聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

短里使用の可能性。

2011年06月07日 | 魏志倭人伝の謎


魏の使者が倭国にきたから、倭人伝の行程記述はこの使者のものだといわれていますが、
これは、ちがうでしょう。
短里は周の時代に使用されたともいわれてますよね。
で、秦の始皇帝によって度量衡の統一されたわけでしょう。つまりそれ以前は短里と長里が存在していた可能性があるということでしょう。

それで、あくまで可能性ですけど・・・

三国志魏書の辰韓伝・・・
辰韓在馬韓 之東、其耆老傳世、自言古之亡人避秦役來適韓國、馬韓割其東界地與之。
有城柵。其言語不與馬韓同、名國為邦、弓為弧、賊為寇、行酒為行觴。相呼皆為徒、有 似
秦人、非但燕、齊之名物也。名樂浪人為阿殘;東方人名我為阿、謂樂浪人本其殘餘人。
今有名之為秦韓者。始有六國、稍分為十二國。

戦国時代から秦の始皇帝の戦乱期までには、多くの中国人が朝鮮半島に移住したと考えられるわけでしょう。辰韓伝でも、祖先の人々は秦の時代に労役から逃れてきたと記述されています。
つまり朝鮮半島の三韓の国々では、短里が使用され続けていた可能性があるのでは?

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