聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘の「上宮法皇」の謎

2015年04月21日 | 聖徳太子の謎


日本書紀にある、厩戸皇子を聖徳太子というのなら、聖徳太子は押坂彦人大兄皇子
です。ですが斑鳩の宮に居住し斑鳩寺を造り仏教を興したのは、推古天皇の息子の
竹田皇子です。本当の聖徳太子とはこの竹田皇子です。

今回は、法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘の謎をときます。

法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘

法興元丗一年歳次辛巳十二月鬼
前太后崩明年正月廿二日上宮法
皇枕病弗腦干食王后仍以勞疾並
著於床時王后王子等及與諸臣深
懐愁毒共相發願仰依三寶當造釋
像尺寸王身蒙此願力轉病延壽安
住世間若是定業以背世者往登浄
土早昇妙果二月廿一日癸酉王后
即世翌日法皇登遐癸未年三月中
如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘厳
具竟乗斯微福信道知識現在安穏


聖徳太子が大きな謎になっているのは。この銘文の間違った解釈にあるといってもいい
と思います。大きな間違いが二つあるように思います。
ひとつの問題はこの銘文にある、「上宮法皇」です。これ厩戸皇子こと聖徳太子のことだと思いま
すよね。ここだれも疑いません。
間違ってはいないのですが・・・聖徳太子とは厩戸皇子ではなく竹田皇子のことでもあるのです。
厩戸皇子というのは、 押坂彦人大兄皇子のことで、豊聡耳 というのは推古の息子の竹田皇子の
ことです。


聖徳太子の謎は、この銘文の「「上宮法皇」です。
この銘文の中にある、「上宮法皇」とは、推古の子である竹田皇子のことです。

聖徳太子とは、この竹田皇子のことでもあるのです。

日本書紀には、厩戸皇子の命日は、2月5日とされているわけですから、ここも
やはり疑わなければなりません。
日本書紀・・・
廿九年春二月己丑朔癸巳、半夜、厩戸豐聰耳皇子命薨于斑鳩宮。

どうして、疑問の目が向けられないのかというと、それは、上宮聖徳法王帝説や
天寿國繍帳銘文に聖徳太子の命日は2月20日とされているからです。
これともに記紀より古いものではありません。

『天皇記』『国記』は推古天皇28年(620年)に蘇我馬子と聖徳太子が編纂したと
されています。

日本書紀・・・
皇太子・嶋大臣共議之、錄天皇記及國記、臣連伴造國造百八十部幷公民等本記。

この『天皇記』『国記』というのは蘇我氏の歴史書です。
継体天皇以降、王家と対立していた蘇我氏は、我々、蘇我の王である天皇は古代から
続く正当な王であると主張したのが天皇記です。
厩戸皇子こと聖徳太子?は、押坂彦人大兄皇子であり、彼は蘇我氏の人物ではありません。

日本書紀、推古天皇条にある、「皇太子」とは、本来は推古天皇の息子である竹田皇子の
ことであったのです。
『天皇記』『国記』を編纂したのは、蘇我馬子と竹田皇子です。厩戸皇子ではありません。


蘇我氏の歴史書である天皇記において、皇太子として表現されていたのは、
推古の子である竹田皇子のことです、
後に、そこに厩戸皇子こと聖徳太子の話が割り込んできたのです。
『天皇記』『国記』は蘇我氏の歴史書です。この編纂時においては厩戸皇子の記述は
なかったと思います。
上宮太子こと押坂彦人大兄大王を聖人として描いたのは、彼を皇祖と仰ぐ天武天皇
です。
帝記編纂時において、天武がおじいちゃんである押坂彦人大兄大王を聖人として描き、
竹田皇子の事績も押坂彦人大兄皇子のこととして取り込んだからです。


日本書紀推古天皇・・・
九年春二月、皇太子初興宮室于斑鳩。

ここに、初めて宮を興すと記述されている斑鳩の宮は、この竹田皇子の宮です。
厩戸皇子の宮ではありません。
厩戸皇子こと押坂彦人大兄大王の宮は、前述してきたように「水派の宮」であり、
ここは後の小治田宮です。
推古とともに政治をおこなった宮です。
推古天皇時、大王は押坂彦人大兄大王であり皇太子は竹田皇子です。


日本書紀推古天皇・・・
十四年・・・秋七月、天皇、請皇太子令講勝鬘經、三日說竟之。是歲、皇太子亦講法華經
於岡本宮、天皇大喜之、播磨國水田百町施于皇太子、因以納于斑鳩寺。

そして、推古が大変喜んだと記述されているように、斑鳩の宮に居住し斑鳩寺を造り
仏教を興したのは、息子の竹田皇子です。
推古の前で勝鬘経・法華経を講じ、三経義疏を著したのはこの竹田皇子です。


法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘にある上宮法皇とは、推古の子である竹田皇子のこと
です。この「皇」文字が使用されているのは、本来は蘇我の王です。
この釈迦三尊像は、竹田皇子のために作られたものです。
上宮法皇、上宮太子とは竹田皇子のことです。
法皇とは仏門に入った王という意味ともいわれます。

聖徳太子の謎はここです・・・
聖徳太子の名のもとに押坂彦人大兄皇子と竹田皇子の事跡が一つになっているのです。



     



この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 法隆寺金堂薬師如来像光背銘... | トップ | 法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘... »
最新の画像もっと見る

聖徳太子の謎」カテゴリの最新記事