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聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

卑弥呼と神功皇后の謎

2016年08月02日 | 魏志倭人伝の謎


日本書紀においては、この神功皇后は卑弥呼だろうという記述の仕方をしています。
しかし、神功皇后では時代が異なるともいわれます。でもそうではありません。

記紀編纂時において、卑弥呼に関することは伝説として伝えられていたのだと思います。
しかし、卑弥呼は天皇家の人物ではなかった。蘇我氏と対立する王家の娘だったのです・
本来は、卑弥呼は誰がかわかっていた。そして、応神天皇のお母さんとしての神功皇后では
なく、また息長氏の人物でもなかった。
有名な神功皇后の三韓征伐の話も、もちろん史実を基に描かれている。
これ、魏志倭人伝の謎を解くのに重要な箇所です。
そう、卑弥呼である台与は魏の要請に応じ朝鮮に出兵していたのです。
ですので、この三韓とは、新羅、百済、高句麗ではなく、本来は馬韓、弁韓、辰韓の三国です。
魏は公孫氏に服属していた、これら朝鮮半島南部の国々を討つために倭に協力を求めたのです。
卑弥呼が朝貢した景初二年は、魏はこの公孫氏と戦乱中でした。

今回から、改めて、魏志倭人伝、、卑弥呼の謎を考えていきます。この魏志倭人伝、卑弥呼
の謎は古代史最大の謎ともされますが・・・。

実は、この神功皇后の謎にも、ふたりの聖徳太子が関わります。
神功皇后が息長氏の人物であるのは、天武天皇が皇祖とする祖父の押坂彦人大兄皇子のお母
さんが息長真手王の娘の広姫だからです。天武は、卑弥呼を、息長氏の人物としてえがいた
のです。そして、過去の歴史を改竄した、天皇記・国記は、蘇我馬子と、もうひとりの聖徳
太子こと推古天皇の息子の竹田皇子が編纂したものです。


まず、神功皇后は卑弥呼であり、この卑弥呼とは台与である。

ウイッキペディア・・・
『日本書紀』において、巻九に神功皇后摂政「66年 是年 晋武帝泰初二年晉起居注云 武帝
泰初(泰始)二年十月 倭女王遣重貢獻」として、晋書の倭の女王についての記述が引用さ
れている。このため、江戸時代までは、卑弥呼が神功皇后であると考えられていた。しかし、
この年は西暦266年であり、卑弥呼は既に死去しており、この倭の女王は台与の可能性が
高いとされている・・・

景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻。太守劉夏遣吏將送詣京都。
     ******************************

これね、日本書紀は台与が卑弥呼だって言っている訳ですよ。勿論、そのとおりだと思う。
倭人伝の謎を解くのに重要な箇所です。卑弥呼が亡くなったのは、247年でも248年でもな
いということ。景初二年に朝貢し、親魏倭王の金印を授けられたのは、台与だということで
す。
では、どうして卑弥呼は魏に朝貢しにいったのでしょうか?
それは、魏から朝貢に来るように命令があったからです。魏は倭を見方に取り込み、いまだ
混乱のある朝鮮半島に出兵させようとしたのです。卑弥呼が親魏倭王として厚く遇せられた
のはこれが理由です。魏の軍旗である黄幢を授けて魏軍の傘下にいれようとしたのです。

この後の何回かの朝貢は、朝鮮半島出兵を断るためのものです。
卑弥呼は狗奴国との争いを理由に断りの朝貢をします。
しかし、魏は使者を送り魏の軍旗である黄幢を授け、出兵の催促にきます。張政を派遣した
のは朝鮮半島に出兵を促すためです。そう、このあと台与は九州にまで出向き朝鮮半島に出
兵したのです。その伝説がいまも九州北部に残っている神功皇后伝説です。

ここ、魏志倭人伝の謎を解くのに重要な箇所です。

卑彌呼以死。大作冢。徑百餘歩、徇葬者百餘人。更立男王、國中不服、更相誅殺、當時
殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王、國中遂定。政等以檄告喩壹與。
  ********************************

台与が共立された話を、朝貢の記事の後に持っていったので、混乱しているのです。
魏志倭人伝の問題の箇所のひとつです。
魏はいつ張政らを派遣したかの記述はありませんが、話の内容からしてすぐに遣わされたと
考えられるわけです。で、張政らがあったのは台与だったわけですよね。
だから、卑弥呼は正始8年の朝貢の後、つまり247年か248年頃に亡くなったとされるわ
けです。
すると、狗奴国との紛争中に、邪馬台国内での内乱が生じたわけですよね。にもかかわらず
巨大なお墓も造ったということですよね。
無理な話で、おかしいですよね。おかしいというのは誰でもわかるので問題箇所とされてい
るところです。

張政があったのは台与であるため、台与の共立の話を、朝貢の記事の後に、記述したため、
混乱している箇所です。詳しくは、また後に書き込みます。

魏志倭人伝の後、どうなったのでしょうか?魏が張政らを派遣したのは、朝鮮半島に出兵させ
るためです。その命令に応じ、卑弥呼・台与は朝鮮半島に出兵したのだと思います。
その伝説が伝えられている。

九州北部に伝えられる豊の国、いまも地名として伝わるこの豊とは、もちろん台与の国とい
うことです。卑弥呼の台与です。

そして、この台与を神功皇后として息長氏の人物として描いたのは天武天皇です。
本来は。応神天皇のお母さんではなく、垂仁天皇の皇子である、凡牟都和希王に繋げていた
のです。なぜなら、本来は、天皇記・国記において、継体天皇はこの凡牟都和希王から繋が
りがあるとして、主張・改竄して記述されていたからです。

そして、この神功皇后・・・
天武は、息長氏を継体天皇に繋げていた。それは、継体はこの垂仁天皇の皇子の凡牟都和希
王からつながると主張していたからです。
だから、凡牟都和希王のお母さんを神功皇后とし、彼女を息長氏の人物として描き、卑弥呼で
はないのだろうかとしたわけです。本来は物部系の王女なのです。

前回に記述しましたが、12代景行・13代成務・14代仲哀の3天皇は架空の天皇であり、
紀作成時に組み込まれたものです。

崇神天皇―垂仁天皇―景行天皇―成務天皇―仲哀天皇―応神天皇
崇神天皇―垂仁天皇―誉津別命

この三人(景行天皇・成務天皇・仲哀天皇)をとれば、垂仁天皇の皇子の位置にくるのは、
応神天皇でしょう。


日本書紀、神功皇后条、冒頭・・・
氣長足姬尊、稚日本根子彥大日々天皇之曾孫、氣長宿禰王之女也、母曰葛城高顙媛。
   *****************************

日本書紀、神功皇后条の冒頭の問題とされている箇所です。
神功皇后は、孝元天皇の子である開化天皇の曾孫とされています。
これは、12代景行・13代成務・14代仲哀の3天皇は架空の天皇を記紀編纂時に組み入れ
たのに、訂正し忘れている箇所です。帝紀・旧辞に記述されていた箇所です。
つまり、本来は、この垂仁天皇の皇子である、凡牟都和希王に繋げていたわけです。
前回に記述しましたが、この三人(景行天皇・成務天皇・仲哀天皇)をとれば、垂仁天皇の
皇子の位置にくるのは、応神天皇でしょう。

本来は正しい位置に卑弥呼をおいていたのです。

開化天皇―崇神天皇―垂仁天皇―景行天皇―成務天皇―仲哀天皇―応神天皇
開化天皇―崇神天皇―垂仁天皇―凡牟都和希王

おそらく、本来は、崇神天皇の皇女、豊鍬入姫命が、倭人伝の卑弥呼こと台与であり、凡牟
都和希王のお母さんとして描かれていたのように思うのですが・・・?
後に、息長氏の人物だとして改竄されたのです。

開化天皇の皇子である彦坐王と、息長水依比売との皇子が息長宿禰王であり、その娘が息長
帯比売命であるとし、凡牟都和希王のお母さんとしての神功皇后として描かれており。
彼女が卑弥呼だろうとしていたのです。

開化天皇―彦坐王と、息長水依比売―息長宿禰王―息長帯比売命(開化天皇の曾孫)

開化天皇―彦坐王と、息長水依比売―山代之大筒木真若王―迦邇米雷王―息長宿禰王―息長
帯比売命
(この二人(山代之大筒木真若王、迦邇米雷王)は、応神天皇に繋ぐために追加された人物
であり、記紀作成時に追加された架空の人物。

これ、記紀編纂時に加えられた人物たちだということ。加えたのに、訂正し忘れているのが、
日本書紀の神功皇后条の冒頭の記述。
開化天皇の曾孫なら、仲哀天皇の后になるのはおかしいわけです。男と女が逆ならありえな
いことでもないかしれませんが、2世代前の人物で、しかも女性ですよね。


彦坐王と、息長水依比売の子供が、息長宿禰王であり、その子供が神功皇后こと息長帯比売
命。

記紀以前、そう帝紀・旧辞においてはこう記述されていたのです。
開化天皇の曾孫なら、世代的には、凡牟都和希王と同世代ですが、女性ですので、凡牟都和
希王のお母さんであっても不思議ではないのです。でも、後付の、架空の人物なので関係な
いですが、本当は、崇神天皇の皇女であり、初代斎宮の豊鍬入姫命の位置に神功皇后をおい
て、彼女が卑弥呼(台与)なのでは?としていように思うのですが・・・?
だから、誰が卑弥呼(台与)なのかっていうのはわかっていたとは思うのですが?

つまり、天武が編纂しようとしていた「帝紀・旧辞」においては、垂仁天皇の皇子の凡牟都
和希王のお母さんが神功皇后とされていたのです。記紀編纂時に三世代増やしたのに、訂正し
忘れたために矛盾が生じた箇所です。


邪馬台国、卑弥呼こと台与は、物部氏の王女です。邪馬台国は後の物部氏です。
なぜなら、この物部氏は非常に広範囲に分布するからです。これはいうまでもなく広範囲の
勢力地を保持していたということにほかなりません。天皇家なんて存在しません。

物部系
開化天皇・伊香色謎命―崇神天皇―垂仁天皇―五十瓊大雀命敷入彦命―五百城入彦皇子―
品陀眞若王―菟道稚郎子皇子―仁徳天皇・大雀命―允恭天皇―雄略天皇




写真は、崇神天皇の皇女 とされる、豊鍬入姫命 が、天照大神を祭ったとされる檜原神社 です。
元伊勢 ともいわれます。倭の笠縫邑の有力な候補地とされます。この神社も大神神社と同様に、
三輪山をご神体とします。
私のお気に入りの場所でもあるのですが、是非訪れてください。ここからの景色は素晴らしいです。
それは、三輪山山麓の北西部の高台に位置するからです。この台地を降りた位置に纏向遺跡があります。

この場所に立てば、祭祀に関係する卑弥呼の宮がこの位置に造られるだろうと容易に想像できます。
巻向を見渡せる絶好の位置にあります。倭人伝の卑弥呼こと台与の宮です。
この巻向周辺は、三輪山への祭祀のための場所であり、中心地は纏向を見渡せる位置ににある、
この高台の場所です。

この、崇神天皇の皇女 とされる、豊鍬入姫命 が、倭人伝にでる台与のことであり、魏に朝貢したのは
卑弥呼の宗女とされるこの豊鍬入姫命です。
開化天皇妃とされる、伊香色謎命が初代の卑弥呼であり、倭人伝の、魏に朝貢した卑弥呼とは、この豊鍬入姫命です。
初代卑弥呼の宮は、いまの大神神社のある場所であり、台与の宮はこの檜原神社の場所なのではないでしょうか?
この豊鍬入姫命のお墓は、ホケノ山古墳とされますが、ここ改竄されていて、箸墓古墳が、倭人伝の台与の
お墓であり。ホケノ山古墳が初代卑弥呼のお墓です。ともにこの檜原神社の高台のそばに位置し纏向遺跡内の古墳です。

箸墓古墳の被葬者は、第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命とされ、 ホケノ山古墳の被葬者は、崇神天皇の
皇女の豊鍬入姫命ともされます。古墳の築造時期の推定から考えれば逆であり、箸墓古墳の被葬者こそ、物部姫
であり倭人伝の台与こと豊鍬入姫命との伝説が変更されている。
一枚目の写真は、檜原神社そばの池からの三輪山です。二枚目の写真は箸墓古墳であり、高台に位置するために、
纏向周辺を見渡せます。また、六枚目の写真にあるように西側遠方には二上山が見え眺望が素晴らしいです。


















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