14日
朝8時過ぎにホテルを出発し、「ナヌムの家」へ。ガイドのキムさんは、ここへ日本人を案内するのは5年ぶり、2回目ですと話していた。
道路がいつもよりすいていて、9時半頃に到着。
「ナヌムの家」で研究員として働く村山一兵さんが迎えてくださった。
村山さんと初めて会う参加者から、早速「どうしてここで働くようになったのですか」などの質問がでる。
はじめに、姜徳景(カンドクキョン)ハルモニの追悼ビデオ「私たちは忘れない」を見る。日本でも見たものだが、姜徳景さんは、このナヌムの家で暮らし、絵を描き、水曜デモに参加し、死の床でも「私のパスポートはどこへいった」「日本政府は謝ったか?」とたたかい続けて亡くなったのだ。
外に出て、施設の説明を受ける。
ハルモニたちが長くくらしたこの生活館は、老朽化のため建て替えることになり、裏にある臨時施設で暮らしておられる。
事務所(左)と歴史館。
歴史館前の野外広場。ハルモニたちの果たせなかった未来をあらわすレプリカが見える。
いろいろな人が訪れるけれど、「いつも被害者を真ん中に」という意味を込めて、広場の真ん中にはハルモニたちの品物を埋めたタイムカプセルが。
この広場で、来月3日、「憲法9条を守ろう!韓日平和コンサート」が開かれるそうだ。
歴史館へ。入口のパネル(韓国で最初に名乗り出たキムハクスンハルモニのパネルの前で説明を聞く。
資料は、本でも見ることができるけれども、ここにきて、村山さんの話を聞いていると、自分は何をどのように語ってきたのか?問いかけられている気がする。
再現された「慰安所」。こんな場所で、食べる暇も休む暇も与えられず、繰り返し、繰り返し・・。
日本はどれだけたくさんの人生を狂わせてきただろう。
沖縄で「慰安婦」にされ戦後も沖縄に暮らしたペ・ポンギハルモニ。キム・ハクスンハルモニが韓国内で初めて名乗り出たのに先立つこと14年、1977年に「慰安婦」の実態を告発していた。
村山さんは「70年代、80年代にチャンスはあったのに、日本でも韓国社会でも問題にできなかったのはなぜかということがわたしの宿題です」と話された。
私たちにはさらに、なぜいまだにこの問題を解決するにいたっていないのか、どうしたら解決にたどりつけるのか、宿題が課されている。