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川場田園プラザ

2024-08-18 16:12:29 | 日記

群馬県川場村にある道の駅 川場田園プラザにてお買い物。

道の駅ランキングで、常に上位に位置するここでのお買い物の目当ては、お米である。

道の駅ランキングも多くの関係機関が実施しているようです。

リクルートでは、旅行情報誌「じゃらん」で「全国道の駅グランプリ2024」を発表したようです。今年は北海道と沖縄を追加し、全国1213の道の駅を対象に満足度でランキング化しています。2024年の全国ナンバーワンは、特産品から新鮮野菜、ジビエのイノシシ加工肉まで品ぞろえが圧倒的なあ・ら・伊達な道の駅(宮城県)で2021年以来となる1位を奪還した。年間300万人が訪れる東北屈指の道の駅だそうです。 2位は、2022年・2023年で1位を獲得していた「川場田園プラザ」(群馬県)でした。

ランキングに誘われて道の駅に行くというより、目的は、お米である。名前は「雪ほたか」です。

昔から稲作の盛んであると言われた川場村。川場村のコシヒカリ「雪ほたか」は、日本百名山武尊山より湧き出るミネラルたっぷりの天然水と、生産者の丁寧な管理により、毎年大切に育てられています。

その存在は大変貴重とされ、一般には流通しない「幻のお米」として村民の縁故関係者のみに食されてました。また、平成16年以来8名の斎耕者が、宮中において天皇・皇后陛下の拝謁を許され新穀を献上することも有名です。近年は、「全国米・食味分析鑑定コンクール」にて、連続金賞受賞など、その品質は大きな実力としても認められています。

お米に関しては、あまりこだわりはないのですが、知人から紹介され食してからここ数年は、「雪ほたか」を食べています。

ネット上でもあまり流通していないので、道の駅へドライブがてらお米や野菜の購入に出かけています。

おにぎり屋さんも行列ができています。

一つ260円はお世辞にも安いとは言えませんが、一度食べると納得してしまいました。

いつもは、玄米を購入してその都度精米していましたが、玄米の在庫が無い状態でしたので、精米してあるお米を購入。

数か月後には、新米がでるので、しばらくこれで対応します。


関東の厄除三大師

2024-08-12 08:28:05 | 日記

関東の厄除け三大師

「関東の厄除け三大師」の大師とは、真言宗の宗祖・弘法大師(空海)のこと。厄除け三大師とは、弘法大師を祀る寺の中で、一般的には神奈川県の「川崎大師 平間寺」、東京都の「西新井大師」、千葉県香取市の「観福寺」の3寺を指すことが多い。今回はこの関東の厄除け三大師を巡ることにした。一日で3寺院めぐりはできないので、「川崎大師 平間寺」、東京都の「西新井大師」が巡ることにした。

最初に訪れたのは、川崎大師である。

大本山川崎大師平間寺は、真言宗智山派の寺院で、成田山新勝寺、高尾山薬王院とともに智山派「関東三大本山」を形成している。
ご本尊は、武士の平間兼乗が夢のお告げにより沖の海中へ網を投げ入れて引き揚げた「弘法大師の木像」であり、この木像は弘法大師(空海)が唐(中国)で、人々の幸せを願って彫られたものと伝わっている。

この弘法大師の木像に纏わる話を聞いた尊賢上人が、平間兼乗と力をあわせ、1128年(大治3年)平間寺を建立した。無罪の罪で国を追われた兼乗だったが、このお像を浄め、供養した末に罪の疑いがはれ、国に帰ることができたとされている。

つづいて、西新井大師

「西新井大師」は正式名称を「五智山 遍照院 總持寺」といい、創建は天長3年(西暦826年)に、巡錫中であった弘法大師(空海)が西新井を訪れた際、自身で十一面観音像と自身の像を彫り、護摩祈願をしたことからとされる。

江戸時代には女性の厄除け祈願所として賑わい、また現在では「関東厄除け三大師」の一つとして、首都圏より多くの参詣者が訪れる。

夏祭りの準備が始まっていた。関係者が提灯を飾る準備をしていたのが印象的であった。

東京、神奈川ということもあり、今回は電車で巡った。電車を待っているとカルピス電車を発見。

アサヒ飲料と東武鉄道のコラボらしいです。暑い一日にほっとひと時、癒されました。

次回は、千葉県へ行き、関東の厄除け三大師めぐりの完結とします。


ネモフィラ

2024-05-12 07:07:37 | 旅行

 GWは渋滞、混雑、駐車場の問題などもあり連休明けのこの時期に国営ひたち海浜公園ドライブに出かけました。自転車を載せて公園内を風を感じながらペダルをこぎました。

 ちょっと国営ひたち海浜公園について調べてみました。

 この国営ひたち海浜公園は、1938年(昭和13年)水戸陸軍飛行学校、大日本帝国陸軍水戸飛行場が建設され、第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)6月には、アメリカ軍水戸射爆撃場として利用されていた。その広大な跡地は、1973年(昭和48年)3月15日に日本国政府に返還され首都圏整備計画の一環として整備されたものです。1979年(昭和54年)に事業着手、1984年(昭和59年)に造成工事が開始され、1991年(平成3年)に約70haが開業した。その後、何度も拡張を繰り返し、今に至る。公園の総面積は350haに及んでいる。この面積は東京ディズニーランドの7倍程度の面積にあたるが、実際に公園として利用されているのは南側の191.9ha(開業中の面積)で、全体の約55%に留まっているようです。

ネモフィラのなごり花

 

すでに、みはらしの丘のネモフィラは「なごり花」となっていました。これは承知の上です。おかげで会場は快適に移動することもでき、のんびりと過ごすことができました。

お店もほぼほぼ並ばずに色々購入。

ネモフィラチュロスを購入し満足。

広場も遊んでいる子供も少なく、芝の上でしばしお昼寝。多少日焼けをしてしまいましたが、のんびり過ごしました。

曜日によっては、入園無料の日もあるそうです。

次は、コキアを見に参ります。

 


くろたまご

2024-05-06 07:59:00 | 旅行

ゴールデンウイークはどこも人でいっぱいですが、まだ行ったことのない観光地へ向かいました。場所は箱根です。

最初は、谷のいたるところから白煙が吹き出し、他では見られない異様な雰囲気が漂う大涌谷です。箱根の代表的観光スポットです。

約3000年前、箱根火山で水蒸気爆発による山崩れが発生し堆積物が地表を覆いました。さらに約2900年前に、小規模な火砕流が発生、冠ヶ岳ができ、また火山砕屑物が積もりました。
この2つの火山砕屑物と山崩れによる堆積物の間が現在の大涌谷と呼ばれるエリアです。
かつては「大地獄」と呼ばれていたのですが、1873年(明治6年)8月5日の明治天皇・皇后のご訪問を前に、現在の「大涌谷」に改称されたと書いてあります。

気になるのは、黒いたまごです。なぜ黒なのか。地熱と火山ガスの化学反応を利用した「黒たまご」は、生卵を温泉池でゆでると、気孔の多い殻に温泉池の成分が付着し、黒色となり黒い殻のゆで玉子ができあるようです。

大涌谷には平安時代弘法大師によって作られたといわれている延命・子育ての「延命地蔵尊」というお地蔵様があり、このお地蔵様にあやかり「黒たまご」を食べると寿命が延びると言われるようになりました。「7年寿命が延びる」は7という数字が七福神など縁起の良い数字として使われるため、いつの間にか言われ始めたようです。

2つ食べましたので、14年寿命が延びるのでしょうか。(笑)

 

続いて有名なパワースポットである箱根神社へ参拝。

面白い旗を発見。ジンジャーエール。ちゃんと参拝もしてきました。人が多くて写真を撮ることができませんでした。

有名な鳥居は、写真スポットで長蛇の列。あきらめて遠くから眺めていました。

縁結びで有名な、九頭龍神社へ。本宮では、毎月13日に月次祭つきなみさいが執り行われ、毎年6月13日に例祭が斎行されています。お祭りでは、御本殿での祭典に続いて芦ノ湖畔の斎場で、祭典でお供えされた神饌しんせんの内、米・酒・するめ・卵の四品が、各々九度に分けて湖中の九頭龍大神に献供される「湖水神事」が執り行われます。

これも、日程が合わないので、箱根神社内でお参りでした。

続いて、海賊船にも乗ってきました。約1時間の遊覧。コーヒー飲みながらゆったり過ごしました。

今回箱根へは車で行きましたが、道も狭くいたるところで渋滞が発生していましたので、公共交通機関を使用していくのがベストですね。

登山電車、ロープウェイなどを利用いたほうが良いですね。特にロープウェイは、座席分の乗車で次々と乗車させますので、必ず座れます。大涌谷へは早雲山駅から乗車するのがベストです。無料駐車場100台程度駐車可能です。車を止めることができ駐車料金の節約にもなりました。

次回はどこへ行こうかな。

 


国定忠治

2024-04-06 20:16:56 | 日記

新年度の一週間が終了した。

本日は、午前中が仕事。午後時間があったので、ふらふらとドライブ。先日の送別会で話が出た国定忠治。そういえば群馬県に国定忠治のお墓があったことを思い出した。おもむろに訪ねてみた。

 国定忠治は、江戸後期の侠客。本名は長岡忠次郎。
 父は上野国(群馬県)佐位郡国定村の中農与五左衛門。
 17歳のとき人を殺し大前田英五郎の許に身を寄せ、博徒の親分として売り出す。
 博奕を業とするが,縄張りのためには武闘を辞せず、子分を集めて私闘を繰り返した。
 天保5(1834)年島村伊三郎を謀殺したことから関東取締出役に追われる身となり、以降一貫して長脇差、鉄砲などで武装し、赤城山を根城としてお上と戦い、関東通り者の典型となった。
 逃亡、潜伏を繰り返すうち、同7年信州の義弟兆平を殺した波羅七を討つため大戸(群馬県)の関所を破ったり、同13年には博奕場を急襲した八州廻りの手先で二足の草鞋の三室勘助を、子分の板割浅太郎(忠治の甥)を使って殺すなど幕府のお膝元関八州の治安を脅かす不遜な存在となった。
 逃亡、潜伏を支えたのは一家の子分の力もあるが、忠治をかくまった地域民衆の支持もあった。
 伝承によれば、同7年の飢饉(天保の大飢饉)に私財を投じて窮民に施したり、上州田部井村の名主西野目宇右衛門と語らい博奕のあがりで農業用水の磯沼をさらったりした。
 忠治は幕府にとって文武の敵となった。
  嘉永3(1850)年夏、潜伏先の国定村で中気となり隣村(田部井村)の宇右衛門宅で療養中捕らえられ、江戸に送られ勘定奉行の取り調べの上、罪状が多すぎるため最も重い関所破りを適用され、磔と決まった。
 磔に当たっては、刑場大戸まで威風堂々と道中行列を演技し14度まで槍を受けて衆目を驚かせた。
 忠治の対極にいた幕吏(代官)羽倉簡堂は『劇盗忠二小伝』(『赤城録』)を著して、凡盗にあらずして劇盗と評した。
 死後の忠治は,時代が閉塞状況となるたびに国家権力と戦う民衆のヒーローとして映画や芝居などを通して甦った。
 墓は養寿寺(群馬県佐波郡)と善応寺(伊勢崎市)にある。國定赤城神社HPから

曇り空でしたが、桜も満開でした。

忠治のお墓には『勝負運(ギャンブル運)』の御利益があるとされていることもあり、墓石を削ってお守りにするとギャンブルに勝てるという噂が広がってしまったため、柵が設置されたようです。また、墓石が丸くなっています。