五劫の切れ端(ごこうのきれはし)

仏教の支流と源流のつまみ食い

ウラジオストクの小さな石碑

2005-07-18 17:31:33 | 迷いのエッセイ
■ウラジオストクの丘をとことこ登って行きますと、極東大学の立派な建物が有ります。その敷地内に誰にも気付かれずに小さな石碑が建っています。「浦潮西本願寺跡」と刻まれています。明治時代に西本願寺は海外にどんどん出向いて布教活動を展開しました。その宗教活動も「侵略」の一言で片付けるのならば、日本の歴史など学ぶ価値は無いでしょうが、キリスト教各派の布教が盛んになった明治の日本から、逆に押し出して行った西本願寺の情熱は記録に残されるべきものでしょう。シルクロード探検の歴史にも大いなる足跡を残した大谷探検隊のロマンも貴重な記録ですし、西欧が文化的優位性を押し付けるのならば、それに対する文化の存在を誇示する運動が起こりました。ザンギリ頭と洋服に代表される「欧化政策」ばかりが有名ですが、対等な関係を結ぶ為に努力した歴史も忘れてはならない事です。

■ウラジオストクは様々な民族が集まる港町でしたから、日本人も「浦潮」という名前でこの港町を住処としていました。日本人社会の精神的な支柱となるために西本願寺の僧侶がやって来て、住民の浄財を集めて立派なお寺を建てたのでした。旧満州には、その当時の建物が残っている場所も有るのですが、ソ連は過去をすべて破壊して新しい歴史で多い尽くすだけの豪腕を持っていましたから、今では往時の本願寺を偲ぶ何の痕跡も残っては居ません。この小さな石碑もソ連が崩壊してからやっと日露の人々の小さな草の根交流によって建てられたのでした。

■文化的な中核として頑張っていた西本願寺は、在留邦人の教育にも尽力して学校の運営にも中心的な役割を果たしたようです。明治時代のお坊さん達はとても元気でした。仏教の原典を求めてチベットの山奥まで入っていった河口慧海さんや、チベット語原典を英訳して欧米人に見せてやろうとした能海寛さんなどがいたくらいです。釈尊の一人で行け!「犀(さい)の角」のように、という教えを実践した人々の情熱を支えたのが西本願寺の資金と人脈でした。ウラジオストクでの活動に関しては余り沢山の記録は残されていないようです。日本の歴史教育で安土桃山時代に東南アジアに点在した「日本人町」を貴重な国際交流の記録として教えているのに、明治以来の日本人居住地に関しては教えないというのは矛盾しているのではないでしょうか?軍隊の保護が頼めない場所にも、日本人はどんどん出て行きました。それは軍事的な侵略とは別の国際交流の一面です。

■日本に入ったロシア正教は東京のお茶の水にニコライ聖堂を建てて、その威容で日本人を圧倒しました。しかし、それに対応してこちらかも布教に出掛けるだけの元気が日本側にも有ったという歴史は大切にしなければならないと思います。そして、その中核を阿弥陀様の救済を説く本願寺勢力が担っていたという事実は、日本仏教を理解する時には欠かせない要素になります。浦潮西本願寺においては大田覚眠(かくみん)さんや戸泉賢龍(けんりゅう)さんの活動が有名で、特に戸泉夫妻の写真が「ウラジオストク145周年」を記念したアルセーニエフ博物館の展示物の中に有ります。ウラジオストクの市民の中で日本語を熱心に学んでいるロシア人がいて、パリに行った与謝野鉄幹さんを追いかけてシベリア鉄道に乗ってやろうとウラジオストクにやって来た炎の女、与謝野晶子さんの歌碑が建ちましたよ。と嬉しそうに話すのです。国際都市としての歴史は彼らの財産なのですなあ。

■海外で苦労し活躍した所先輩達の業績をすっかり忘れ去って、無責任な「国際化」を叫ぶような奇妙な事は止めた方が良いようです。中国が言い立てる「正しい歴史」に同調することが正しい国際化だと信じ込んでいる人が多いようですが、旧満州に行ってみると、「日本軍が居た頃が一番安心して暮らせたのに…」などと言われて、こちらがビックリ仰天するような事になりますし、シベリアに日本人がやって来て仲良く暮らしていた思い出もきちんと歴史の中に組み込んでいる極東の人々との交流では、健忘症の日本人は恥をかく事になります。戦争の勝敗は時の運だと割り切っている人々に逞しさを知らねばなりません。日本の歴史として、ウラジオストクの最後の日本人学校の校長を務めた吉田豪夫さんが書き残した『浦汐斯徳の思い出』(1973年刊)にこんな一節が有るそうです。


「私は十年間シベリアの日本人小学校長の職にあり、帝政二年、共和国二年、共産政六年を体験し


1931年からスターリンの命令でウラジオストクの在留邦人に対する締め付けと嫌がらせが始まって、日本人学校も閉鎖されて日本人の民家、それから領事館の一室へと移されて1937年の日本人追放に到った歴史は、今のロシア人にとっても日本人にとっても、とても残念で悲しい歴史なのです。

■共に悲しめる友人を沢山持つのは重要な事で、戦争の勝ち負けとは別の庶民の歴史という物が有ることを再認識するのに、極東ロシアはなかなか意味深い場所だと言えるでしょう。日露の歴史を見てみると、日露戦争直後が一番仲が良かったのですから、本音を隠してイジケタ姿勢で交渉したら相手も混乱するのではないでしょうか?複雑な政治情勢や戦略上の問題に翻弄されながらも、いろいろな民族が行き交うのが港町ですから、宗教設備や教育機関の種類が多いという事が港町のステイタスなのでしょう。日本の有名な港町も、異国情緒が売り物なのですから、更に大規模な世界の港町ならば何でも食べられていろいろな民族と宗教が混在しているダイナミックな社会を誇るのが普通です。ですから、あそこにもこちらにも、日本人が居たのだ、と互いに語り合える「通常」の関係を結べる友人を増やさなければなりません。

■そういう交流の中でこそ、他国の人に日本人が日本を説明する能力が磨かれるのですから、「どうせ外国人には日本は理解できない」などと幼稚な一人合点は止めて、出来るだけ多くの言葉で日本を語る力をつけなければなりますまい。上に書いたように、チベットの大蔵経を英語に翻訳してやる!と決意した能海寛さんについては、いつか項を改めて書こうと思いますが、ウラジオストクの一角に2000年になってやっと建った小さな西本願寺跡の石碑を見ていると、日本人は歴史の中に大きな忘れ物をしている事に気付かされます。今のウラジオストクは経済の発展を急いでいるので、日本を呼び戻そうとしている様子も見えます。その流れの中で、ウラジオストクは日本人にとっては未知の場所ではなく、所縁(ゆかり)の有る土地なのですよ、と言いたがっているようです。勿論、自慢の要塞だった旅順を陥落させたとか、バルチック艦隊を対馬沖で沈めてしまったというような話はしない方が良いでしょう。ロシア人は内向的でとても恥ずかしがり屋でもありますからなあ。

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