聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

「倭國者、古倭奴國也。倭國之極南界也。

2010年10月18日 | 魏志倭人伝の謎



何度もいっているとこですが、大きな平野に大きな国が出現するはずです。
北部九州の地形だったら、大陸との位置関係を考えても筑紫平野(佐賀平野も含む)
と福岡平野ですよね。
それで、倭人伝において、福岡平野の大国は奴国としたらですよ、筑紫平野は何国なの
でしょうか?
記述がないのが不思議なのですよ。九州説なら問題ないのですが・・・

つまり九州に「倭國」という国が存在したのでは。

「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」
「會稽海外有東鯷人 分爲二十餘國」

この大国の倭国と奴国で、倭奴國。その他の小国も含めるので、倭國王帥升等になると
考えています。ですので生口も多いわけです。
もちろん金印も「倭奴國王」。多分この時(57年)には、すでに北部九州の国々は倭国
の勢力下に統一されていたのだと思うのですが?

倭人伝・・・女王國より以北~の国名だけの小国の情報は、おそらくこの57年の倭奴國の朝貢時のもの考えています。
「建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀。使人自稱大夫。倭國之極南界也。」

北部九州の国だろうと考えられる、対海国、一大国、末盧国、奴国、不弥国の
副官は四カ国とも卑奴母離です。つまり同じ勢力下にあると考えられますよね。
(官名の記載ない末盧国はもとから倭国の支配下にあった国)

わたしは、もともとは官だけで、副なんてなかったのだと思います。
支配する側が、これらの国々の行政に介入する目的で設置した官だと思うのです。
奴国には卑奴母離がおかれているので、支配される側だと考えています。
それで、伊都国にはもちろん一大率ですよね。わたしは、軍隊だと思うんですよ。
この一大率は、主に大国の奴国に対するものだと考えています。

『北史』、『隋書』 倭国伝・・・
「安帝時、又遣使朝貢、謂之倭奴國」

『旧唐書』倭国・日本国伝・・・
「倭國者、古倭奴國也。」(倭国とは、古の「倭奴国」なり)

この「倭國王帥升」の王の名前は“帥”で、升は尊称だと考えています。北部九州筑紫平
野にあった倭国の王。ですから帥升等で問題ないわけです。
七支刀の銘文にある「倭王旨」や、「倭の五王」といわれる漢字一字の王も、遣使の記録が、
記紀に見られないように、もしかすればこれらの王は九州倭國の王だという可能性が
あるのではないでしょうか?すべて畿内の政権からの朝貢じゃないような・・・?
好太王の碑文にあるように、この時期朝鮮半島に進出していたのは九州の倭国で、
畿内の政権ではないと考えています。

「倭」という文字は「ヤマト」とはよめません。これは畿内の王権が、中国や朝鮮の文献
にある九州の「倭」と畿内の「ヤマト」との呼称はもちろん事績を統一するために、倭を
ヤマトと読ませた。もともとは日本列島全体を指すものではなかった。
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