聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

短里は帯方郡の韓人の尺度

2010年10月18日 | 魏志倭人伝の謎


九州島内だろうと考えられる、不彌國までの行程記述で、問題視されているのは
ここですよね・・・
「東南陸行五百里、到伊都國」

で、末盧國が、唐津で、伊都國が前原だとすると、方角が違うし、地形から判断しても、
また、伊都国で滞在するのなら、ここまで船できたらいいわけですよね。
陸行とは考えられないわけですけど、陸行とされています。

そんで、筑紫平野の倭国と、福岡平野の奴国が対立していたら、倭国が、中国にむかう時、
北部九州西側の複雑な地形を考えると、当然、この末盧國から東南の佐賀平野に出る道
は存在していたようにわたしは思います。

で、この行程が魏の使者の報告によるものとしたら、梯儁と張政の二人の報告書
が、存在するわけですよね。

そんで、問題はこの・・・「郡使往來常所駐」だろうと思うのです。

つまり使者が来た時は、いつもここに滞在するというわけでしょう。
で、梯儁は倭国にいって倭王に会っています。
「正始元年、太守弓遵遣建忠校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、・・・倭王因使
上表答謝恩詔」

するとね、一方(梯儁)が、伊都国に寄らず、末盧國から東南に貫けるこのルートを
佐賀平野まで、陸行していたとしても、間違っている?と判断するの可能性があるのでは?

それで、張政は、倭王にあっていませんよね。「黄幢」を難升米に渡しています。
おそらく伊都国から出ていないように考えています。

倭王に面会した梯儁は、末盧国に上陸してから東南に陸行して佐賀平野にはいり倭王の
宮にむかった。この「東南陸行五百里」までと「自郡至女王國萬二千餘里」は短里。
この短里ですが・・・
中国で使用例がない?もちろん倭では使われていないとすると、この短里は、おそらく
韓人の使用していた尺度という可能性があるのでは?

標準里では説明できない箇所・・・「始度一海、千餘里至對馬國」・・・など。
韓伝においても・・・「韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接、方可四千里。」
などがあるように思います。漢、魏尺の一里は、およそ435m、千里は435kmにも
なります。
もちろん、中国の文献に短里が使用されている例があるのなら、問題ないので
すが・・・。

伊都国のところに・・・・「郡使往來常所駐。」こう記述されています。
おそらく帯方郡からの使者は、彼ら魏の使者が来る以前から往来があった。
この使者は韓人。短里は韓人が使用していた尺度なのでは?
魏の使者は、帯方郡にあるこれら韓人が集めた倭国にたいする情報をとりこんで、
報告書として纏めた可能性があるのでは?

さらに、官名や戸数、方角も全て韓人が集めていた情報なのでは?
島の面積、(対馬國の方四百余里ばかり。一大國方三百里ばかり。)などや、
倭の地・・・周施五千余里ばかりなり。などは、魏の使者が訪れたときに計測したとは
到底思われない。戸数についても調べられるはずはない。
ですので、倭に関することに事前に調べてあった資料が帯方郡に存在したのでは?

魏が帯方郡をおいたときから、朝鮮半島の東南に位置する島(日本列島)の「倭」につい
ては調べられていたはずです。また魏から倭国へ使いを出すにあたっては、当然、帯方郡
に、倭国まで案内するように命令があったはずですし、随行して倭国まで案内したのは属
国でもある、海を挟んで九州島と近距離に位置する韓の国々の人々なのではないでしょう
か。

この時代、朝鮮半島南部の国々は大きく、馬韓、辰韓、弁韓の三韓に分けられて
いました。三韓の一つの弁韓国は鉄の産地であり倭との交流も多くあったようです。
当然これらの国々は、倭についての情報を多く持っていたはずです。帯方郡も彼らから
多くの倭についての情報を得ていたのでは?
この情報のうちの1つに、末盧國(唐津)から、・・・「東南陸行五百里、・・・」という行程情報が
存在していたように思うのですがどうでしょうか?




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