聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

野中寺の金銅弥勒菩薩半跏思惟像の謎と中宮天皇

2015年11月03日 | 聖徳太子の謎


大阪府羽曳野市にある、青龍山野中寺は聖徳太子(竹田皇子)の命により
蘇我馬子が造営したお寺であり「中の太子」と呼ばれています。
法隆寺式の伽藍だったとされます。
叡福寺が、上の太子で、この野中寺が中の太子、下の太子は大聖勝軍寺です。

丁未の乱(587年)において、聖徳太子(竹田皇子)が休息をとった地であり、
聖徳太子の命を受けた蘇我馬子が開基と伝えられています。
塔跡から「庚戌年正月」と刻まれた瓦が出土しました。590年の創建です?

このお寺で、弥勒像が発見されました。おそらくいまのところ、天皇銘のある
仏像では最古ものです。小さな可愛らしい仏像ですが、天皇号が記された
非常に重要な仏像です。

野中寺金銅弥勒菩薩半跏思惟像
丙寅年四月大旧八日癸卯開記栢寺知識之等詣中宮天皇大御身労坐之時
誓願之奉弥勒御像也友等人数一百十八是依六道四生人等此教可相之也


この銘文の解釈は難解?だといわれます。解釈が確定しないのは、
天皇号の使用時期と、銘文の「丙寅年四月大旧八日癸卯」に関し
て、・・・4月8日が癸卯なのは、天智5年である666年のみとされているからです。

丙寅年は、666年が非常に有力とされているからです。
本当に666年なのでしょうか?

天皇号の使用に関する問題では、天皇号の使用は天武朝以降が有力と
されているからでもあります。ですので、天智朝だとしても時代が
少しくだります。
だから、まさか、606年だと誰もが考えないから解決しないのです。


この銘文には、いくつかの判読できない言葉があるとされます。
特に、問題なのは、「大旧」「栢寺」「中宮天皇」でしょうか。

銘文の、この文字が「旧」判読できない?ようなのです。大旧はどう解釈
したらいいのか、
いくつかの解釈が示されていますが確定的なものはありません。
この「旧」については、別の字ではないかとする説もあります、「朔」、
「洎」(いたる)とする
説もあるようです。でも旧としか読めないようにも思うのだけど?

ウイッキペディア・・・
「旧」は唐で新しく制定された麟徳暦(儀鳳暦)に対する旧暦(元嘉暦)
の意に解し、この年の
4月が新暦(麟徳暦)では「小の月」、旧暦(元嘉暦)では「大の月」に
あたることから「大旧」
と記したという

儀鳳暦は持統天皇4年(690年)から元嘉暦との並用を始めた
(『日本書紀』持統4年11月甲申条)。
           *************

この解釈はいいように思うのだけど・・・どうでしょうか?

でも、元嘉暦と儀鳳暦の並用でも持統天皇690年以降ですから、666年に
儀鳳暦が用いられていたとするのはおかしいですよね。

元嘉暦は旧暦ではなく新暦なのでは?丙寅年が606年だとすると
新暦は元嘉暦です。
旧暦は、欽明15年(554年)に百済から渡来していた暦博士の
固徳王保孫が、暦法をもたらしたとされます。銘文の「旧」とは
この百済の暦です。

推古12年(604年)に 初めて元嘉暦が用いられました。606年の二年前です。


この仏像は、百済からの渡来人が制作したと考えられますよね。
また、この栢寺の僧たちの中にも渡来人が多くいたと思われます。
それで、彼らは、この自国の百済の暦を使用していたのではないのかな?

丙寅年の四月大旧八日癸卯・・・
つまり、これは、4月は新暦の元嘉暦では「大の月」であるから、「四月大」。
旧歴である百済暦では、八日は癸卯・・・という意味なのでは?



しかも、丙寅年を666年とすると、中宮天皇といわれる人物は存在しません。
斉明天皇は661年に崩御し、天智天皇が即位したのは、668年だからです。

丙寅年は、666年である。天皇号の使用は天武朝以降が有力である。
この2点に固執するかぎり絶対に謎は解けません。
だって666年に中宮天皇なんていないから・・・。


この丙寅年は、推古天皇、聖徳太子(竹田皇子)存命中の606年でいいのではないでしょ
うか?すると、この銘文の解釈は簡単ですよね。

この銘文における、謎とされるこの「中宮天皇」とは、・・・もちろん推古天皇です。
天皇とは蘇我の王の称号です。591年に蘇我の王である天皇に即位したのが推古です。
いまのところ、天皇号の最も古く使用されたものです。
本当の、初代天皇は彼女、推古天皇です。
この「天皇」号の使用例があまりないのは、天皇とは大王ではなく
蘇我の王の名称だからです。
蘇我馬子が編纂した天皇記・国記は、蘇我氏の歴史書です。

さすがにね、天皇号の使用が推古以前というなら、わたしもどうか?と思いますが、
推古なら、なにも問題ないでしょうに。

だって、隋書には多利思比孤(たりしひこ)で、阿輩鶏彌(おおきみ)
だって云っているわけでしょう。男の王で大王だと・・・。
じゃー、このとき天皇号が使用されていなかったら、推古はなんと呼ばれていたので
しょう?最高位の名称は、大王以外ないでしょうに。
これは、大王である多利思比孤と、天皇である推古が存在したということです。

それで、この中宮天皇の中宮とは何を意味するのでしょうか?
この謎も、二人の聖徳太子から謎解ける。

この中宮とは、もういうまでもないのですが、・・・中宮寺のことです。

法隆寺そばにある、中宮寺は、聖徳太子に母親である穴穂部間人皇女の
御願によって創建されたとされます。
ここも聖徳太子が混同されていて間違っています。
仏教に関係する聖徳太子とは、竹田皇子のことです。その母親は推古天皇です。

聖徳太子こと竹田皇子の宮が斑鳩の宮です。推古は、この息子の竹田皇子の宮の
そばに自らの宮を造ったのです。そしてここに住まいしていたのです。
それが後に、残念なことに息子である聖徳太子の方が先に亡くなりました。
推古は自らの宮を、お寺にして聖徳太子の菩提を弔ったのです。

中宮寺は推古天皇の御願で創建されたお寺です。推古天皇は中宮天皇とも
呼ばれていたのでお寺の名が中宮寺になったのです。

丙寅年(606年)の四月に中宮天皇(推古天皇)が病気になったとき栢寺
の僧によって病気治癒を願って作られた弥勒菩薩像です。

それでは、この銘文の「栢寺」はどこのお寺なのでしょうか?橘寺ともいわれます?

木崎愛吉氏の説では、法隆寺献納宝物である四十八体仏は、飛鳥の橘寺
から法隆寺金堂に移されたものであるのですが、本来は四十九体仏であって、
のこりの一つがこの野中寺の仏像なのでは?・・ということだそうです。

つまり、もと橘寺にあったものなので、「栢寺」は、「橘寺」なのではないのか?
という指摘です。これは、なんかいいようにも思うのですが???


竹田皇子のお母さんは推古天皇です。彼女は中宮天皇とよばれていたのです。
そして、斑鳩にある中宮寺は、推古天皇が亡くなった息子の竹田皇子の菩提を弔う
ために造営したものです。本来は、中宮天皇こと推古のお寺なので中宮寺なのです。

ウイッキペディア・・・
中宮寺は、現在は法隆寺東院に隣接しているが、創建当初は400メートルほど東にあった。
塔の心礎は地中に深く埋める形式とする。これは四天王寺、飛鳥寺、法隆寺などの塔心礎
と同様で、創建時代が古いことを示唆する。

写真は、中の太子である野中寺と、下の太子は大聖勝軍寺です。


                                              
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