なみへい☆ブログ

青春時代アタマが固すぎてはじけられなかった後悔から、今頃はじけようとあがくちょっと見苦しい日々の記録

4月とともに韓国のりも去りぬ

2009-04-30 23:51:53 | 日記・雑感
 晩、しんぶんの集金に行ったら、おひとりが来月から入院されるとのことで購読休止・・。でも病状はそれほど悪くないとのことでほっとした。

 もう4月もおわりですね。

 韓国のりをたいそう気に入った夫に、お土産用にとりのけといた分まで食べられてしまった。まあ、これは目の届くところに置いておいたお母さんが、あ、ちがった、私が悪かったわ。

今日の晩ご飯


子ども世代のくらしが心配

2009-04-29 23:56:57 | 日記・雑感
 今日は、地域の日本共産党の活動に参加して、支部の方や新町みちよ県議とともにしんぶん「赤旗」をおすすめしてまわった。

 お会いできたのは年金暮らしの方が多かったが、いまだにこどもたちの生活を支えたり、こどもたちのために節約していると話すおうちのなんと多いこと。こどもといってもみんな社会人なのだが、「娘の夫が派遣切りにいつあうかびくびくしている」「正社員だけどいつ首になるやら」。「息子の働きすぎが心配」という方もいた。
 年金の少なさや、介護保険料の高さにも憤っているけれど、なにより次の世代のくらしを案じておられる。
 「そやのにしょうもないことに税金使って!」
 「消費税は高いものにはかけたらいいけど、食料はやめてほしい」
 「定額給付金は税金の支払いに消えてしまう」

 9月までには必ず総選挙があるし、7月には県知事選挙もあって、政治をかえるチャンスです。
 よびかけにこたえて3人の方がしんぶん「赤旗」も読んでくださることになった。

 それにしてもS本さんはすごい。「えっこんなところ通れるん?」というような路地をすいすいと行き、道で行き会うひともみんな顔見知りで立ち止まって話しかける。
 歩き回ること3時間弱。おつかれさまでした。

普通の日曜

2009-04-27 00:14:11 | 日記・雑感
 26日
 強風が吹き、曇って寒い一日だった。
 全国的には、季節はずれの雪が降った地域もあったみたい。

 マンションの管理組合の総会。
 修繕費の積み立てについての話し合いにすこし時間がかかる。

 主に家で過ごした。
 今日の晩ご飯は、筍ご飯、木の芽和え、若竹汁の筍尽くしと、ゆで野菜サラダ、豚野菜いため。

 サラダには、きのう夫が買ってきたかぼちゃが入っている。

 「かぼちゃが食べとうなって買うてきた」
 「かぼちゃ?いまごろ売ってるんは輸入に決まってるやんか」
 「・・ほんまあ?」
 「あんたほんまに“百姓の息子”?」

 夫の実家から野菜を分けてもらうことが多いし、買うときも輸入野菜は買わないのだが、もったいないので使ってみた。





安全第一をすみずみに

2009-04-26 01:34:11 | 日記・雑感
 25日は、JR福知山線事故から4年の日だった。
 
 私は通勤で利用しているが、あの事故の前から、危ない・・と思うことがしょっちゅうで、実際に事故もたびたび起こっている。
 事故の何年か前、ダイヤどおりに運行するなんとかキャンペーンというのがされていて、「乗り降りを早く」「ドアの前までいって降りる準備を」「かけこみ乗車は列車遅れの原因となるので」などのアナウンスを毎日毎日聞かされていた。このぎゅうぎゅう詰めのなかをどうやって早く乗り降りしろというのか、お年寄りや体の悪い人がそんなに早く乗り降りできるか、と毎日心の中で悪態をついていた。事故に衝撃を受け、悪態をつくだけでなくもっと声をあげておくべきだったと思った。

 あれほど露骨なアナウンスはしなくなったが、ダイヤ最優先主義はただされたか。残念ながらそうは思えない。
 3日前のこと、快速と新快速が接続する駅で、新快速が1分ほど遅れていて、「快速すぐに発車します」「遅れております、乗り換えお急ぎください」「ドアがしまります」と電車がつくかつかないうちからアナウンスがわーわーと繰り返された。
 と、快速へ間に合おうと猛ダッシュしてきた男性に思い切りぶつかられた。瞬間痛くて息もできないくらいで、結局3列車やりすごすはめに。あれがお年寄りや体の不自由な人だったらきっと転倒しているだろう。

 25日が近いことが頭にあったので、ホーム案内の係員に「せかすばかりでは危ない」といったが、「気持ちはわかるがしかたない」「案内のせいとは限らない」というようなことをいう。「だれかがけがしてからでは遅い」ということばには同意してくれたが。
 わたしも彼のせいだとは思っていなくて、会社の体質がただされていないのではないかとおもう。彼にしてみればとんだとばっちりという感じかもしれない。おそらく非正規職員だろう。案内などはアルバイトを使っている場合も多いそうだから。

 でもそんなことで安全が守れるか疑問だ。正規の職員を増やして配置して、教育も徹底して、安全輸送をすみずみまで行き渡らせてもらいたいと思う。
もう絶対、あんな事故を繰り返してはならないのだから。

 
 

  

コータローデビュー

2009-04-26 01:15:59 | 日記・雑感
 25日
 午前中は、生活保護行政に関する問題で会議。

 13時から、憲法県政の会の街頭演説会に参加。
 今日は、候補者の田中耕太郎さんの街頭デビューの日だった。
 
 あいにくの雨と強風のなか。
 でも、人にやさしい、憲法どおりの県政への熱気にあふれていた。

出会いがあるからやめられない

2009-04-25 02:13:16 | 日記・雑感
 今晩は、大阪市議会に「慰安婦」問題の解決の意見書をあげることをもとめる集会が中の島公会堂であったので、参加してきた。

 明日は尼崎、あさっては吹田で同様の集会が持たれるのだが、行けそうにないので。

 かなり遅れてしまったら、椅子にまっすぐ座れないほどたくさんの人が集まっていた。
 韓国旅行でお世話になった挺対協のヤン・ノジャさんが、体調が悪くなられて来日できなくなったキル・ウォノクさんの声も代弁しながら、健在のハルモニののリアルな実態を話してくださった。

 水曜デモに参加したりしてお元気に見えるハルモニも、それ以外の時間は被害のため健康不安におののいたり、長年問題が解決されないことで気力を失っている場合もあること、被害のために人との関係を結びにくく、生活していくこと自体がたいへんなハルモニがたくさんおられること・・
 それでも、解決のためにあらゆる実践をされているのは、もう二度と自らのような残酷な歴史を繰り返させないためだということ。

 会うことのできた被害者の人生、会えなかった被害者の人生に思いを馳せながら前へと進みたいと思う。

 そのあと、去年からのとりくみの仲間、I川ゼミの学生さんとともに「お食事」。
あーほんとにたのしかった。
 あたらしい出会いというのはほんとうにたのしい。

 まあ、このおばさんはずいぶんへんなことをしゃべったと思うけど、心配しなくても若い方たちは、必要だと思うことを吸収していくので、なまじ上から目線で「教えこむ」ことなど必要ないのだ。ありのままの自分で接すればいい。(いや、さらけ出しすぎはまずいか?)。とてもすてきな若者たちだ。

 そして、特筆すべき出会いは、「同じにおいがする」N本さん。
たのしかったあ。また飲もうなあ。ふたりそろって「姐さん」でもなんでもいいし。
 ちゃんと、最終の普通電車に間に合ったし。

韓国旅行・完

2009-04-22 01:40:42 | 日記・雑感
 お土産を買って、空港へ向かう。
 空港で、ガイドの金さんともお別れだ。流暢な日本語でとてもわかりやすい解説をしてくださったおかげで、すばらしい旅ができた。
 キムさんは、「15年ガイドをしていますが、ナヌメ チプ(ナヌムの家)に案内したのは2回だけです」「韓国の歴史に興味を持っていただいてうれしかった」「ガイドの友だちにも日本からのお客さんがこういうところに行っていたんだよ、と話していたんですよ」としきりに言ってくださったが、まだまだ、歴史をきちんと学んだとはいえない。

 旅行にいく前に比べて、韓国に感じる親しみが全然違う。
 今回出会った韓国の方たちは、あたたかくてとてもいい方ばかりだった。それだけに、心の底から日本人を信用してはもらえないだろうと思うのはとても悲しい。 歴史認識の差を埋めて、本当の友好が築ける日が早くきてほしい。いまの政府にはまかせておけないな。

 そして「慰安婦」問題。ナヌムの家では昨年二人が亡くなり、遺品とお墓が増えてしまっていた。韓国内で名乗り出た243人のうち、存命の方は93人しかいない。
 時間のあるたたかいではない。
 帰りの飛行機の中で、さっそく次のステップの相談も。この旅行で初めて知り合った方とも、お互いとても仲良くなれたことが頼もしい。解決のスピードを速めるために、参加者はいま一生懸命考えている。
 

韓国旅行⑥水曜デモ

2009-04-22 01:33:11 | 日記・雑感
 そしていよいよ、水曜デモへ。
 ところが、ちょうど雨が降り出した。

 去年、神戸の証言集会にきてくださったイヨンスハルモニと再会。「会いにきました!」私の顔も覚えていてくださり、抱き合って再会をよろこんだ。とてもお元気そうだ。

 冷たい雨の中を、8人のハルモニたちがカッパをきて元気にシュプレヒコール。最高齢のハルモニは92歳。ナヌムの家からは5人のハルモニが参加された。
今週大阪などでの集会に来られる予定だったキル・ウォノクハルモニは、体調が悪く、来られなくなったが、この日は病をおして参加された。病状が不安定なので、日本に来ていただくことはできないが、お顔を見られて少しほっとした。



 わたしたちも、即席の横断幕を持って並んだ。



 この日の運営は教会の方たち。
 挺対協の報告では、日本で、「慰安婦」問題はなかったと主張する「つくる会」の教科書が検定合格したことに抗議の意志がしめされた(留学で来ていた男性が通訳してくださったのでわかった)。

 日本からきた支援者だとわたしたちのことも紹介していただき、全員で前に並んで、あいさつさせていただいた。
 「事実を伝えない教科書が採択される現実を変えられていないことを申し訳なく思います」「わたしたちが事実を伝え、日本政府に謝罪させるまでがんばります」と決意をつたえてきました(しかし、頭が真っ白になり、ちゃんと言えなかったように思う。情けなや)。
 去年8月3日の「私たちになにができるか」の集会にも来られていた挺対協スタッフのYさんが通訳してくださった。



 ブラインドをおろした日本大使館。



 前日までは暖かすぎるくらいだったのに、この日は寒くてふるえるほどだった。 それだけに、こういう日も(真冬の厳しさはこんなものではすまないだろう)、暑い日も、高齢のハルモニが17年間も毎週毎週デモを続けてこられたことの重みを、参加者にずっしりと感じさせたのだった。

 終了後、ハルモニたちとごいっしょに食事し交流。
ツアーのバスにYさんが同乗してくださって、案内してくださった。
それぞれが持参したプレゼントを渡したり、おしゃべりしたりしてハルモニとのひとときを過ごした。

 

 ここでハルモニたちと、お別れ。
 イヨンスさんは、車に乗り込みながら、「200歳まで生きるよ~っ」と私たちを激励して、いつまでも手をふってくださった。
 
 ハルモニ、カムサハムニダ。

韓国旅行⑤昌徳宮など

2009-04-21 23:00:49 | 日記・雑感
3日目。
 朝、世界遺産でもある李朝の王の離宮「昌徳宮」を見学。本殿の「『景福宮』が火事にあったため、王がこちらに移った」とガイドさんが説明してくれたが、失火ではなく、ほんとうは豊臣秀吉の朝鮮出兵で焼き打ちにしてしまったのだ。安重根記念館でも「韓国の側からみた歴史です」との言葉を添えていたが、おそらく日本人観光客に配慮していつもそのように説明されているのだと思う。

 「チャングム」の撮影の6割はセットだが、4割はここでおこなわれたそうだ。広い庭園には春の花が爛漫でとても美しかった。
 
 
 

 景福宮も見ようという話だったが、ちょうど学校の校外学習の時期で、駐車場はバスであふれかえっている。時間も少なくなったので、とりやめた。
 景福宮にある、日本政府によって殺害された閔妃(ミンピ)の碑を見ることができなかったな、と思ったが、帰ってから本を読むと、いまその場所は元あった建物が再建され、碑はミンピの出生地京畿道へ移設された由。

 代わりに青瓦台(首相官邸)前をバスで通った。その道自体、軍政時代には通れなかった場所だったそうだが、今は前に広場もでき、市民や観光客の憩いの場になっている。官邸前ということで、映画「シルミド」が話題になった。

韓国旅行④安重根記念館・西大門刑務所跡

2009-04-21 22:46:46 | 日記・雑感
 ソウル中心部へと戻り、遅めの昼食。焼肉と石焼ビビンバにみんながっつく。「おいしかったですか?」とやってきたガイドさんに、「葉っぱ(焼肉をまく)しか残ってないわ」と誰かがいい、大ウケされた。前日夜も、韓定食を食べるとき「(お客にはたっぷりふるまうという名残で)残してもいいのです」と説明されていたのに、ほとんど残らなかった・・。



 安重根記念館へ

 

 それほど大きくはない記念館だが、韓国と日本の歴史認識の差をひしひしと感じる場所だ。
 アンジュングンは、日本では暗殺者だが、ハングルをつくったセジョン王、朝鮮出兵の豊臣水軍を打ち破ったイ将軍とともに、韓国で尊敬を集めている人物だ。
 日本からの修学旅行生がここへくると、困ったような顔で出てくるのだそうだ。日本で習ったこととまるで違うからだ。
 伊藤博文が1905年に保護条約を強行し、統監府をつくって初代総督におさまり、「韓国併合」植民地化に道をつくったのは事実だ。

 続いて旧西大門(ソデムン)刑務所、西大門独立公園へ。日本が、独立運動の運動家たちを弾圧し、捕らえ、拷問を加えた場所。

 

 10年近く前に訪れた人によれば、補修・塗りなおしなどがされていて、前回より凄惨な感じが薄れたとのことだが、それでも充分凄惨な場所だった。
 拷問の場面を再現している人形は、動き、悲鳴をあげる。人間が人間にする所業とは思えない。人一人を立ったまま閉じ込める窓のない棺おけのようなものもある。身震いがでる。
 
 

 女子用の独房。これは地下で、上にはふつうの建物が建っていた。終戦時、日本によって地下が埋め隠されていたのが発見されたもの。



 韓国が日本に、歴史の事実を教え、学ぶことをなによりも求めている意味がよくわかる。

 この公園の敷地内に、「戦争と女性の人権博物館」が建てられることになっていて、すでに鍬入れがされている予定地を探したが、いま公園内はあちこち補修工事をしていて、わからない。囲われている場所があったので、多分ここかな、と話していたのだが、翌日挺対協の方に聞いたら、反対側で、なにげなく通ってしまったところだったことが判明。


 この日の夕食は海鮮チゲ。
 昼食が遅かったので、進まないかと思いましたが、鍋はまったくカラッポに。
 しかも店員さんから「ここは海鮮チヂミが名物ですよ~おいしいですよ~」(日本語)とすすめられ、人数分追加したら、直径30センチくらいのが3枚もきたが、それもあっぱれ平らげた。

韓国旅行 番外編

2009-04-20 00:42:17 | 日記・雑感
 韓国のりは、つまみにしてもご飯と一緒に食べてもおいしいが、つまみにすると減るのが早い。

 ・・そんなことはさておき。
 韓国旅行へ出発の日、三宮発関空行きのバスに、なんと「慰安婦」問題でごいっしょさせていただいているU野夫妻が。わたしたちのツアーに参加されるわけではなく、中国・四川に向かわれるのである。出発日はいっしょだが、ごいっしょできるとは思っていなかった。70分たのしくおしゃべり。
 U野K子さんは、ご自分のブログを書いておられるのだが、「たくさんの人に読んでもらおうと思って書いていない」ものだったのを、私が偶然見つけてしまい、こっそりと見せていただいていたのだった。「おもしろいのに、まだほかの人にお知らせしちゃだめですか~」といったら、OKがでました!

 こちらです。

 自分のブログの旅行記がなかなか進まない。日常生活の合間に、関係方面へのメールや、記録集・ニュースづくりの目論見もあり、それに写真の整理にけっこう時間がかかる。まだ慣れていないなあ・・



韓国旅行③ ハルモニとの邂逅

2009-04-19 01:57:07 | 日記・雑感
 歴史館の見学を終え、村山さんがハルモニたちの様子を見に行かれる。
 体調のよくないハルモニが多いと聞いていたので、お会いするのは難しいと思っていたのだが、OKが出て、上がらせていただくことになった。
 
 現在8人のハルモニたちが生活されている臨時施設。
 

 挨拶して、ささやかなお土産をお渡しする。
 
 



 カンイルチュルハルモニ、キムファソンハルモニ、パクオクソンハルモニ、ペチュンヒハルモニと参加者。

 

 キムスノックハルモニ。


 イオクソンハルモニ、キムグンジャハルモニにもお会いできた。

 もう少し、ことばを覚えてくればよかった。「いつまでもお元気で」っていったつもりだったけど、間違っていたかも。
 でも日本語で話しかけてくださったり、手を差し出してくださったり・・。

 日本でのとりくみをへて、涙を流すだけではだめなのだから、来ても泣くまいと思っていたが、差し出されたハルモニの手を握るうちに、涙がこぼれてしまった。
 長い時間がたっても現状を変えられていない私たちをハルモニたちは受け入れてくださるのだろうか。
 そんなことを考えるにはあまりにも短い時間だった。でも、これから日本でこのとりくみを続けるとき、出会ったハルモニひとりひとりのお顔と手の感触を思い起こすだろう。そして、知り合うことのできなかった、何十万の被害者に思いを馳せるだろう。
 
 ナヌムの家には、そのときお二人の日本人女性がボランティアとして滞在しておられた。
 東京からこられたN浜さんは、「ほんとになにもできません。手をさすったり、お皿を洗ったりするだけで・・ここにいると、日本がみなさんの人生をずたずたにしたんだとよくわかります。ほんとうにずたずたに。日本に帰ったら、百人の方に話してください」と話された。

 外へ見送りに出てくださるハルモニと参加者。



 翌日の水曜デモでの再会を約束して、お別れした。


 

 
 

韓国旅行② ナヌムの家歴史館

2009-04-18 20:57:16 | 日記・雑感
 14日
 朝8時過ぎにホテルを出発し、「ナヌムの家」へ。ガイドのキムさんは、ここへ日本人を案内するのは5年ぶり、2回目ですと話していた。
 道路がいつもよりすいていて、9時半頃に到着。

 「ナヌムの家」で研究員として働く村山一兵さんが迎えてくださった。
 村山さんと初めて会う参加者から、早速「どうしてここで働くようになったのですか」などの質問がでる。
 
 

 はじめに、姜徳景(カンドクキョン)ハルモニの追悼ビデオ「私たちは忘れない」を見る。日本でも見たものだが、姜徳景さんは、このナヌムの家で暮らし、絵を描き、水曜デモに参加し、死の床でも「私のパスポートはどこへいった」「日本政府は謝ったか?」とたたかい続けて亡くなったのだ。
 
 

 

 外に出て、施設の説明を受ける。

 ハルモニたちが長くくらしたこの生活館は、老朽化のため建て替えることになり、裏にある臨時施設で暮らしておられる。



 事務所(左)と歴史館。



 歴史館前の野外広場。ハルモニたちの果たせなかった未来をあらわすレプリカが見える。



 いろいろな人が訪れるけれど、「いつも被害者を真ん中に」という意味を込めて、広場の真ん中にはハルモニたちの品物を埋めたタイムカプセルが。

 

 この広場で、来月3日、「憲法9条を守ろう!韓日平和コンサート」が開かれるそうだ。

 歴史館へ。入口のパネル(韓国で最初に名乗り出たキムハクスンハルモニのパネルの前で説明を聞く。

 

 資料は、本でも見ることができるけれども、ここにきて、村山さんの話を聞いていると、自分は何をどのように語ってきたのか?問いかけられている気がする。



 再現された「慰安所」。こんな場所で、食べる暇も休む暇も与えられず、繰り返し、繰り返し・・。



 日本はどれだけたくさんの人生を狂わせてきただろう。



 沖縄で「慰安婦」にされ戦後も沖縄に暮らしたペ・ポンギハルモニ。キム・ハクスンハルモニが韓国内で初めて名乗り出たのに先立つこと14年、1977年に「慰安婦」の実態を告発していた。



 村山さんは「70年代、80年代にチャンスはあったのに、日本でも韓国社会でも問題にできなかったのはなぜかということがわたしの宿題です」と話された。
 私たちにはさらに、なぜいまだにこの問題を解決するにいたっていないのか、どうしたら解決にたどりつけるのか、宿題が課されている。