聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

天寿国繍帳の謎と光明皇后

2016年03月08日 | 聖徳太子の謎


わたし、地元和歌山県は御坊市に安珍清姫で有名な道成寺があります。
ですが、寺の縁起では、髪長姫こと藤原不比等の娘とされる宮子姫の伝説が存在します。
第42代天皇、文武天皇の妃となりました。聖武天皇のお母さんです。
同じく、藤原不比等の娘の安宿媛こと光明子にも不思議な伝説が存在します。
彼女たちは、本当は不比等の娘ではないとの伝説が存在します。
光明子は、宮子の子である聖武天皇の皇后となり光明皇后といわれました。
ともに絶世の美女だったとされます。美女を探し出し、文武天皇の妃とし、
子供を身ごもると、自らの養女としたのでしょうか?
不比等は、天皇家と姻戚関係を結び、ここに藤原摂関政治が始まり、藤原氏は権力を握ります。

藤原宮子は不比等と賀茂比売の娘とされ、光明子も、不比等と県犬養 三千代(橘三千代)
の娘とされます。

光明皇后は、仏教に篤く帰依し、聖徳太子の謎に深く関わりることになります。
東大寺の大仏の建立を、聖武天皇に推めたのも彼女だと言われます。
それは怨霊を深く恐れたからです。

養老4年、720年に、藤原不比等は死去します。翌年の721年に長屋王は右大臣となり、藤
原武智麻呂は中納言となったとされます。当然ながら権力争いがおき、長屋王と藤原氏は対
立するようになります。やがて、長屋王の変へとつながってゆくことになり、長屋王は、
729年のこの変で自害しました。
怨霊は、すぐにあらわれ、藤原氏に禍をもたらします。翌年、光明子のお母さんとされる、
橘三千代が亡くなります。光明子は、法隆寺に財宝を寄進したとされます。
これ以前にも、藤原不比等が亡くなり、元明天皇が崩御した後にも沢山の財宝が法隆寺に寄
進されています。
藤原四兄弟は、光明子を皇后に立て、藤原四子政権を樹立しますが、737年に天然痘により、
兄弟4人全員亡くなりました。翌年法隆寺に多額の寄進をおこないます。
そして、739年に、法隆寺に東院伽藍を建設することになります。

どうして、藤原氏は、光明皇后は、法隆寺に関わるのか?
怨霊は法隆寺に存在すると思われていたことに謎をとく鍵があるように思います。
長屋王の怨霊以前、既に怨霊は存在していたということです、この恐れが、東大寺建立、
法隆寺に対する寄進にあらわれています。


天寿国曼荼羅繍帳・・・
天寿国繍帳は、残片ですが中宮寺に保存されていました。
創建当時の中宮寺は、今の中宮寺より東方約400メートルの場所に位置していたようです。
この創建中宮寺は、野中寺の金銅弥勒菩薩半跏思惟像の銘文にあるように、中宮天皇とは推
古天皇のことであり、ここ中宮寺は息子の竹田皇子を祀るために宮から寺になったのです。
中宮天皇こと、推古天皇のお寺であるので中宮寺なのか?あるいは、3つの宮の中にあった
宮なので、中宮といわれ、推古が中宮天皇と呼ばれたかは定かではありませんが、どちら
にせよ、推古が息子を祀るために造ったお寺です。
創建の由緒がないのは、天武によって消されたからです。発掘調査により、創建は古い時代
とされます。竹田皇子没後に、推古によって宮から竹田皇子を祀る菩提寺になったのだと
思います。おそらくですが、息子の竹田皇子没後に、ここに住んでいたようにも思います。
だから、中宮天皇なのかな・・・?

鎌倉時代の、1274年に中宮寺の中興の祖といわれる尼僧の信如により、法隆寺の蔵から、
聖徳太子ゆかりとされる、この「天寿国繍帳」が再発見されたとされます。
上宮聖徳法王帝説にも、写されており以下のよな銘文だったと推測されています。

天寿国繍帳

斯帰斯麻  宮治天下  天皇名阿  米久爾意  斯波留支
比里爾波  乃弥己等  娶巷奇大  臣名伊奈  米足尼女
名吉多斯  比弥乃弥  己等為大  后生名多  至波奈等
己比乃弥  己等妹名  等巳弥居  加斯支移  比弥乃弥
己等復娶  大后弟名  乎阿尼乃  弥己等為  后生名孔
部間人公   主斯帰斯  麻天皇之  子名ヌ奈  久羅之布
等多麻斯  支乃彌己  等娶庶妹  名等巳弥  居加斯支
移比弥乃  弥己等為  大后坐乎  沙多宮治  天下生名
尾治王多  至波奈等  巳比乃弥  己等娶庶  妹名孔部
間人公主  為大后坐  濱辺宮治  天下生名  等巳刀弥 
弥乃弥己  等娶尾治  大王之女  名多至波  奈大女郎
為后・・    ・・歳在

辛巳十二  月廿一癸  酉日入孔  部間人母  王崩明年
二月廿二  日申戌夜  半太子崩  于時多至  波奈大女
郎悲哀嘆  息白畏天  皇前日啓  之雖恐懐  心難止使
我大王与  母王如期  従遊痛酷  无比我大  王所告世 
間虚仮唯   仏是真玩  味其法謂  我大王応  生於天寿
国之中而  彼国之形  眼所*看  稀因図像  欲観大王
往生之状  天皇聞之  悽然告曰  有一我子  所啓誠以
為然勅諸  妥女等造  繍帷二張  画者東漢  末賢高麗
加西溢又  漢奴加己  利令者椋  部秦久麻

この天寿国繍帳の銘文に関しては、「天皇」の呼称が使用されている関係で、多くの学者先
生が研究されていますので、その詳細は書き込みませんが、日本書紀より時代が下ることは
ないといわれます。
この銘文は、推古朝に制作されたものではないのでは?といういくつの指摘があるようです。
それは、・・・天皇号、和風諡号、暦の問題、公主の名称、などが問題箇所のようです。
特に暦の問題は決定的のようにも思います。

儀鳳暦・・・
儀鳳暦は、それまで使用されていた元嘉暦にかわって、文武天皇元年である697年から
67年間使用されとされます。つまり、銘文はこの期間に縫われた可能性が大きい。

このようにいくつかの点で、この銘文は推古朝に制作されたものでない可能性が大きい。
というか、ありえないように思います。繍帳の図柄については新しい部分と、古い部分が混
雑しているそうです。本来、この繍帳自体は、推古が息子の竹田皇子のために作り、中宮寺
に祀っていたもののように思うのですが、銘文は後に、つまり、聖徳太子として祀られるよ
うになってから刺繍されたものです。


銘文の前半部分の、系図は、欽明天皇から続く蘇我系の王である天皇の系図です。
この天寿国繍帳は、繍帳自体は推古朝に存在した可能性があっても、この刺繍文字は、長屋
王の変の後に聖徳太子が祟ったあと、光明皇后こと藤原光明子に祀られるようになってから
縫われたものです。
それは、光明皇后が、藤原房前に命じて法隆寺の上宮王院(東院伽藍)東院を造らせた天平
11(739)年頃(『法隆寺東院縁起』)・・・おそらく740年以降作られたものなのでは?
法隆寺の伽藍縁起并流記資財帳には、繍帳の記述があるものの、銘文のことには触れていない
ので、この法隆寺資財帳が提出された747年以降に縫われたともされます。
つまり、繍帳は存在していたのですが、銘文は後に刺繍されたものだということです。

おそらく、行信によって施行された法隆寺の聖霊会において完成していたと思います。
ですので、聖霊会が行われた748年に刺繍されたように思うのですが・・・?

それで、いつ銘文が刺繍されたのか?に関する問題は、もう既に謎解けているように思いま
すが、問題は、誰が、どういう理由で、こういう文章を刺繍したのか?・・・だと思うので
すが・・・?

聖徳太子没後、100年以上経てから何故、こういう文章を作成する必要があったのでしょうか?
特に、この銘文の前半部分。どうして、わざわざ系図を書き込む必要があったのかということ
が、この銘文を解く鍵だと思うのですが?

これ、前半部分の系譜は、大王家ではなく天皇家の系譜です。元は天皇記、国記に記述され
ていた、欽明天皇から繋がる蘇我氏の系譜を利用して、厩戸皇子に繋げたものです。

そして、この刺繍の銘文は、藤原氏が改竄した系譜を正当化するために必要な文章なのです。
ですので、藤原不比等の娘とされる光明皇后が刺繍を縫わせたのだと思うのですが?

もう何度も書き込んでいますが、問題は以下の系図です

押坂彦人大兄皇子(聖徳太子 厩戸皇子)―舒明天皇―天武天皇―高市皇子―長屋王
押坂彦人大兄皇子(聖徳太子 厩戸皇子)―茅渟王―孝徳天皇―有馬皇子

記紀や、この天寿国繍帳の銘文どおりの系譜であり、聖徳太子が、用明天皇と、穴穂部間人
皇女の皇子であれば、法隆寺に多額の寄進をする理由なんてないわけです。

前回は、蘇我氏による系譜改ざんの必要性を書きました。天皇記・国記において物部系の王
たちを抹殺して、大王ではなかったと系譜を改竄しています。

そして、天武が王位についた後、天武によって祖父の押坂彦人大兄皇子を大王として、本来の
系譜が作り始められました。(帝紀・旧辞)
天皇記・国記においての、推古条の皇太子は、竹田皇子だったのですが、天武はこの皇太子
を厩戸皇子こと祖父の押坂彦人大兄皇子だとして改竄していました。

しかし、藤原氏や天智系の天皇にとって、彼から繋がるのが本来の王家だと都合が悪いため、
厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子を大王でなかったとし、日本書紀、推古条における厩戸皇子を
用明天皇と穴穂部間人皇女との皇子だと、系譜を改竄しました。

天智系の天皇や、藤原氏にとっては、押坂彦人大兄皇子を大王だとしたくないわけです。
彼から繋がる、高市皇子や長屋王と対立していたのは藤原氏であり、孝徳天皇や有馬皇子
と対立していたのは天智であり、彼らが本来の王家の大王では都合が悪いわけです。
大王殺害の大逆罪にあたります。
推古が天皇時、大王だったのが押坂彦人大兄皇子でした。

本来の王家(天武系)が断裂してしまい、藤原氏や傍系の王たちが権力争いに勝利を得て、
天皇の名称を使用し系譜を改ざんして、正当化した。それが、偽書である日本書紀、古事記
です。

この天寿国繍帳の銘文にも天皇と大王が使用されていて、厩戸皇子を大王としています。
なぜ大王かっていうと、実際に本当に大王だったからです。
天皇と大王が存在していたからです。

厩戸皇子を押坂彦人大兄皇子ではなく、を用明天皇と、穴穂部間人皇女の皇子だとし、本来
の系図から外したのは、長屋王の事件あって押坂彦人大兄皇子が祟った後ではないでしょうか。
藤原四兄弟が病死した737年以降は、特に怨霊として恐れられ祀られたのではないでしょうか・・・?
この東院伽藍を建設して、怨霊を封じようとした時、混乱は始まります。

法隆寺は、もともとは聖徳太子の怨霊を鎮魂するためのお寺ではないのですが、この東院伽
藍は怨霊封じの施設です。この法隆寺の怨霊は、長屋王につながる押坂彦人大兄皇子、こと
日十大王です。怨霊を封じるための東院伽藍です。

この東院伽藍八角堂の夢殿には、聖徳太子等身と伝えられる秘仏の救世観音像があります。
白布で覆われて長年において人目にふれることはありませんでした。
この仏像は、どこに存在していたかは謎だとされます。

この救世観音像は、推古天皇が息子である竹田皇子を祭っていた元の中宮寺に、天寿国繍帳
とともに安置されていたものだと思います。
東院伽藍は、斑鳩の宮の跡地に建設されたとされます。天武による、法隆寺創建時に、竹田
皇子の宮や寺である、この斑鳩宮や斑鳩寺は取り壊され再利用しています。
斑鳩寺は、竹田皇子が亡くなった時に菩提寺となり、本尊として釈迦三尊像がありました。
推古のお寺でもある中宮寺は、息子の竹田皇子没後に菩提寺(尼寺)として、推古が造った
お寺なのでは?そして、本尊の木造菩薩半跏像(弥勒菩薩像)と共に、これら救世観音像と
天寿国繍帳が存在していたのだと思うのですが・・・?

その理由は、この仏像は止利式の飛鳥仏であるからでもあります。
つまり、救世観音像は東院伽藍が建設した時に、作られた仏像ではないということです。
そして、天武が、法隆寺を建設し、祖父の押坂彦人大兄皇子を祀ったのは、もちろん天武朝
です。ですので、この救世観音像は、推古天皇の皇子である竹田皇子の像です。

推古は愛する息子が亡くなった時に、等身大の像を作り、菩提寺である中宮寺において、本
尊の木造菩薩半跏像と共にに祀っていたのです。

行信が、東院伽藍を建設した時に、新たに中宮寺自体も東院伽藍そばに移設し、これらの仏像
も移し祀ったのだと思います。そう中宮寺も、法隆寺と同じく押坂彦人大兄皇子を祀るお
寺だとして間違ってしまったのです。
なぜなら、中宮寺を東院伽藍のそばに移築する理由がこれ以外に考えられないように思うの
ですが?どうなのでしょうか・・・?
この救世観音像も本来は推古が造らせた、竹田皇子の像ですが、厩戸皇子こと、押坂彦人大
兄皇子の像だとして間違えて封じたのです。


そして、聖徳太子が大きな謎になってしまったのは、法隆寺本尊である釈迦三尊像の銘文の、
間違った解釈によるのもです。では、だれが間違ってしまったのでしょう?

本来は竹田皇子のことが書かれていた、法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘の「上宮法皇」を、厩
戸皇子こと押坂彦人大兄皇子だとして間違えて解釈したものです。
さらに系譜を改竄したため大きな謎になってしまったのです。

斑鳩寺を壊し、法隆寺を建設したあと、斑鳩寺の本尊だったこの仏像を法隆寺に移していた
のだろうと考えられます。それが、そもそも混乱のはじまりです。
斑鳩寺は竹田皇子のお寺であり、法隆寺は天武が祖父の押坂彦人大兄皇子を祀るために建設
した菩提寺だからです。

聖徳太子を祀るように、光明皇后からの命を受け、法隆寺東院を復興したとされるのは僧の
行信です。押坂彦人大兄皇子や長屋王の怨霊の祟りを抑えるための中心人物でした。
仏の力で、怨霊を封じようとしたのです。東大寺もまたそうです。仏教の力で怨霊を封じ込
めようとしたわけです。

藤原家に天然痘をもたらしたのは、長屋王の怨霊と思われていました。長屋王は、ここ法隆
寺に祀られていた押坂彦人大兄皇子に繋がります。そう、天武系の大王です。
光明皇后は、法隆寺に多額の寄進をしています。

法隆寺本尊である釈迦三尊像は、本来は、斑鳩寺にあったもので、竹田皇子がなくなった時
につくられたものなのですが、天武によって法隆寺が創建され、その時この仏像も法隆寺に
おいて祀られていたために間違いが生じたわけです。
天武は祖父の押坂彦人大王を祀るため法隆寺を建設しました。当然、光明皇后も行信も法隆
寺には竹田皇子ではなく、押坂彦人大王を祀っているのを知っていたはずです。

そう、彼ら、光明皇后と行信がこの釈迦三尊像の銘文の上宮法皇を、押坂彦人大兄皇子こと
厩戸皇子だと間違った解釈をしてしまったのです。さらに、記紀の系譜を改竄し天寿国繍帳
の銘文を作成しました。
そして、これも中宮寺にあった救世観音像を、厩戸皇子こと押坂彦人大王の像だとして封じ
てしまったのです。怨霊を封じるため、聖徳太子として祀ったのです。

聖徳太子の謎はここに始まります・・・。



写真は、東院伽藍にある、聖徳太子の等身像とされる救世観音像が安置されている夢殿です。

ウイッキペディア・・・
天平9年の『東院資財帳』に「瓦葺八角仏殿一基」の存在が記され、その頃に創立された可能性
も考えられている。8世紀末頃には「夢殿」と呼称される。

この天平9年とは、まさに天然痘により、藤原四兄弟が相次いで病死する年です。
その年には、すでにこの夢殿は造られ、怨霊を祀り封じようとしていました。
いかに怨霊対する恐怖が大きいものかを物語っているように思います。


                         

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