この世の中に良いことも悪いことも、そして問題になる事も“無い”のです。
この様に一切何も“無い”のですが、私としている自我がすべて
「在る」様に創作しているのですね。
それじゃ!善い事だけ、問題が無いことだけ創作すれば
いいじゃん!と来るのですが、私(自我)は相対により
出来上がっているので片方だけというわけにはできません。
つまり、簡単に言うと「男だけ!」では無理ということ
ですね。
野菜の種が在っても、それを育てる土の畑等がないと
野菜は存在しません。
それらと同じく、相対になる何かがないと幻想は無理と
いうことです。
ですから私(思考)は年から年中の如く、頭の中で探し求めているのです。
それを思考癖といいますね。
探さないと、私(自我)の「死」を意味するからです。
幻想が幻想の「死」を恐れているという、実に厄介な
「思い込み」になっているのです。(笑)
こんな事実に一切ない面倒くさいことは忘れ去り、
頭の中を“空っぽ”にする“只なる実践”を持続しているのです。
普段何も無いときには“無意識・無思考”を“実践”し、
何かをやっているときは、“今”やっていることに
没頭、“無思考”を“実践”するのです。
そうするうちに強大なエネルギーの幻想が崩れ去って行き、
“今”という“絶対安心”の境地に還り着くのです。
この様に一切何も“無い”のですが、私としている自我がすべて
「在る」様に創作しているのですね。
それじゃ!善い事だけ、問題が無いことだけ創作すれば
いいじゃん!と来るのですが、私(自我)は相対により
出来上がっているので片方だけというわけにはできません。
つまり、簡単に言うと「男だけ!」では無理ということ
ですね。
野菜の種が在っても、それを育てる土の畑等がないと
野菜は存在しません。
それらと同じく、相対になる何かがないと幻想は無理と
いうことです。
ですから私(思考)は年から年中の如く、頭の中で探し求めているのです。
それを思考癖といいますね。
探さないと、私(自我)の「死」を意味するからです。
幻想が幻想の「死」を恐れているという、実に厄介な
「思い込み」になっているのです。(笑)
こんな事実に一切ない面倒くさいことは忘れ去り、
頭の中を“空っぽ”にする“只なる実践”を持続しているのです。
普段何も無いときには“無意識・無思考”を“実践”し、
何かをやっているときは、“今”やっていることに
没頭、“無思考”を“実践”するのです。
そうするうちに強大なエネルギーの幻想が崩れ去って行き、
“今”という“絶対安心”の境地に還り着くのです。