を工夫しながら他宗との違いをアピールするようになりました。それは典型的な市場原理による営業努力と言えます。

■伝統的に最も重要視されて来た死者の弔いですから、大きな借財を作ってでも立派で豪華な葬式を出すのが良い事だと思われるのも自然な事でしょう。こうした場面では儒教の「孝」や「礼」の思想が応用されているかも知れません。人々は、こうした流れに対して、時々冷静に批判を加えて「坊主丸儲け」などと陰口を言うこともあります。更に日本の仏教には肉食妻帯に関する異様な寛容さも有りますから、墓地や寺院が住職一家の世襲財産のようになるという特徴も持っています。かつては、その住職一家を中心として町や村のコミュニティーが運営されていたので、檀家組織は重要な社会の単位でした。しかし、子供の数が減り、人口の流動化が加速して行くと墓地の近くに存在していた檀家組織は崩壊してしまいましたから、多くの寺が幼稚園や駐車場の経営などを副業にし、本業の葬儀は専門の会社との共同作業となっているのが現状でしょう。

■元々、読んで頂いている経典の名前も文章の意味も分からなくても気にず、儀式の中で用いられる道具の名前も機能も知らずに大人しくしている遺族がほとんどですから、こうした問題が何時起っても不思議は無かったのです。


葬儀業者:情報提供怠るケース目立つ 公取委調査で判明
 葬儀業者の約3割は依頼者から要求されなければ、葬儀代金の見積書を交付しないなど、適切な情報提供を怠っているケースが目立つことが27日、公正取引委員会が葬儀業者を対象に初めて実施した調査で分かった。公取委は「葬儀業者が消費者の選択を阻むことで、活発な競争が成り立っていない可能性がある」として、各事業者に適切な情報提供を求める方針だ。
 葬儀サービスは新規参入が活発で、市場規模は1兆円とも見込まれる成長産業だ。しかし、消費者にとっては限られた時間内に高額な“商品”の選択を迫られる特殊な取引でもある。このため、価格やサービス内容による本来の顧客獲得競争が起きにくい状況にある可能性があるとみて、公取委は初の実態調査を実施した。
 調査は1~4月、全国の葬儀業者2629社に調査票を送り、1071社(回収率40.7%)から回答を得た。それによると、葬儀代金の見積書を「(自主的に)交付している」と答えた業者は73.3%。一方、「依頼者から求めがあった場合に交付する」が26.3%で、3割近くは要求されなければ見積書を出していなかった。また、要求されても「交付しない」が0.4%あった。葬儀の場合、天候や参列者数で追加料金が必要になる場合があるが、4.1%は「事前に追加注文の説明をしていない」と答えた。毎日新聞 2005年7月27日
 
■既に宗派の違いを具体的に認識している日本人はほとんど居ない時代になりましたから、葬儀社が提携している寺の僧侶が来てくれればそれで間に合うと誰もが考えているのでしょう。クリスマスだろうがハロフィーンだろうが、お盆や正月だろうが、土着文化と外来文化の区別も無く流行に流される日本人ですから、これも仕方が無いのでしょうが、最終的には仏教でなくても弔いは出来ると考える人が増えたり、そもそも宗教は不要だと言う人まで出て来るようになると、寺と大衆を結び付けていた唯一の紐帯だった葬式自体が無くなって行くのかも知れません。それは、仏教を細々と学ぶ者にとっては悲しい事ですが、日本の仏教が仏教の原点に戻って生きている者達の教えとなる切っ掛けとなるのならば、荒療治ではありますが、喜ぶべき事なのかも知れません。しかし、悪趣味なごった煮のような奇怪な新興宗教が葬式産業とは別の金儲けを考え付いて跋扈するような事は願い下げでございます。 合掌

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