聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘の「法興元」の謎

2015年05月04日 | 聖徳太子の謎


天武が皇祖と仰ぐのは押坂彦人大兄皇子であり、日本書紀において皇祖と表現されて
いるのはこの押坂彦人大兄皇子と皇祖天照大神のみです。
敏達天皇と王后であった物部氏の姫である穴穂部間人皇女との子であり第一王子です。
皇后であったとされる広姫はお母さんではありません。


竹田皇子は、推古は女帝ですから両親が天皇だという極めて重要な人物です。
このふたりが日本書紀にほとんど登場しないなんてありえません。

そう、もう何度も登場しています。皇太子の名称で。
押坂彦人大兄皇子も竹田皇子も、ともに皇太子であるわけです。

そもそも、厩戸皇子が用明天皇と穴穂部間人皇女との子であるなら、この二人をさしおいて
皇太子と呼ばれることはありえない。

聖徳太子の名称はもちろん後のものです。この二人の皇太子の事跡が、
一人の聖徳太子という名称でひとつにまとめられているのです。
だから聖徳太子は超人的な人物になっているのです。
ふたりでひとりの聖徳太子なのです。

日本書紀は、この押坂彦人大兄皇子が王に即位したことが消されています。
押坂彦人大兄皇子を大王としたくないのは対立していた渡来人である天智系天皇の
桓武天皇や藤原氏なのです。
この押坂彦人大兄皇子が大王なら、皇太子は竹田皇子です。


法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘の謎を解きます。
この法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘の解釈に関しては、大きな二つの間違いがあると思います。
一つは前述した「上宮法皇」です。

もう一つは「法興元」です。

この法興の元年とは、崇峻天皇4年(591年)ではなく、聖徳太子が大王になった593年です。
推古元年ではなく、聖徳太子元年である。法興寺の刹柱の礎の中に佛舍利を置いた年です。
こういうのは王が交代してからでしょうが??

王が交代した元年であり、この年号の名称の「法興」はもちろん法興寺からとられてる。
この問題は、ごくごく常識的に考えたら解ると思いますが・・・?

法興寺は飛鳥寺のことで、蘇我氏の氏寺であるわけですから、
もちろん蘇我馬子と竹田皇子が著した天皇記における蘇我氏の私年号です。

日本書紀・・・
元年(593年)春正月壬寅朔丙辰、以佛舍利置于法興寺刹柱礎中、丁巳建刹柱。


この法興元年ですが、・・・釈日本紀に伊予国風土記の逸文が残っていて、法興六年は推古4年
にあたり591年だそうです。

法興六年十月 歳在丙辰 我法王大王与慧慈法師及葛城臣・・・ 

どうして591年なのでしょう?元年を591年にする理由がなにもないでは
ありませんか?おかしいとは思わないのでしょうか?

日本書紀に、上宮聖徳法王帝説に、釈日本紀に記述されているから間違いないと
するのはどうなのでしょう?

日本書紀において、推古の年齢を冒頭において間違えています。

日本書紀推古天皇条

豐御食炊屋姬天皇、天國排開廣庭天皇中女也、橘豐日天皇同母妹也。幼曰額田部皇女、
姿色端麗、進止軌制。年十八歲、立爲渟中倉太玉敷天皇之皇后。卅四歲、
渟中倉太珠敷天皇崩。

ここ、日本書紀 山田宗睦 訳 
注釈そののままですが・・・
36年3月7日条の崩年75歳とすると(18歳は欽明32年に当たる)
敏達との死別は、34歳ではなく32歳となる。即位は39歳。

ほら、2年間違えてる、これがどう影響したかはわかりませんが・・・?
こういうには、王が交代した元年でしょうと思うのですけど?

日本書紀には聖徳太子が大王に即位したことが消されています。

日本書紀のこの文章が問題箇所のように思います・・・
元年春正月壬寅朔丙辰、以佛舍利置于法興寺刹柱礎中、丁巳建刹柱。夏四月庚午朔己卯、
立厩戸豐聰耳皇子爲皇太子、仍錄攝政、以萬機悉委焉。橘豐日天皇第二子也、母皇后曰穴穗
部間人皇女。・・・

ここ、おそらくですが、591年に天皇に即位したのが推古であり、593年に大王に
即位したのが厩戸皇子なのでは?

この捏造文の挿入により、推古条の「皇太子」は全て厩戸豐聰耳皇子になってしまっている。

夏四月庚午朔己卯、立厩戸豐聰耳皇子爲大王、仍錄攝政、以萬機悉委焉。
こうだったように思うのですが・・・???

本来は、推古ではなく、聖徳太子の御世であるわけですから、元年の表示は聖徳太子元年の593年です。


法興六年十月 歳在丙辰 我法王大王与慧慈法師及葛城臣・・・
ここも法王は竹田皇子、大王は押坂彦人大王です。病気がちだったのは竹田皇子です。

そして大きな問題は、上宮聖徳法王帝説の著者の法隆寺金堂釈迦三尊像光の銘文のトンデモ解釈です。
この解釈の影響がいまも続いています。
この法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘にある上宮法皇を、竹田皇子ではなく、厩戸皇子だとして間違って解釈
(銘文後半部分)している?
おそらく、この間違った解釈のもとは天寿国繍帳の捏造銘文における上宮聖徳法王帝説の著者の法隆寺金堂釈迦三尊像
の銘文の間違った解釈です。


上宮聖徳法王帝説・・・
鬼前大后(かむさきのおおきさき)は、即ち聖王の母の穴太部間人王(あなほべのはしひと
のひめみこ)也。鬼前と云うはこれ神前(かむさき)也。何故に神前の皇后と言うとあらば、
この皇后の同母弟、長谷部天皇(崇峻天皇)、石寸神前宮(いわむらのかむさきのみや)に
天の下治しめしき。若し疑うらくは其の姉の穴太部王、即ち其の宮に坐すが故に神前皇后
(かむさきのおおきさき)と稱す也。

もし疑うのであればって云っていますが、なんか自信のない表現ですよね。
それでは、疑ってあげます・・・
というか、・・・ここおかしいって指摘は多くあるじゃないですか?
なのに、何故信じられているのでしょうか?

崇峻天皇の宮は倉梯柴垣宮であり、石寸神前宮ではありませんよね?
(でもこれが本当の宮かもしれません)
神前は神じゃないですか、神はカムですが、鬼ですよ。名前に鬼の文字を使うのでしょうか?

この鬼前太后を名前として、お母さんの穴穂部間人皇女のことだとしています。
ただ名前に「鬼」の文字をさすがに使うわけないとは思うのですが?

この「鬼」は「魄」の省字で、月の朔(ついたち)のこと。あるいは晦日のこととも
いわれますが、この「鬼」は日付の意に解釈するのがいいのではないでしょうか?
鬼で区切って、前太后とするのがいいのでは。

この著者も「上宮法皇」は厩戸皇子だとして全く疑っていないからです。
でもね、日本書紀をみれば誰もがそう思いますよね。


それで、推古と敏達の子の竹田皇子の后は誰だかわかりません。
この竹田皇子は、日本書紀などの資料から記述がなくなっているので早くに亡くなったとされています。
そーではないのです。何度も登場しています。そう皇太子の名称で。
上宮太子とはこの竹田皇子です。日本書紀の推古条の皇太子とはこの竹田皇子です。

竹田皇子の后は、聖徳太子の妃とされている女性たち、この菟道磯津貝皇女、
膳部菩岐々美郎女、橘大郎女、刀自古郎女の4人でいいと思うのですが・・・?
本当の聖徳太子とはこの竹田皇子です。
聖徳太子の謎は、わかりやすくいえば厩戸皇子は聖徳太子ではないということです。


この前太后は、おそらく厩戸皇子(押坂彦人大兄皇子)の姉妹の東宮聖徳(竹田皇子)
に嫁いだとされる菟道磯津貝皇女です。皇后は敏達と広姫の娘であるこの女性です。
この、東宮聖徳の東宮は、忍坂の宮で、竹田皇子のことです。

そして、もうひとつの王后も「干食王后」とよむ説もあり、この干食王后は、
膳部菩岐々美郎女だそうです。
「かしわで」と読むそうなのですが???これも無理でしょうに?読めるの?
ここも、「干食」こんな文字を名前に使うのでしょうか?
ここは、病に倒れて寝込んでしまい、食べ物を摂ることもできずに病状はよくな
かったという意味でしょう?

ただ、この王后は、「かしわで」とは読みませんが、偶然ですが膳部菩岐々美郎女で
いいように思います。


上宮法皇は竹田皇子で、日本書紀の推古天皇条において皇太子と表現されているのは、
この竹田皇子のことです。
蘇我馬子が、推古の息子である可愛い蘇我の皇子のことをなんら記述しないってことは
ありません。

蘇我馬子は竹田皇子の病気が回復するように神様にお願いしています。

隅田八幡神社人物画像鏡・・・
癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等
取白上同二百旱作此竟

623年(葵未年)八月、日十大王(押坂彦人大兄皇子、おしさかのひこ ひと のおおえの
みこ、日十 ひと大王)の御代に男弟王(竹田皇子、母は推古天皇、父は敏達天皇)が意柴
沙加宮に在し時に、斯麻(蘇我馬子)は姉の孫の竹田皇子(病気だった)の長寿を念じて
開中費直と穢人の今州利の二人を遣わして白上銅二百旱でこの鏡を作らせた。


日本書紀は、重要な厩戸皇子の命日を間違えているとされていますが、病気になって
なくなったのは推古の子である竹田皇子です。

624年の2月5日が厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子の命日で、2月22日が竹田皇子の命日です。
ほぼ同時期に亡くなっています。
蘇我馬子がこの鏡を作らせ奉納した翌年に亡くなっています。聖徳太子の没年は624年です。

隅田八幡神社人物画像鏡の銘文の内容と、法隆寺金堂釈迦三尊像光の銘文の内容は合致します。

上宮法皇とは、推古天皇の子供の竹田皇子です。
法皇と「皇」の文字がつくのは、本来は蘇我の王のことです。


両親を天皇にもつ竹田皇子は、非常に重要な人物なのに、書記にはほとんど
その事績がないのは、彼の事績が聖徳太子のことだとされているからです。
蘇我氏憎しの天武は、天皇記の推古条において皇太子と表現されていた
竹田皇子の事績を、祖父の押坂彦人大兄皇子こと厩戸皇子の事績として
取り込んだからです。
厩戸皇子が大王に即位すれば皇太子はこの竹田皇子です。

この釈迦三尊像は、竹田皇子が倒れてから、造られたものではありません。
従来の説では、この釈迦三尊像は一年程で完成したとうことになりますが、
それは不可能だとも言われます。
倒れる以前から、病気がちだった皇子の回復を祈って皇后や王子が造ったものです。

そして、この銘文は亡くなってから彫られたものです。
だから奇妙な文になっている。
病気が治癒するようにお願いするはずなのに、なぜか治らなければ浄土にいけるように
と願っているのは、この像は、存命中の623年に完成しているのだけど、銘はなく
なってから彫られたものだからです。



法隆寺金堂釈迦三尊像光の銘文・・・

法興の元(593年推古元年 本当は聖徳太子元年)より三十一年(623年)、歳は辛巳に次る十二月鬼(一日?)、
前太后(竹田皇子の前の皇后、おそらく菟道磯津貝皇女(東宮聖徳に嫁いだ))崩ず。

明年(624年)正月二十二日、上宮法皇(竹田皇子)、病に枕し、干食し悆からず
王后(竹田皇子の次の妃膳部菩岐々美郎女)、よりて労疾を以て、ならびに床に著きたまふ

時に王后(膳部菩岐々美郎女)・王子等、及び諸臣と與に、深く愁毒を懐きて、
共に相ひ発願す
仰ぎて三宝に依りて、当に釈像の尺寸王身なるを造るべし。
此の願力を蒙り、病を転じ寿を延し、世間に安住す。
若し是れ定業にして、以て世に背かば、往きて浄土に登り、
早く妙果に昇らむことを。

二月二十一日癸酉の日、王后即世す。翌日法皇登遐(崩御)す。

癸未年(623年)の三月中、願の如く敬みて釈迦の尊像ならびに侠侍、及び荘厳の具を
造り竟りぬ。
斯の微福に乗り、信道の知識、現在には安隠にして、生を出でて死に入らば、
三宝を紹隆して、共に彼岸を遂げ、六道に普遍する法界の含識も、苦縁を脱することを
得て、同じく菩提に趣かむ。
司馬鞍首止利仏師をして造らしむ。

つまり、本来は聖徳太子が大王に即位した年を元年(593年)としていたのを、推古が天皇に即位した
年(591年)を元年とした間違えだと思うのですが・・・。
聖徳太子没年が622年とされているのは、法興元年を本来は593年からなのに591年から
数えているからです。


              





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