聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

蘇我氏は出雲族

2009年10月02日 | 出雲族
記紀には、卑弥呼のことがほとんど記述されていません。これはどうしてなのでしょうか?卑弥呼は非常に重要な人物だと思います。たしかに伝説などは伝わりにくい時代だったとしても、やはり卑弥呼の事績が消されたのは、意図的なものだとしか考えられないように思います。それで、邪馬台国・卑弥呼の事績を消し去ったのは、もしかしたら、蘇我馬子の可能性があるのでは?
歴史は勝者の歴史ともいわれ、歴史書もその時の権力者の都合に改竄されます。蘇我馬子の時代、蘇我氏は天皇家の外戚になり権力を保持していたといわれています。
それで・・・
「天皇記」「国記」は聖徳太子と蘇我馬子が編纂したとされています。
「帝紀」と「旧辞」は天智天皇の子供の勅命により編纂。
「古事記」「日本書紀」とも天武天皇系、元正天皇時代に完成したとされています。
それで、天皇記なのですが、天皇という称号は推古天皇からだといわれていましたが、いまは天武天皇からだとも言われています。蘇我馬子が編纂している。それと天皇という称号は後のものだとすると、この「天皇記」というのは、おかしいとも考えられますよね?おそらく記紀とは異なった歴史、系譜が記述されていた、そして蘇我氏の都合のいいように改竄されていた。ですから、焼失したということにされているということが考えられるわけでしょう?
蘇我氏は6世紀になって台頭してきました。これは渡来人との結びつきによるものが大きいでしょうけど、蘇我氏や葛城氏、紀氏などの地名由来の氏族は、先に大和に来ていた出雲系といわれる氏族のように思います。
ですが、たとえ蘇我氏によって邪馬台国・卑弥呼の事績が改竄されていたとしても、邪馬台国と天皇家が関係あるなら、記紀に卑弥呼の事績は書きあらためられているはずですから、やはり邪馬台国と天皇家は王朝が異なると思います。邪馬台国は物部氏だと考えています。(写真は大神神社)
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