聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

広隆寺の謎と聖徳太子

2015年06月27日 | 聖徳太子の謎


京都の太秦にある秦氏の氏寺である蜂岡寺(広隆寺)は「太子建立七大寺」のひとつで
あり聖徳太子を祀っています。国宝の弥勒菩薩半跏像が有名です。
何故、秦氏の氏寺である広隆寺に聖徳太子が祀られているのでしょう?
これ、不思議な謎でしょう・・・?これも誰も疑問に感じないのでしょうか?

日本書紀、推古天皇条・・・
聖徳太子が「私のところに尊い仏像があるが、誰かこれを拝みたてまつる者はいるか」
と諸臣に問うたところ、秦河勝が、この仏像を譲り受け、「蜂岡寺」を建てた。

十一月己亥朔、皇太子、謂諸大夫曰「我有尊佛像、誰得是像以恭拜。」時、秦造河勝進曰、
臣拜之。便受佛像、因以造蜂岡寺。

これが理由だそうです。本当でしょうか?これに関しても誰も疑いの目を向けてはいませ
んよね。だって他に、秦氏が聖徳太子を祀る理由なんてないものね。

でも、天智天皇のお父さんは秦河勝であるとするわたしには、聖徳太子を祀らなければなら
ない大きな理由があります。
この日本書紀の記述は、聖徳太子が祟った後に彼を祀る必要があったため、後に文章を後
から差し込んだのですよ。後付け理由です。


この広隆寺も法隆寺と同じく、もちろん創建には聖徳太子は関わってはいません。
この日本書紀の記述も、もちろん由来を聖徳太子の時代に持っていくための捏造分です。
後の、広隆寺縁起や広隆寺資材交替実録帳には、聖徳太子が亡くなった年に創建されたと
しています。そう明らかな創建の由来がなかったからです。
本当は祟った後に聖徳太子は祀られたからです。祟ったあとに祀られたとは書けないから、
創建の由来を聖徳太子没年にしているのです。
聖徳太子が亡くなった年に創建というのはもちろん捏造分です。

もとは秦氏の氏寺(蜂岡寺)だったのですが、後に、つまり聖徳太子を祀る必要があり、
聖徳太子の鎮魂のお寺になった。それが広隆寺です。


では、何故、祀る必要があったのでしょうか?秦氏は、聖徳太子とは全く関係ないわけで
しょう?これが大きな疑問点ですよね。
そう、それは前に述べたように、秦造河勝は天智天皇のお父さんであるからです。
藤原不比等は天智の子だったからです。まーこれも証拠といってもいいかもです。
そして、厩戸皇子こと聖徳太子とは押坂彦人大兄皇子だからです。

もう、何度も記述していますので詳しくは書きませんが、藤原不比等の謎で述べた、
ふたつの系図をみれば容易にわかります。

押坂彦人大兄皇子(聖徳太子 厩戸皇子)―舒明天皇―天武天皇―高市皇子―長屋王
押坂彦人大兄皇子(聖徳太子 厩戸皇子)―茅渟王―孝徳天皇―有馬皇子

おそらく、聖徳太子は藤原四兄弟が病死した737年以降に祀られたと思うのですが・・・?

押坂彦人大王は偉大な大王だった・・・と主張したいのは天武ですが、天智系の女帝や
藤原氏、蘇我氏にとっては彼が大王だと都合悪いわけです。


少し天智天皇の謎を続けます・・・

天智天皇が表舞台に現れたのが乙巳の変のです。
この乙巳の変の後、孝徳天皇は、645年に即位しますが、中大兄皇子と対立します。
これは、もちろん朝鮮半島の情勢が影響しました
孝徳天皇は、646年に高向 玄理を遣新羅使として新羅に派遣しました。
孝徳天皇は、新羅側で、朝鮮出兵には反対していたのだと思います。
百済の中大兄皇子に対抗するため、孝徳天皇は蘇我倉山田石川麻呂を右大臣にし、
親新羅である蘇我氏を味方につけようとしますが、結局この二人は天智に暗殺され
たのだと思います?
孝徳天皇崩御後、斉明天皇が重祚し即位します。


天智天皇暗殺の謎

百済は、660年に唐と新羅の連合軍に滅ぼされます。
しかし、661年に新羅側の人物を一掃した天智は、ついに朝鮮に出兵します。
最終的には、663年に白村江の戦いに敗北することになりました。

671年11月10日
唐国から沙門道久・筑紫君薩野馬・韓島勝娑婆・布師首磐の四人が来て、『唐国使者郭務悰
ら六百人、送使沙宅孫登ら千四百人、船四十七隻で比知島まで来た。我らは人数も船も多い
ので、突然入港すれば防人が驚いて矢を射かけるだろう』・・・


唐国の使者の郭務悰の要求はもちろん、戦争を仕掛けた天智天皇の首です。
使者の郭務悰は、この白村江の戦の以前から来日していて、日本を味方につけようとしまし
た。しかし再三の要求に反して、百済側につき白村江の戦に参加し敗北しました。

天智は、もちろん病死したのではなく、暗殺されました。
唐国の使者郭務悰は天智天皇の死(もちろん首)を確認してから帰国しています。

日本書紀では・・・郭務悰らは、みな喪服を着て、三ぺん拳哀の礼をした。
東に向かい頭を地に近くとどめて敬礼した。

こういうふうに日本書紀は描写していますが、持統、元明はこの天智の娘です。
暗殺されたなんて書きません。


以下有名な扶桑略記の記述ですが・・・
扶桑略記
 同月五日,大友皇太子,即為帝位。【生年廿五。】一云,天皇駕馬,幸山階鄉,更無還御。
永交山林,不知崩所。【只以履沓落處,為其山陵。以往諸皇,不知因果,恒事殺害。】山陵,
山城國宇治郡山科鄉北山。

靴だけ残っていたのは、遺体を郭務悰のもとに、運んだからです。

ここ・・・以往諸皇,不知因果,恒事殺害。・・・問題箇所とされているそうですが、

ここは、もちろん天智天皇が、常に殺害をこととしてきたことの因果(暗殺された)
だということを諸侯はしらない。・・・という意味です。

蘇我入鹿を殺し、蘇我倉山田石川麻呂?古人大兄皇子、有馬皇子と、おそらく孝徳天皇も。

天智天皇は、大王家の人間をも暗殺し、王座を簒奪した大悪王です。
この彼の暴挙を暴露したのはゆうまでもなく天武天皇です。

「天は武王を立てて悪しき王である紂王を滅ぼした」・・・ということです。

ですが、・・・歴史は勝者の歴史です・・・記紀を編纂する必要があったわけです。

漢風諡号は、天武系の最後の王である淳仁天皇の御代に淡海三船により、一括撰進された
とされます。

写真は、北葛城郡王寺町にある、達磨寺です。ここも聖徳太子と関係し、創建は、推古天皇
の御代だとされます。聖徳太子の愛犬だと伝えられている、雪丸の像があります。
聖徳太子の愛犬だと、犬まで賢くなります。人間の言葉が理解できたそうです。
いまは、ここ王寺町のマスコットです。


               

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法隆寺再建の謎と金堂薬師如来像光背銘

2015年05月18日 | 聖徳太子の謎


法隆寺は、謎が多くあるとされます。なかでも再建されたのかどうかということが、
大きな謎とされているようです。

ですが、この法隆寺再建の謎は、わたしにとっては凄く簡単な謎です。
斑鳩宮と斑鳩寺は、推古の息子の竹田王子の宮と寺とするわたしには、こんなの謎でも
なんでもない。
もーーーーーぅ、どうしてこんな簡単な問題が解決していないのか不思議なくらいです。


斑鳩寺を、創建法隆寺というのなら法隆寺は再建されたいうことですが、斑鳩寺は
法隆寺ではありません。
法隆寺は再建されたのではなく、天武朝に初めて建てられました。
いま再建されたといわれている時が、創建された時です。

法隆寺再建の問題は、火災にあった若草伽藍跡が見つかったために法隆寺は再建された
ということになっていました。
しかし、五重塔の心柱の用材が、樹木の年代がかなり正確に解ると言われている、
年輪年代法によって594年に伐採されたヒノキ材だったということが判明し、新たに謎が
深まったとされています。
ですが、そーーーではないのです。

法隆寺再建の謎が、これによって解決したということです。

聖徳太子が建立に関わったとされる、七大寺(法隆寺、四天王寺、広隆寺、橘寺、中宮寺、
法起寺、葛木寺)や、それ以外にも創建の由来を聖徳太子にしているお寺が多くあります。
実際、同時期にこんなに沢山造れるわけでもないわけです。
ほとんどは、聖徳太子が生きていた時代以降に建てられたものですが、創建の由来を
聖徳太子しています。
実際に創建には関わっていないので、この法隆寺と四天王寺以外は「聖徳太子ゆかりの寺」
とされています。

この法隆寺は、聖徳太子が実際に関わったとされていますし、誰もがそう思って疑うことを
しないところに問題があります。
そう法隆寺も同じです。法隆寺も、「聖徳太子ゆかりの寺」です。四天王寺もです。
あくまで、・・・ゆかりです、もちろん実際に創建には関わっていません。

法隆寺は天武が皇祖と仰ぐ祖父の押坂彦人大兄大王を祀るために建てたものです。
斑鳩宮と斑鳩寺は推古の息子の竹田王子の宮でありお寺です。
そして、この斑鳩寺は藤ノ木古墳と関係するのは、まず間違いないように思います。


法隆寺と斑鳩寺は、ことなるということは日本書紀に記述されています。

日本書紀 天智天皇条・・・
八年
十二月、災大藏。是冬、修高安城、收畿內之田税。于時、災斑鳩寺。 

九年
夏四月癸卯朔壬申夜半之後、災法隆寺、一屋無餘。大雨雷震。

天智天皇条において斑鳩寺と法隆寺とが書き分けているわけですから、斑鳩寺は法隆寺
ではありません。しかも8年と9年、半年も経っていません・・・。


天武は祖父の押坂彦人大兄皇子を祀るために、また、官営の寺として建設を開始する
ために、法隆寺の創建を聖徳太子こと押坂彦人大兄皇子の時代に持っていく必要が
あったわけです。

法隆寺金堂薬師如来像光背銘は、天武が押坂彦人大兄皇子を祀るこの法隆寺を、
古くから天皇の発願による勅願寺であったとするための捏造分です。
薬師仏の信仰は、天武朝時代であり薬師寺が造られたころです。

法隆寺金堂薬師如来像光背銘

池邊大宮治天下天皇大御身。勞賜時。歳次丙午年。
召於大王天皇與太子。而誓願賜我大御病太平欲坐故。
将造寺薬師像作仕奉詔。然當時。崩賜造不堪。
小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王。
大命受賜而歳次丁卯年仕奉


そして、天智九年の・・・
夏四月癸卯朔壬申夜半之後、災法隆寺、一屋無餘。大雨雷震。

日本書紀のこの記述こそ捏造です。大雨の中、全焼ってもっと考えなさいよって
思うんだけど・・・これ、わざとわかるように記述していると思うんだけど・・・?

この法隆寺火災の記述は、金堂薬師如来像光背銘の文を正当化するために、また法隆寺
創建を押坂彦人大兄皇子存命の時代に持っていくために必要な記述だったわけです。

斑鳩宮と斑鳩寺は、推古の息子の竹田皇子の宮であり寺であるわけで、蘇我氏によって
造られたものです。四天王寺もです。

日本書紀推古天皇・・・
十四年・・・秋七月、天皇、請皇太子令講勝鬘經、三日說竟之。是歲、皇太子亦講法華經
於岡本宮、天皇大喜之、播磨國水田百町施于皇太子、因以納于斑鳩寺。

こう記述されています。ここも斑鳩寺と記述されていて法隆寺でありません。
推古が大変喜んだと記述されているように、この皇太子とは息子の竹田皇子です。


つまり、凄く簡単なお話ですが、日本書紀にも法隆寺再建の記述がないように、
法隆寺は天武朝に初めて建てられたものです。再建されたものではありなせん。

天武が祖父の押坂彦人大兄皇子を祀ったのがはじまりですが、後に権力を握った藤原氏や
天智系の女帝にとっても彼を祀る必要があったわけです。

これは、前に藤原不比等の謎で述べた、ふたつの系図をみればわかります。

押坂彦人大兄皇子(聖徳太子 厩戸皇子)ー舒明天皇―天武天皇―高市皇子―長屋王
押坂彦人大兄皇子(聖徳太子 厩戸皇子)―茅渟王―孝徳天皇―有馬皇子

彼を聖人にする必要があったわけです。

そして、日本書紀の記述のように、斑鳩寺(若草伽藍)は火災にはあってはいても全焼と
いうわけでもなかったわけです。

全焼したのなら同じ場所に建てればいい訳ですが、建物や周囲に巡らしていた塀が残って
いた場合は、撤去して同じ場所に立てるより隣に新たに造る方が効率的です。
その建築時、再利用できるものがあれば利用すればいいわけです。

問題とされる法隆寺の西院伽藍の五重塔の心柱の用材は、斑鳩寺の五重塔の心柱です。
塔の心柱は再利用されたものです。ですので、古い(594年に伐採されたヒノキ材)のです。
斑鳩寺を再利用したため高麗尺で設計されているのです。

証拠は塔の敷石です。斑鳩寺の塔の礎石は再利用されていないのです。
塔の心柱は残っていたのです。もっとも再利用されてもいいはずの礎石は再利用されて
いない。新たに、隣に伽藍を設計して、建設しながら斑鳩寺を撤去していったからでは
ないでしょうか?

だから、法隆寺の西院伽藍は、もとの斑鳩寺(若草伽藍)の位置とは異なるのです。
今の西院伽藍は、尾根を削り、谷を埋めて整地した後に建てられたとされるのは、若草伽藍
は火災に遭ってはいても全焼したわけではないということです。



そして、前に述べた法隆寺金堂も釈迦三尊像の台座の墨書きの
「相見(了 変換できない)陵面 楽識心陵了時者」・・・
「陵墓に葬られている人の心が鎮まるように陵墓にお参りしなさい」

この陵墓というのが、藤ノ木古墳のことなら、金堂の釈迦三尊は斑鳩寺にあったもので
あって、若草伽藍(斑鳩寺)は火災に遭ってはいても全焼したわけではないということです。

藤ノ木古墳は、暗殺された崇峻天皇と穴穂部皇子のお墓であり、斑鳩寺はこの藤ノ木古墳に
葬られている二人の王を祀るために竹田皇子により造られたものです。


斑鳩宮と斑鳩寺は聖徳太子こと厩戸皇子の宮であり寺だとする限り謎は解けません。


              
     




    


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叡福寺北古墳と釈迦三尊像の台座の墨書き

2015年05月11日 | 聖徳太子の謎


叡福寺
聖徳太子ゆかりの寺といわれます。
ここには、聖徳太子の墓所とされる叡福寺北古墳あります。
お母さんの穴穂部間人皇女と、妃の膳部菩岐々美郎女と一緒に埋葬されているとされて
います。
しかし、日本書紀にも厩戸皇子のお墓に、妃やお母さんと、一緒に埋葬されたなんて
記述ありません。

残念ながら、ここは厩戸皇子ゆかりの寺でもお墓でもありません。
竹田皇子が亡くなった時、大野岡に墓が築かれたいう、大野岡とはここです。
その後、つまり推古天皇崩御後に息子の竹田皇子が眠るこのお墓に合葬されたわけです。
お母さんと后とともに埋葬されたであろうという伝説があるのは、この竹田皇子です。

日本書記・・・推古天皇36年条「葬竹田皇子之陵」

そうここは、推古天皇と敏達天皇との子の竹田皇子の墓所です。
竹田皇子と同時期に亡くなった后の膳部菩岐々美郎女が埋葬されていました。
後に、お母さんの推古天皇が合葬されていたのです。
竹田皇子のお墓は植山古墳などではありません。

植山古墳・・・
*前述してきたように、竹田皇子の没年は624年であり古墳の築造年と合わない。
石室の築造は東側が6世紀末で、西側が7世紀前半と推定されそうですが、ともに
竹田皇子、推古天皇の没年と合致しません。

*最初から2つの石室をもつ墳墓として築かれていたというのは全くおかしいじゃあり
ませんか?推古の遺言で合葬されるようになったのでは?しかも同じ石室に葬られてい
なければおかしい。ともかく竹田皇子のお墓は植山古墳ではありません。


それで、さすがに推古のお墓はこれじゃーダメだっていうことで、隣に大きなお墓を
作ったわけ、それがいまの推古天皇稜とされる磯長山田陵。
蘇我氏が関係する方墳に改葬されたわけです。この時代の蘇我氏の王墓は方墳です。
ここに改葬されたのですよ。磯長山田陵に現在3人埋葬されている。

磯長山田陵は、山田高塚古墳といわれる方墳です。
古墳内部には、二つの横穴式石室があるとされています。
ひとつは推古天皇と息子の竹田皇子が合葬された石室であり、もうひとつは
后の膳部菩岐々美郎女が葬られている石室です。


ウイッキペディア・・・叡福寺北古墳
*円墳で、横穴式石室をもち、内部には3基の棺が安置されているという。
*明治12年(1889年)の修復調査が実施された・・・調査の際に、棺は確認できたが、
遺骸は風化して残っていなかったとされている。

       ****************

遺骸は風化して残っていなかったのではなく、お隣の磯長山田陵移されただけです。

ほぼ同年代の藤ノ木古墳(こちらの方が古い)には、人骨が残っていて副葬品あったわけですよ。
ここ、なにもなかったわけでしょう?副葬品もですよ・・・?
聖徳太子の棺の中に、なんの副葬品もないわけ?おかしいでしょうに?
遺骸は風化しても副葬品は残っているでしょうに???
何らかの副葬品があったという記録もないのでしょう?そう空だったからですよ。
これ、誰も不思議に思わないのでしょうか?

ですので、このお墓(叡福寺北古墳)を祀ってもしかたありません
残念ながら、ここに聖徳太子は眠ってはいません、というか誰もいません。
推古天皇稜である磯長山田陵を祀ってください。本当の太子こと竹田皇子はここにいます。



それじゃー、厩戸皇子のお墓はどこなのでしょう?

*厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子は、敏達天皇と皇后の広姫の子である。

*敏達天皇はこの広姫のお墓に埋葬されている。
 だとすると厩戸皇子のお墓は敏達天皇稜そばなのではないでしょうか?

*一ヶ月も経たないうちに埋葬されていることから、大きな規模の墳墓ではない。

*押坂彦人大兄皇子と竹田皇子は同時期になくなっている。
 2月5日が、厩戸皇子がなくなった日で、2月22日が、竹田皇子がなくなった日。

*つまりお墓は同時期に造られ同規模のものではないのか?

*河内の磯長に葬られたとされている。

*この敏達と広姫が埋葬されている古墳は、河内磯長古墳とされますが、もうひとつの
候補が、越前塚古墳だとされています。


越前塚古墳が敏達と皇后の広姫の合葬古墳であり、そばにある「かまど塚古墳」が
厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子のお墓です。

「かまど塚古墳」
径45mの円墳で,北側の丘陵と堀り込み,馬の蹄の形をした珍しい堀をめぐらしています。
内部には7世紀前半に造られた大型の横穴式石室がありました。 
聖徳太子御廟と似た規模・構造をもつ重要な古墳です

     **************************

厩戸皇子と竹田皇子はほぼ同時期になくなっています。
そう、内外構造が叡福寺北に類、しかも馬の蹄の形をした珍しい堀は厩戸皇子に相応しい。


そして、法隆寺の金堂釈迦三尊像は、もともとは、叡福寺北古墳そばの西方院で祀られて
いたものが、後に(法隆寺建設時以降)に移動した可能性があるのでは?

ウイッキペディア 西方院・・・ 

『河内名所図会』等に見える伝承によれば、622年に聖徳太子が死去した後に出家した
三人の侍女、善信(俗名月益、蘇我馬子の娘)・禅蔵(俗名日益、小野妹子の娘)・恵善
(俗名玉照、物部守屋の娘)により、聖徳太子廟がある叡福寺の門前にその塔頭として
法楽寺の寺号で創建されたといい、聖徳太子作の阿弥陀如来像を本尊として遺髪を納めた
と伝わる。
聖徳太子が造ったとされる阿弥陀如来像が本尊らしいのですが、本当ならこの像は
国宝でしょうね。



法隆寺の金堂釈迦三尊像の台座の墨書き・・・

「相見(了 変換できない)陵面 楽識心陵了時者」

意味は、「陵墓に葬られている人の心が鎮まるように陵墓にお参りしなさい」
というような意味だそうですが、問題はこの陵墓とはどこなのでしょうか?
藤ノ木古墳か、この叡福寺北古墳しかないようにおもうのですが・・?
どうなのでしょう?


ウイッキペディア 叡福寺・・・

太子の没後、伯母にあたる推古天皇が土地建物を寄進し、墓守りの住む堂を建てたのが
叡福寺の始まりとされている。約1世紀後の神亀元年(724年)、聖武天皇の発願で
東院・西院の2つの伽藍を整備し、西院を叡福寺と称したというが、このことは正史には
見えず、史実かどうか定かではない。
叡福寺の創建年代については諸説あり、実際の創建は平安時代以降に下るとする見かたもある。


竹田皇子が、叡福寺北古墳に葬られた後に、母である推古天皇が、墓守りの住む堂
を立てたのが始まり・・・という由緒はいいように思いますが・・・???
叡福寺に関しては後の建設であるわけですから、この陵墓というのが叡福寺北古墳という
なら、この釈迦三尊像は、そばの尼寺といわれる西方院にあったものでは?


日本書紀の記述にあるように、若草伽藍にあったもとの法隆寺は全焼したとされて
います・・・???
実は、火災があったのは斑鳩寺です。(法隆寺の謎はまた後ほど)
しかし本尊ともいわれる、この釈迦三尊像には火災の跡がありません。
これは、この釈迦三尊像は、もとは叡福寺北古墳そばの西方院で祀られていたものが、
後に(法隆寺建設時以降)に移動したものか、あるいは、この陵墓が藤ノ木古墳なら、
斑鳩寺にあったものなのではないでしょうか?

写真は、推古天皇稜とされる磯長山田陵。
そして叡福寺と、押坂彦人大兄皇子の陵墓である、かまど塚古墳です。
聖徳太子が、お母さんと后と一緒に埋葬されているなんて記述ありません。
遺言により、息子の竹田皇子と后とが眠るお墓に合葬されたのは推古です。

     
                             




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法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘の「法興元」の謎

2015年05月04日 | 聖徳太子の謎


天武が皇祖と仰ぐのは押坂彦人大兄皇子であり、日本書紀において皇祖と表現されて
いるのはこの押坂彦人大兄皇子と皇祖天照大神のみです。
敏達天皇と王后であった物部氏の姫である穴穂部間人皇女との子であり第一王子です。
皇后であったとされる広姫はお母さんではありません。


竹田皇子は、推古は女帝ですから両親が天皇だという極めて重要な人物です。
このふたりが日本書紀にほとんど登場しないなんてありえません。

そう、もう何度も登場しています。皇太子の名称で。
押坂彦人大兄皇子も竹田皇子も、ともに皇太子であるわけです。

そもそも、厩戸皇子が用明天皇と穴穂部間人皇女との子であるなら、この二人をさしおいて
皇太子と呼ばれることはありえない。

聖徳太子の名称はもちろん後のものです。この二人の皇太子の事跡が、
一人の聖徳太子という名称でひとつにまとめられているのです。
だから聖徳太子は超人的な人物になっているのです。
ふたりでひとりの聖徳太子なのです。

日本書紀は、この押坂彦人大兄皇子が王に即位したことが消されています。
押坂彦人大兄皇子を大王としたくないのは対立していた渡来人である天智系天皇の
桓武天皇や藤原氏なのです。
この押坂彦人大兄皇子が大王なら、皇太子は竹田皇子です。


法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘の謎を解きます。
この法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘の解釈に関しては、大きな二つの間違いがあると思います。
一つは前述した「上宮法皇」です。

もう一つは「法興元」です。

この法興の元年とは、崇峻天皇4年(591年)ではなく、聖徳太子が大王になった593年です。
推古元年ではなく、聖徳太子元年である。法興寺の刹柱の礎の中に佛舍利を置いた年です。
こういうのは王が交代してからでしょうが??

王が交代した元年であり、この年号の名称の「法興」はもちろん法興寺からとられてる。
この問題は、ごくごく常識的に考えたら解ると思いますが・・・?

法興寺は飛鳥寺のことで、蘇我氏の氏寺であるわけですから、
もちろん蘇我馬子と竹田皇子が著した天皇記における蘇我氏の私年号です。

日本書紀・・・
元年(593年)春正月壬寅朔丙辰、以佛舍利置于法興寺刹柱礎中、丁巳建刹柱。


この法興元年ですが、・・・釈日本紀に伊予国風土記の逸文が残っていて、法興六年は推古4年
にあたり591年だそうです。

法興六年十月 歳在丙辰 我法王大王与慧慈法師及葛城臣・・・ 

どうして591年なのでしょう?元年を591年にする理由がなにもないでは
ありませんか?おかしいとは思わないのでしょうか?

日本書紀に、上宮聖徳法王帝説に、釈日本紀に記述されているから間違いないと
するのはどうなのでしょう?

日本書紀において、推古の年齢を冒頭において間違えています。

日本書紀推古天皇条

豐御食炊屋姬天皇、天國排開廣庭天皇中女也、橘豐日天皇同母妹也。幼曰額田部皇女、
姿色端麗、進止軌制。年十八歲、立爲渟中倉太玉敷天皇之皇后。卅四歲、
渟中倉太珠敷天皇崩。

ここ、日本書紀 山田宗睦 訳 
注釈そののままですが・・・
36年3月7日条の崩年75歳とすると(18歳は欽明32年に当たる)
敏達との死別は、34歳ではなく32歳となる。即位は39歳。

ほら、2年間違えてる、これがどう影響したかはわかりませんが・・・?
こういうには、王が交代した元年でしょうと思うのですけど?

日本書紀には聖徳太子が大王に即位したことが消されています。

日本書紀のこの文章が問題箇所のように思います・・・
元年春正月壬寅朔丙辰、以佛舍利置于法興寺刹柱礎中、丁巳建刹柱。夏四月庚午朔己卯、
立厩戸豐聰耳皇子爲皇太子、仍錄攝政、以萬機悉委焉。橘豐日天皇第二子也、母皇后曰穴穗
部間人皇女。・・・

ここ、おそらくですが、591年に天皇に即位したのが推古であり、593年に大王に
即位したのが厩戸皇子なのでは?

この捏造文の挿入により、推古条の「皇太子」は全て厩戸豐聰耳皇子になってしまっている。

夏四月庚午朔己卯、立厩戸豐聰耳皇子爲大王、仍錄攝政、以萬機悉委焉。
こうだったように思うのですが・・・???

本来は、推古ではなく、聖徳太子の御世であるわけですから、元年の表示は聖徳太子元年の593年です。


法興六年十月 歳在丙辰 我法王大王与慧慈法師及葛城臣・・・
ここも法王は竹田皇子、大王は押坂彦人大王です。病気がちだったのは竹田皇子です。

そして大きな問題は、上宮聖徳法王帝説の著者の法隆寺金堂釈迦三尊像光の銘文のトンデモ解釈です。
この解釈の影響がいまも続いています。
この法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘にある上宮法皇を、竹田皇子ではなく、厩戸皇子だとして間違って解釈
(銘文後半部分)している?
おそらく、この間違った解釈のもとは天寿国繍帳の捏造銘文における上宮聖徳法王帝説の著者の法隆寺金堂釈迦三尊像
の銘文の間違った解釈です。


上宮聖徳法王帝説・・・
鬼前大后(かむさきのおおきさき)は、即ち聖王の母の穴太部間人王(あなほべのはしひと
のひめみこ)也。鬼前と云うはこれ神前(かむさき)也。何故に神前の皇后と言うとあらば、
この皇后の同母弟、長谷部天皇(崇峻天皇)、石寸神前宮(いわむらのかむさきのみや)に
天の下治しめしき。若し疑うらくは其の姉の穴太部王、即ち其の宮に坐すが故に神前皇后
(かむさきのおおきさき)と稱す也。

もし疑うのであればって云っていますが、なんか自信のない表現ですよね。
それでは、疑ってあげます・・・
というか、・・・ここおかしいって指摘は多くあるじゃないですか?
なのに、何故信じられているのでしょうか?

崇峻天皇の宮は倉梯柴垣宮であり、石寸神前宮ではありませんよね?
(でもこれが本当の宮かもしれません)
神前は神じゃないですか、神はカムですが、鬼ですよ。名前に鬼の文字を使うのでしょうか?

この鬼前太后を名前として、お母さんの穴穂部間人皇女のことだとしています。
ただ名前に「鬼」の文字をさすがに使うわけないとは思うのですが?

この「鬼」は「魄」の省字で、月の朔(ついたち)のこと。あるいは晦日のこととも
いわれますが、この「鬼」は日付の意に解釈するのがいいのではないでしょうか?
鬼で区切って、前太后とするのがいいのでは。

この著者も「上宮法皇」は厩戸皇子だとして全く疑っていないからです。
でもね、日本書紀をみれば誰もがそう思いますよね。


それで、推古と敏達の子の竹田皇子の后は誰だかわかりません。
この竹田皇子は、日本書紀などの資料から記述がなくなっているので早くに亡くなったとされています。
そーではないのです。何度も登場しています。そう皇太子の名称で。
上宮太子とはこの竹田皇子です。日本書紀の推古条の皇太子とはこの竹田皇子です。

竹田皇子の后は、聖徳太子の妃とされている女性たち、この菟道磯津貝皇女、
膳部菩岐々美郎女、橘大郎女、刀自古郎女の4人でいいと思うのですが・・・?
本当の聖徳太子とはこの竹田皇子です。
聖徳太子の謎は、わかりやすくいえば厩戸皇子は聖徳太子ではないということです。


この前太后は、おそらく厩戸皇子(押坂彦人大兄皇子)の姉妹の東宮聖徳(竹田皇子)
に嫁いだとされる菟道磯津貝皇女です。皇后は敏達と広姫の娘であるこの女性です。
この、東宮聖徳の東宮は、忍坂の宮で、竹田皇子のことです。

そして、もうひとつの王后も「干食王后」とよむ説もあり、この干食王后は、
膳部菩岐々美郎女だそうです。
「かしわで」と読むそうなのですが???これも無理でしょうに?読めるの?
ここも、「干食」こんな文字を名前に使うのでしょうか?
ここは、病に倒れて寝込んでしまい、食べ物を摂ることもできずに病状はよくな
かったという意味でしょう?

ただ、この王后は、「かしわで」とは読みませんが、偶然ですが膳部菩岐々美郎女で
いいように思います。


上宮法皇は竹田皇子で、日本書紀の推古天皇条において皇太子と表現されているのは、
この竹田皇子のことです。
蘇我馬子が、推古の息子である可愛い蘇我の皇子のことをなんら記述しないってことは
ありません。

蘇我馬子は竹田皇子の病気が回復するように神様にお願いしています。

隅田八幡神社人物画像鏡・・・
癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等
取白上同二百旱作此竟

623年(葵未年)八月、日十大王(押坂彦人大兄皇子、おしさかのひこ ひと のおおえの
みこ、日十 ひと大王)の御代に男弟王(竹田皇子、母は推古天皇、父は敏達天皇)が意柴
沙加宮に在し時に、斯麻(蘇我馬子)は姉の孫の竹田皇子(病気だった)の長寿を念じて
開中費直と穢人の今州利の二人を遣わして白上銅二百旱でこの鏡を作らせた。


日本書紀は、重要な厩戸皇子の命日を間違えているとされていますが、病気になって
なくなったのは推古の子である竹田皇子です。

624年の2月5日が厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子の命日で、2月22日が竹田皇子の命日です。
ほぼ同時期に亡くなっています。
蘇我馬子がこの鏡を作らせ奉納した翌年に亡くなっています。聖徳太子の没年は624年です。

隅田八幡神社人物画像鏡の銘文の内容と、法隆寺金堂釈迦三尊像光の銘文の内容は合致します。

上宮法皇とは、推古天皇の子供の竹田皇子です。
法皇と「皇」の文字がつくのは、本来は蘇我の王のことです。


両親を天皇にもつ竹田皇子は、非常に重要な人物なのに、書記にはほとんど
その事績がないのは、彼の事績が聖徳太子のことだとされているからです。
蘇我氏憎しの天武は、天皇記の推古条において皇太子と表現されていた
竹田皇子の事績を、祖父の押坂彦人大兄皇子こと厩戸皇子の事績として
取り込んだからです。
厩戸皇子が大王に即位すれば皇太子はこの竹田皇子です。

この釈迦三尊像は、竹田皇子が倒れてから、造られたものではありません。
従来の説では、この釈迦三尊像は一年程で完成したとうことになりますが、
それは不可能だとも言われます。
倒れる以前から、病気がちだった皇子の回復を祈って皇后や王子が造ったものです。

そして、この銘文は亡くなってから彫られたものです。
だから奇妙な文になっている。
病気が治癒するようにお願いするはずなのに、なぜか治らなければ浄土にいけるように
と願っているのは、この像は、存命中の623年に完成しているのだけど、銘はなく
なってから彫られたものだからです。



法隆寺金堂釈迦三尊像光の銘文・・・

法興の元(593年推古元年 本当は聖徳太子元年)より三十一年(623年)、歳は辛巳に次る十二月鬼(一日?)、
前太后(竹田皇子の前の皇后、おそらく菟道磯津貝皇女(東宮聖徳に嫁いだ))崩ず。

明年(624年)正月二十二日、上宮法皇(竹田皇子)、病に枕し、干食し悆からず
王后(竹田皇子の次の妃膳部菩岐々美郎女)、よりて労疾を以て、ならびに床に著きたまふ

時に王后(膳部菩岐々美郎女)・王子等、及び諸臣と與に、深く愁毒を懐きて、
共に相ひ発願す
仰ぎて三宝に依りて、当に釈像の尺寸王身なるを造るべし。
此の願力を蒙り、病を転じ寿を延し、世間に安住す。
若し是れ定業にして、以て世に背かば、往きて浄土に登り、
早く妙果に昇らむことを。

二月二十一日癸酉の日、王后即世す。翌日法皇登遐(崩御)す。

癸未年(623年)の三月中、願の如く敬みて釈迦の尊像ならびに侠侍、及び荘厳の具を
造り竟りぬ。
斯の微福に乗り、信道の知識、現在には安隠にして、生を出でて死に入らば、
三宝を紹隆して、共に彼岸を遂げ、六道に普遍する法界の含識も、苦縁を脱することを
得て、同じく菩提に趣かむ。
司馬鞍首止利仏師をして造らしむ。

つまり、本来は聖徳太子が大王に即位した年を元年(593年)としていたのを、推古が天皇に即位した
年(591年)を元年とした間違えだと思うのですが・・・。
聖徳太子没年が622年とされているのは、法興元年を本来は593年からなのに591年から
数えているからです。


              






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法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘の「上宮法皇」の謎

2015年04月21日 | 聖徳太子の謎


日本書紀にある、厩戸皇子を聖徳太子というのなら、聖徳太子は押坂彦人大兄皇子
です。ですが斑鳩の宮に居住し斑鳩寺を造り仏教を興したのは、推古天皇の息子の
竹田皇子です。本当の聖徳太子とはこの竹田皇子です。

今回は、法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘の謎をときます。

法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘

法興元丗一年歳次辛巳十二月鬼
前太后崩明年正月廿二日上宮法
皇枕病弗腦干食王后仍以勞疾並
著於床時王后王子等及與諸臣深
懐愁毒共相發願仰依三寶當造釋
像尺寸王身蒙此願力轉病延壽安
住世間若是定業以背世者往登浄
土早昇妙果二月廿一日癸酉王后
即世翌日法皇登遐癸未年三月中
如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘厳
具竟乗斯微福信道知識現在安穏


聖徳太子が大きな謎になっているのは。この銘文の間違った解釈にあるといってもいい
と思います。大きな間違いが二つあるように思います。
ひとつの問題はこの銘文にある、「上宮法皇」です。これ厩戸皇子こと聖徳太子のことだと思いま
すよね。ここだれも疑いません。
間違ってはいないのですが・・・聖徳太子とは厩戸皇子ではなく竹田皇子のことでもあるのです。
厩戸皇子というのは、 押坂彦人大兄皇子のことで、豊聡耳 というのは推古の息子の竹田皇子の
ことです。


聖徳太子の謎は、この銘文の「「上宮法皇」です。
この銘文の中にある、「上宮法皇」とは、推古の子である竹田皇子のことです。

聖徳太子とは、この竹田皇子のことでもあるのです。

日本書紀には、厩戸皇子の命日は、2月5日とされているわけですから、ここも
やはり疑わなければなりません。
日本書紀・・・
廿九年春二月己丑朔癸巳、半夜、厩戸豐聰耳皇子命薨于斑鳩宮。

どうして、疑問の目が向けられないのかというと、それは、上宮聖徳法王帝説や
天寿國繍帳銘文に聖徳太子の命日は2月20日とされているからです。
これともに記紀より古いものではありません。

『天皇記』『国記』は推古天皇28年(620年)に蘇我馬子と聖徳太子が編纂したと
されています。

日本書紀・・・
皇太子・嶋大臣共議之、錄天皇記及國記、臣連伴造國造百八十部幷公民等本記。

この『天皇記』『国記』というのは蘇我氏の歴史書です。
継体天皇以降、王家と対立していた蘇我氏は、我々、蘇我の王である天皇は古代から
続く正当な王であると主張したのが天皇記です。
厩戸皇子こと聖徳太子?は、押坂彦人大兄皇子であり、彼は蘇我氏の人物ではありません。

日本書紀、推古天皇条にある、「皇太子」とは、本来は推古天皇の息子である竹田皇子の
ことであったのです。
『天皇記』『国記』を編纂したのは、蘇我馬子と竹田皇子です。厩戸皇子ではありません。


蘇我氏の歴史書である天皇記において、皇太子として表現されていたのは、
推古の子である竹田皇子のことです、
後に、そこに厩戸皇子こと聖徳太子の話が割り込んできたのです。
『天皇記』『国記』は蘇我氏の歴史書です。この編纂時においては厩戸皇子の記述は
なかったと思います。
上宮太子こと押坂彦人大兄大王を聖人として描いたのは、彼を皇祖と仰ぐ天武天皇
です。
帝記編纂時において、天武がおじいちゃんである押坂彦人大兄大王を聖人として描き、
竹田皇子の事績も押坂彦人大兄皇子のこととして取り込んだからです。


日本書紀推古天皇・・・
九年春二月、皇太子初興宮室于斑鳩。

ここに、初めて宮を興すと記述されている斑鳩の宮は、この竹田皇子の宮です。
厩戸皇子の宮ではありません。
厩戸皇子こと押坂彦人大兄大王の宮は、前述してきたように「水派の宮」であり、
ここは後の小治田宮です。
推古とともに政治をおこなった宮です。
推古天皇時、大王は押坂彦人大兄大王であり皇太子は竹田皇子です。


日本書紀推古天皇・・・
十四年・・・秋七月、天皇、請皇太子令講勝鬘經、三日說竟之。是歲、皇太子亦講法華經
於岡本宮、天皇大喜之、播磨國水田百町施于皇太子、因以納于斑鳩寺。

そして、推古が大変喜んだと記述されているように、斑鳩の宮に居住し斑鳩寺を造り
仏教を興したのは、息子の竹田皇子です。
推古の前で勝鬘経・法華経を講じ、三経義疏を著したのはこの竹田皇子です。


法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘にある上宮法皇とは、推古の子である竹田皇子のこと
です。この「皇」文字が使用されているのは、本来は蘇我の王です。
この釈迦三尊像は、竹田皇子のために作られたものです。
上宮法皇、上宮太子とは竹田皇子のことです。
法皇とは仏門に入った王という意味ともいわれます。

聖徳太子の謎はここです・・・
聖徳太子の名のもとに押坂彦人大兄皇子と竹田皇子の事跡が一つになっているのです。



     




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法隆寺金堂薬師如来像光背銘の謎と小墾田宮

2015年03月22日 | 聖徳太子の謎


古代史の謎を解く重要な問題は、「大王」と「天皇」の称号に関してです。
王は「大王おおきみ」と呼ばれていましたが、のちに天皇と呼ばれるようになった
とされます。これは間違っています。
「大王」と「天皇」は異なります。ここが理解できない限り古代史の謎はとけません。
だから邪馬台国、卑弥呼のことがわからないようなことになっている。
邪馬台国から繋がるであろう大和王権と、天皇家は関係ありません。

初代天皇は神武天皇だとされますが、実在していてももちろん天皇の称号なんて
使用されていません。後に時代に天皇だったとされるわけです。

つまり、天皇家が後に、我々の初代の天皇は神武天皇だと主張しているわけです。
この天皇家というのが、本来は蘇我家のことである。

天皇家は蘇我家だという証拠はあります。
蘇我馬子と、聖徳太子が編纂したという「天皇記」「国記」です。
蘇我馬子が関わっていることからも明らかです。これらは、権力を握った
蘇我氏の歴史書です。
馬子は本来の大王家と対立していたために、歴史書編纂する必要があったのです。

この蘇我氏の祖は武内宿禰とされます。簡単な推測です。
神武天皇として描かれていた人物は、この武内宿禰のことです。
つまり、本来の神武天皇陵は、この武内宿禰の眠るお墓です。

神武天皇は九州から来たとされますが真実ではありません。
神武天皇は、和歌山生まれです(*^▽^*)

しかし後に藤原氏によって蘇我氏の歴史も変更されている。


「天皇」号の使用は、推古天皇がはじめてです。ですので、推古天皇は本来の初代の天皇
です。この天皇とは、蘇我の王の名称であり、推古は初代の蘇我の王でもあるわけです。
そして、推古の子供の竹田皇子は、敏達、推古と、両親を王、天皇に持つ非常な重要な
人物です。
ところが、この竹田皇子は、日本書記にはほとんど登場しません。
押坂彦人大兄皇子も同様です。
しかし本当は、「皇太子」の名で頻繁に登場しています。
聖徳太子(押坂彦人大兄皇子)より、少し年下で同時期に生きたこの竹田皇子が
謎を解くキーマンです。このふたりが混同されているのです。

聖徳太子はいなかったのではなく二人いたのです。

これどういうことかというと、この竹田皇子も、皇太子であり、皇子、太子であるのです。
そう聖徳太子こと押坂彦人大兄皇子と、この竹田皇子が混同されているのです。
この竹田皇子の事跡をも聖徳太子のことだとして取り込まれているため、
聖徳太子は超人的な人物になっているのです。
本当の聖徳太子とはこの竹田皇子ことでもあります。

今回は、法隆寺金堂薬師如来像光背銘の謎を解きます。
そして、この薬師如来像光背にある銘から、推古天皇と聖徳太子の
小墾田宮の場所が特定できます。


法隆寺金堂薬師如来像光背銘

池邊大宮治天下天皇大御身。勞賜時。歳次丙午年。
召於大王天皇與太子。而誓願賜我大御病太平欲坐故。
将造寺薬師像作仕奉詔。然當時。崩賜造不堪。
小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王。
大命受賜而歳次丁卯年仕奉

以下は、こうだとされている意味・・・

池邊大宮治天下天皇(用明天皇)が大病を患っている時、歳は586年に
大王天皇(推古)と太子(聖徳太子)を召して、自信の病気が治癒することを念じて、
寺を作って薬師如来を奉ることを誓われた。
しかし、誓は果たされず亡くなってしまって、その当時は造ることができませんでした。
小治田大宮治天下大王天皇(推古)と東宮聖王(聖徳太子)は、その大命を受け
(推古15年 607年)に法隆寺を建立して薬師如来像を奉った。

これ法隆寺が建立された年が彫られていて貴重な銘文だとされています。
でも創建の由来はどうなのでしょうか???

この法隆寺金堂薬師如来像光背銘は、天武が祖父の押坂彦人大兄皇子を祀るこの法隆寺を、
古くからの勅願寺であったとするための捏造分です。
法隆寺は斑鳩寺ではなく再建されてはいません。


この銘文の問題箇所は、天皇の名称の使用時期とされますが、それだけでしょうか?

問題は、「大王天皇」です。これ二重称号だとして、誰も問題視していません。
これおかしいでしょうに。「おおきみてんのう」ってなんだよ。
こんなの疑問に思いなさいよ。

理解できていないのは、そう「大王」と「天皇」は異なるということが理解できて
いないからです。

つまり、「大王天皇」ではなく、「大王」と「天皇」で区切らなければいけません。

聖徳太子を研究している学者先生は沢山いるでしょうに、ここ不思議に思わないの
でしょうか?だから謎とけないと思うんだけど・・・。

もう何度も云っているところですが、推古は天皇ですが、大王ではない。
この銘文も大王と天皇を分けて使用している。天皇は蘇我の王の称号。
大王(おおきみ)ではない。
推古は天皇、大王は押坂彦人大兄皇子です。これを理解することが凄く重要です。

隋書・・・
開皇二十(600)年、倭王、姓は阿毎(あめ)、字は多利思比孤(たりしひこ)、
阿輩鶏彌(おおきみ)と号す、使を遣して闕(みや)に詣る。


これ、つまり、池邊大宮治天下天皇は、大王と天皇と太子3人召したということ。
大王はもちろん聖徳太子(押坂彦人大王)、天皇は推古、太子は推古の子の竹田皇子。
推古は聖徳太子の育ての親であり、この二人で政治を行ってきた。

竹田皇子は聖徳太子の弟として育てられました。
聖徳太子が大王に即位すれば、太子はこの竹田皇子です。
推古は天皇であり聖徳太子は大王である。東宮聖王とは竹田皇子です。

つまり、こうです
召於大王天皇與太子・・・
召於大王(聖徳太子 押坂彦人大兄皇子)、天皇(推古)、與太子(竹田皇子)

小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王・・・
小治田大宮治天下大王(聖徳太子 押坂彦人大兄皇子)、天皇(推古)及東宮聖王(竹田皇子)


そして、この東宮聖王というのも、聖徳太子の謎を解く鍵です。
そう、何故、竹田皇子が、東宮聖王なのかっていうことです。
東宮ってどこなのか?っていうこと。
東宮っていうのだから、この宮の西側に宮があったということです。
その西側の宮を中心に、東としているわけですから、この時代の本来の宮は
この西側の宮なわけです。

その宮はとは、推古の宮の小治田宮ではなく、聖徳太子こと大王だった
押坂彦人大王の宮である。水派宮です。
この東宮は、水派宮の東に位置する意柴沙加宮です。

隅田八幡神社人物画像鏡に、竹田皇子が水派宮の東に位置する意柴沙加宮にいた
ことが書かれています。
おそらく、病気療養のため明日香近くの意柴沙加宮に移ったのだと思います。


隅田八幡神社人物画像鏡・・・

癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等
取白上同二百旱作此竟

623年(葵未年)八月、日十大王(押坂彦人大兄皇子、おしさかのひこ ひと のおおえの
みこ、日十 ひと大王)の御代に男弟王(竹田皇子、母は推古天皇、父は敏達天皇)が意柴
沙加宮に在し時に、斯麻(蘇我馬子)は姉の孫の竹田皇子(病気だった)の長寿を念じて
開中費直と穢人の今州利の二人を遣わして白上銅二百旱でこの鏡を作らせた。

この推古天皇の宮は小墾田宮ですが、本来の大王の宮は押坂彦人大王の水派宮です。

この大福にある三十八柱神社由緒にはこうあります・・・
当社は小墾田の宮とも云われる。法隆寺の太子伝五林抄には聖徳太子伝暦の注記に
「小墾田ノ宮ハ当時大仏供(大福の古名)ト云フ里ニヲハル田ノ宮トテ小社アリ
其れ宮所也云々」とあることを明記している。

この由緒は藤原氏によって変えられたものです。この押坂彦人大王が大王に即位
していたことを消し去ったために、本来の宮を推古の宮だと改竄したのです。
どうして、大王であることを消し去ったかというと、そう祟ったからです。
長屋王、早良大王はこの押坂彦人大王の後胤です。

そして、ここの謎を解く鍵は、この神社の神様です。
この三十八柱神社は、「みそやはしら」とされていますが、この三十八は、
本来は「みずは」であり、水神の水波能売命(みずはのめのかみ)を祀る神社です。


日本書紀・・・
遂作太子彥人皇子像與竹田皇子像、厭之。俄而知事難濟、歸附彥人皇子於水派宮。

ついに太子の彦人皇子の像と、竹田王子の像とを作りて呪いをかけた。
しばらくして事が成功しないとしり、帰して「水派の宮」で彦人皇子にしたがった。

この押坂彦人大兄皇子(聖徳太子)の「水派の宮」の水派とは、三十八(みずは)であり、
ここ大仏供(大福の古名)は、もとは、押坂彦人大兄皇の宮だったところです。
そこに、新たに推古天皇が宮をつくり共に政治をおこなった場所です。

大福(桜井市大福)は、敏達天皇の宮である、百済大井宮(桜井市吉備)、
訳語田幸玉宮 おさたのさきたまのみや(桜井市戒重)のそばに位置します。
東に位置するのが意柴沙加宮であり、位置関係も問題ありません。

押坂彦人大兄皇子を大王だとしたくないため「水派の宮」ではなく、推古の「小墾田の宮」
を本来の宮だとしたため比定地が混乱しているのです。

飛鳥の地が、この時代において中心になったのは蘇我氏が権力を得たからであって、
もともと地理的には奈良盆地において中心になるような場所ではない。

この大福の地理的立地は、この時代の宮にするに相応しい場所です。
横大路に沿って、そして、中津道、上津道にはさまれたこの地に造られた宮こそ
この時代の宮に相応しい。


写真は、桜井市大福にある三十八柱神社です。
厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子の宮である「水派の宮」です。
「みそやはしら」でも、「みまた」でもなく本来は「みずは」です。
記紀においては、彼が大王だったことが消されています。

三十八柱神社の小墾田の宮の由緒です。


                   


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藤原不比等の謎

2015年02月18日 | 聖徳太子の謎


藤原不比等は、聖徳太子とも関係するので少し。
この不比等は天智天皇の落胤で、兄の定恵は孝徳天皇の落胤だったのではないのか?
ともいわれます。

以下、よく知られている箇所ですが・・・
ウイッキペディア・・・
『公卿補任』の不比等の項には「実は天智天皇の皇子と云々、内大臣大職冠鎌足の
二男一名史、母は車持国子君の女、与志古娘也、車持夫人」とあり、『大鏡』では
天智天皇が妊娠中の女御を鎌足に下げ渡す際、「生まれた子が男ならばそなたの子とし、
女ならば朕のものとする」と言ったという伝説(実際に男子=不比等が生まれた)を伝える。
『帝王編年記』『尊卑分脈』などの記載も同様である。

これ、このとおりのようにも思うのですが・・・?

もうひとつは、尊卑分脈において、不比等は山科の田辺史(ふひと)大隈の家で養育され、
史(ふひと)と名づけられたと記述されていることである。

この田辺史は、百済系の渡来人であるとされます。これ、やはり史実のように思います。
藤原不比等は、百済からの渡来人を父に持つ、そう天智の息子です。
天智天皇の娘である持統天皇朝から、彼が頭角をあらわしてくるのは、
こうとしか考えられないように思うのですが・・・?

それで、この不比等の息子の藤原四兄弟は、天武の子の高市皇子の子の長屋王と
対立します。結局、この長屋王と王子を殺します。(長屋王の変 729年)
この変の8年後、天然痘がはやり藤原四兄弟はなくなった。
長屋王が祟って出たといわれたようです。

当然、祟ったのは長屋王のはずなのに、なぜか翌年、法隆寺に食封が再開され、
東院伽藍(夢殿)が新たに建設され、聖徳太子だろうとおもわれる救世観音を
祀った。・・・梅原猛さんの「隠された十字架」にある、よく知られた話ですよね。
私もこの本を読んでから聖徳太子に興味を持つようになりました。

法隆寺は、天武朝に祖父の押坂彦人大兄皇子を祀るために造られたのですが、、
後の怨霊信仰により、彼の霊を封じこめるようになったのは全くそのとおりだと思う。


ここの問題点とされているところですが・・・
祟らないでと、長屋王を祀るのが当然なのに、聖徳太子が祀られているはずの法隆寺に
何故?というのが謎だとされています。

でもここ、聖徳太子は押坂彦人大兄皇子だとすると謎でもなんでもないですよね。

天武天皇が皇祖と仰ぐのは、この押坂彦人大兄皇子で、舒明天皇の子の天武にとってはおじいちゃん。
天武の子である高市皇子の子が長屋王ですから、聖徳太子と繋がりますよね。

押坂彦人大兄皇子(聖徳太子)ー舒明天皇―天武天皇―高市皇子―長屋王

ここ問題ですが、天武天皇の後、高市皇子や長屋王も大王だったんじゃないでしょうか?


で、さらに藤原不比等は天智天皇の落胤であるとすると・・・
押坂彦人大兄皇子(聖徳太子)の子の茅渟王は、孝徳天皇の父であり、この孝徳天皇の子
である有馬皇子を天智は殺している。おそらく孝徳も暗殺しているように思うのだけど・・・?

押坂彦人大兄皇子(聖徳太子)―茅渟王―孝徳天皇―有馬皇子


中臣鎌足は、孝徳天皇の落胤だったといわれる定慧を唐へ送ったのも当然といえば当然のおはなし。

定慧伝・・・
百済の土人,窃かに其の能を妬み、之を毒す。すなはち、其の年十二月廿三日を
以て、大原の第に終わる。

この百済の土人とは、もちろん中大兄皇子です。


日本書紀は720年に完成したとされますが、この藤原四兄弟が病死した737年以降に手が加えられた
可能性はないのでしょうか?。つまり、聖徳太子が祟ったのは737年だということ。

写真は法隆寺の西院伽藍の中門です。
法隆寺は、天武によって創建されました。その時、はじめて聖徳太子が
祀られました。でも、創建時には、まだ聖徳太子は祟っていません。



           












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聖徳太子の謎

2012年06月22日 | 聖徳太子の謎


私が、古代史に興味をもったのはこの聖徳太子という人物からなのです。
そんで、わるいけど、聖徳太子の謎は解いちゃった。
聖徳太子とは、天武天皇が皇祖と仰ぐ押坂彦人大兄皇子のこと。
日本書紀において皇祖・・と表現されるのは、この押坂彦人大兄と
皇祖天照大神のみです。
日本書紀は上、中、下巻に分けられますが、下巻はこの押坂彦人大兄
から繋がる。彼が王じゃないわけがない。
厩戸皇子こと聖徳太子というのはこの人物。                   

押坂彦人大兄は息長氏の広姫と敏達天皇の子で、下巻最初の天皇の
舒明天皇はこの押坂彦人大兄の子です。
息長真手王の娘の広姫は皇后であり、その子の押坂彦人大兄皇子
が次期有力大王候補であることは言うまでもない。

蘇我馬子にとって問題なのは、彼が蘇我氏の血をひかないってこと。

この聖徳太子の謎と天智天皇と天武天皇の謎がが解ければ、
記紀の謎もとけるよ。

実は・・・、この押坂彦人大兄皇子が聖徳太子だってことは
日本書紀、古事記に記述されているのですよ。

以下既に問題箇所として提起されていて、もう謎は解けているのに
何故解らないのか私には不思議で不思議でしょうがない。
それは、天皇とは古代から続く王、大王ではなく蘇我家の王の名称だと
いというところが理解できていないから。

この聖徳太子の謎は、そー難しい問題ではないですよね。
押坂彦人大兄皇子は皇后の広姫の子ですから、まず彼なんじゃない
のか?って疑うのはごく自然だと思うんだけど・・・。

日本書紀・・・
用明天皇2年4月2日
中臣の勝海が反仏教派物部守屋を援護すべく押坂彦人大兄王子と竹田王子の像を作って呪詛した。

ついに太子の彦人皇子の像と竹田王子の像とを作りて呪いをかけた。
しばらくして事が成功しないとしり帰して水派の宮で彦人皇子にしたがった。

押坂彦人大兄皇子が用明天皇の太子と表現されている。
太子とはひつぎのみこと。皇太子。
また、この「大兄」というのも皇太子とされます。
用明の皇太子は厩戸こと聖徳太子であり、押坂彦人大兄ではない。

ここで記述されている、「水派の宮」とはどこでしょうか?
実は、聖徳太子の謎を解く重要な宮なのです。


古事記
忍坂日子人太子、亦名麻呂古王。次坂騰王。次宇遲王。三柱又娶春日中若子之女、老女子郎
女、生御子、難波王。次桑田王。次春日王。次大俣王。四柱此天皇之御子等、幷十七王之中、
日子人太子、娶庶妹田村王、亦名糠代比賣命、生御子、坐岡本宮治天下之天皇。

古事記においても忍坂日子人太子と表現されている。


つまり、蘇我馬子か、あるいは藤原氏が押坂彦人王子を用明天皇の子として蘇我側に
取り込んだため押坂彦人大兄皇子と聖徳太子という2人の人物ができてしまったということ。

この押坂彦人大兄皇子と桜井弓張皇女との子供の、山代(やましろ)王というのが、
いうまでもなく、聖徳太子の子とされる山背(やましろ)大兄王のこと。
おなじく大俣王との子供の、茅渟王は、宝皇女(皇極、斉明天皇)・軽皇子(孝徳天皇)の父で
もあるわけ。
これで、乙巳の変(大化の改新)の謎も簡単に解ける。
乙巳の変後、軽皇子が即位し、大王(孝徳天皇)となり、中大兄皇子が天皇にならなかったのも当然のこと。

蘇我馬子は天皇記、国記作成時において、押坂彦人大兄皇子を用明天皇の太子として、
聖徳太子の名で蘇我側に取り込んでいたのでしょうか?

もうひとつの問題とされる箇所から推測します。
敏達の皇后である広姫には3人の子供がいます。
押坂彦人大兄皇子と二人の姉妹(たぶんお姉ちゃん?)です。
逆登皇女と菟道磯津貝皇女(うじのしつかい)です。

この女性(菟道磯津貝皇女)が、推古天皇の娘の菟道貝蛸皇女(更の名、菟道磯津貝皇女)
と又の名で同名だと記述されている。東宮聖徳に嫁いだともされます。
これは広姫も額田部皇女(推古)も、ともに敏達の皇后であるから、ありえないのでは
という指摘です。

じゃーこれはどういうことなのか?というと聖徳太子は押坂彦人大兄王子だとすると
謎とける。
皇后の広姫は 敏達4年(575年)薨去しています(彼女出生時になくなった可能性は
あると思います?)
聖徳太子は574年生まれです。
つまり、押坂彦人大兄王子がまだ幼い時にお母さんである皇后の広姫がなくなり、
つぎの皇后の額田部皇女(推古)が彼ら3人を引き取り育てたっていうことでは
ないでしょうか。

だから、彼が王となることについては蘇我氏側にも何ら問題なかったと思います。
馬子とこの押坂彦人大兄王子の関係はよかったように思います。
問題は彼が蘇我の血をひかないってことです。

蘇我氏は、王家と姻戚関係を持ち外戚として権力を得ます。これは蘇我摂関政治です。
585年、敏達崩御後に、欽明天皇の妃の蘇我 堅塩媛の子の大兄皇子が即位しました。
これは、蘇我の血が流れる初の蘇我の王の誕生です???

このあと、不思議な話が続きます。

蘇我稲目の娘であり蘇我馬子の妹の小姉君の子とされる、
穴穂部間人皇女、穴穂部皇子、泊瀬部皇子の3人。
それと用明天皇。彼らは蘇我の王ではない?

用明天皇崩御後、物部守屋は穴穂部皇子を皇位につけようとし、蘇我馬子は泊瀬部皇子
を皇位につけようとしています。
結局、蘇我馬子は、妹の子供の穴穂部、泊瀬部を殺しています???おかしいですよね。
だいたい、なんで物部守屋が、蘇我の王である穴穂部皇子を応援するの?
彼らは、蘇我小姉君の子供じゃないんじゃないの?


宣化天皇の皇女石姫の子の次男の渟中倉太珠敷尊(敏達)が、王になれたのも、
額田部皇女(推古)を妃(蘇我氏はこの第二王子に接近した)としたからでしょうけど、
本来は第一王子だった箭田珠勝大兄皇子こそ、当然次期皇太子の筆頭だったはずです。

蘇我稲目の娘の堅塩媛の子の大兄皇子(用明天皇)を、大兄皇子と表現することはありえない。
宣化天皇の皇女とはお母さんの身分がちがう。蘇我稲目の娘は王家の血がながれていない。
つまり、大兄皇子といわれる用明天皇とは、石姫の長男の箭田珠勝大兄皇子のことなのでは?
在位が2年という短かさもこれが理由。

それで、用明天皇崩御後・・・
これも、宣化天皇皇女の稚綾姫皇女の子の石上皇子は穴穂部皇子?であり、物部系の王子
なのではないでしょうか?

ウイッキペデア・・・
「穴穂部」の名は、石上穴穂宮(いそのかみのあなほのみや)で養育されたことに由来する
と考えられている」
つまり、物部領地である。物部守屋が彼を王にしたかったのも当然のこと。

泊瀬部皇子とは宣化天皇皇女?とされる日影皇女の子の倉皇子なのでは?
日本書紀・・・倉梯に宮をつくった。天皇を倉梯岡(くらはし)陵に葬りまつる。
(本当は、法隆寺近くの藤ノ木古墳が暗殺された、この崇峻天皇と穴穂部皇子のお墓であり、
斑鳩寺は法隆寺金堂薬師如来像光背銘にあるように、この二人を祀るために造られたお寺でもあるわけです。

穴穂部皇子(石上皇子?)のお墓に、お母さんが異なりますが、共に宣化天皇皇女であり、
欽明天皇の子である崇峻天皇(倉皇子?)が暗殺され、ここに合葬された。
崇峻天皇は殯もおこなわず埋葬されています。陵墓なんて造っているわけない。
この藤ノ木古墳は、「陵」(ミササキ)と呼ばれていました。

ともかく妃が宣化天皇の子供からしか王にはなれなかったように思うのだけど・・・?


天皇記作成時には、まだ聖徳太子という名で蘇我側に取り込まれていなかったと思う。
何故、押坂彦人大兄皇子(聖徳太子)を蘇我の系譜に取り込む必要があったのか?
というと、・・・
いうまでもなく押坂彦人大兄皇子(聖徳太子)と、その子の山代王一族(この山代王殺害に
ついては、中大兄皇子と中臣 鎌足の入鹿殺害を正当化するための作り話の可能性あり)
を殺したから。

押坂彦人大兄皇子はもちろん大王(おおきみ)、つまりこれは王殺しの大逆罪になる。
崇峻天皇を殺し、穴穂部皇子を殺し、山代王を殺し?、さらに聖徳太子までも?
さすがに、事実を書くわけにいかなく歴史を改竄する必要があったわけ。


彼が聖人のように描かれ、聖徳と言われるのは、もちろんかれが優秀で、仏教を庇護
してきたからでしょうけども、大きな理由は祟りを恐れて。
聖徳太子こと押坂彦人大兄皇子は蘇我馬子によって殺された。
子供の山代王一族は蘇我入鹿によって殺された?
子孫の、長屋王も藤原氏によって殺された。
そして、天智天皇により孝徳天皇?や有馬皇子も。
これ、もー祟らない方がおかしいって言ってもいいわけです。


では何故、蘇我馬子は彼が邪魔になったのか?以下もちろん推測ですが・・・
蘇我馬子は、額田部皇女(推古)の子、つまり姉の蘇我堅塩媛の孫の竹田皇子を王としたかった。
押坂彦人大王の後、この竹田皇子を王にしようと考えていた。
しかし彼は病弱だったのと、自身の年齢の問題もあって、蘇我の血をひかない
押坂彦人大王が邪魔になり暗殺した。

もうひとつの理由(これが本当の理由かな?)は、対外政策において、蘇我馬子と対立していた。
聖徳太子は新羅出兵を試みています。蘇我氏は、もとは新羅からの渡来人です。
推古天皇が、新羅と対立していた任那を助けようという記述ですが、これはもちろん、
大王である聖徳太子がおこなったことです。

聖徳太子の弟とされる来目皇子は、征新羅大将軍として遠征途中の筑紫で亡くなって
新羅遠征は中止されます。
後を受けた当麻皇子も、妻の舎人皇女が亡くなったため新羅出兵は果たされていません。
これは共に蘇我馬子による策略です。

蘇我の本地から離れ、斑鳩の宮に移ったのもこれが理由のように思うのですが・・・?
623年には、新羅は任那を併合するということになりました。


この暗殺事件は、鏡の銘文の623年(葵未年)以降、おそらく623年から626年(蘇我馬子没年)
の間のことだと思います。
・・・というか、624年なんだけど・・・鏡の謎とければほぼわかるのですが、・・・
実は、謎解きはここからです。

左の写真は、明日香村にある聖徳太子誕生の地といわれる橘寺です。
生誕の地は勿論、おしさか。ここは豊御食炊屋姫尊の家で、聖徳太子が
育った場所です。推古天皇は育ての親です。
ここで生まれたのは竹田皇子です。

右の写真は、聖徳太子の等身像とされる救世観音像がある法隆寺の夢殿です。













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押坂彦人大王と隅田八幡神社人物画像鏡

2011年10月20日 | 聖徳太子の謎


隅田八幡神社人物画像鏡

ウィキペディアから、隅田八幡神社人物画像鏡・・・
癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟

623年(葵未年)八月、日十大王(押坂彦人大兄皇子、おしさかのひこ ひと のおおえのみこ、日十 ひと大王)の
御代に男弟王(竹田皇子、母は推古天皇、父は敏達天皇)が意柴沙加宮に在し時に、斯麻(蘇我馬子)は
姉の孫のこの竹田皇子(病気だった)の長寿を念じて開中費直と穢人の今州利の二人を遣わして白上銅二百旱で
この鏡を作らせた。

この鏡の謎が解ければ聖徳太子の謎も解けます。
鏡の、日十大王こそ押坂彦人大兄皇子であり、聖徳太子のこと。ここ八幡神社だから、蘇我馬子が関わっている。
蘇我馬子の本当の名は、斯麻(シマ)。
馬子という名は、藤原氏が彼らを貶めるために使用した名前。蝦夷も入鹿も。馬子は蘇我氏の血を引かない押坂彦人大兄皇子を王だとしたくなかった訳かな?
この時の王は押坂彦人大王。日十大王(ひとおおきみ)。そう彼が聖徳太子です。

炊屋姫こと推古は、大王ではなく天皇。天皇は蘇我の王で大王とはことなる。608年の推古天皇の御世に、裴 世清があった倭王は男の王。隋の使者である裴 世清が王に謁見しているわけなのに、こんなの男と女を絶対に間違えるわけない。
日本書紀にそう書かれているから、推古は大王だとすると謎はとけない。

この鏡に、「費直」の文字が使用されているかぎり、443年説も503年説もありえない。この「費直」が使用されてる金石文が他にも存在する(元興寺縁起)のですが、全て推古天皇の時代「推古天皇4年(596年)」のもの。
法興寺とも飛鳥寺ともいわれ、蘇我馬子によって建立されたものです。
参照・・・北海道大学の北村 文治先生の論文。カバネの制度に関する新研究序説

元興寺伽藍縁起并流記資財帳
山東漢大費直(やまとのあやのおおあたい)、・・・意等加斯費直(おとかしあたい)

「費直」とされるのは、推古朝以降であり、それ以前では使用されていない。
姓(かばね)であるこの「費直(あたい)」は、推古朝以前では、「費」、「直」と一文字の使用である。
このことからも銘文の葵未年は、623年である。623年には聖徳太子は病気療養中ではありますが生存しています。
聖徳太子こと竹田皇子の没年は624年です。


古代史に興味がある人なら、「シマ」っていう人物は誰か?って尋ねられれば、蘇我馬子が思い浮かぶでしょう。嶋大臣ですよね。
隅田八幡神社人物画像鏡の銘文にある、「斯麻」が本来の名のように思います。

日本書紀、推古天皇二十八年
是歲、皇太子・嶋大臣共議之、錄天皇記及國記、臣連伴造國造百八十部幷公民等本記。

日本書紀においては、推古天皇二十八年は、620年とされますが、押坂彦人大兄皇子が大王としてすでに即位していますので、ここの皇太子とは弟である推古天皇の息子であり、蘇我氏の皇子であるといえる竹田皇子のことです。
蘇我馬子と蘇我氏の皇子である竹田皇子が編纂した、この天皇記、國記は蘇我氏の歴史書である。
「天皇」の呼称は、本来は蘇我氏の王の呼称である。

すると、鏡の銘文の「癸未年」 は、623年になるわけです。
その時、日十大王 なる人物がいるのか?
いるでしょう、そのままですよね。押坂彦人大兄皇子、日十大王 (ひとおおきみ)。
敏達と皇后穴穂部間人皇女(広姫ではありません)との皇子であり、この時代の第一皇子です。
それで、男で弟の王なる人物はいるでしょうか?
いますよね。敏達と次の皇后の推古との皇子の竹田皇子ですよね。
推古天皇時に、大王に即位している人物は、この押坂彦人大兄皇子、日十大王です。

隋書に 記述されています・・・
開皇二十(600)年、倭王、姓は阿毎(あめ)、字は多利思比孤(たりしひこ)、
阿輩鶏彌(おおきみ)と号す、使を遣して闕(みや)に詣る。

阿輩鶏彌(おおきみ)で、多利思比孤(たりしひこ)、男の王だとかかれているわけです。

何故、こんな簡単な謎ときができないのでしょうか?もう不思議としかいいようがない。
隋の皇帝の国書を持参している使者である、裴 世清が王に会っていないわけない。

隋書・・・
その王、清と相見え、大いに悦んでいわく「我れ聞く海西に大隋礼儀の国ありと・・・」 
清、答えて曰く「皇帝、徳は二儀に並び沢は四海に流る。王、化を慕うの故を以て行人を
遣して来らしめ、ここに宣諭す。」と。既にして清を引いて館に就かしむ」

この「清」とは裴 世清のことであり、使者である裴 世清は王に会っていると記述されています。
その王は、阿輩鶏彌(おおきみ)と呼ばれ、多利思比孤(たりしひこ)、つまり男の王だと
されているわけです。この王とは推古ではない。推古天皇と大王が存在しているわけです。

天皇は大王ではないということが理解できていないから謎が解けていない。
「天皇」の呼称は、本来は蘇我の王の呼称であり、女帝の呼称です。


この人物画像鏡にある、日十大王 と、男弟王(竹田皇子)こそ、「ふたりの聖徳太子」です。

日十大王 とは、押坂彦人大兄皇子のことであり、男弟王とは竹田皇子のことです。二人の事績が、一人の聖徳太子という名で後に纏められてしまったのです。

厩戸皇子とは、 敏達天皇の第一皇子、押坂彦人大兄皇子であり、聰耳皇子とは推古の息子の竹田皇子のことです。
斑鳩宮に住み、斑鳩寺を建て、仏教を興したのは推古の息子の竹田皇子です。推古が天皇のときに、大王だったのが、厩戸皇子こと、押坂彦人大兄皇子です。押坂彦人大兄皇子と竹田皇子は異母兄弟になります。
おそらく2歳上の押坂彦人大兄皇子は572年生まれであり、竹田皇子は574年生まれである。

日本書紀の用明天皇条においても問題個所があります。
押坂彦人大兄皇子は敏達天皇の第一王子です。ところが日本書紀、用明天皇条には用明天皇の皇太子と表現されている箇所があります。すでにおかしいとも指摘されているところでもあります。
これは、厩戸皇子とは押坂彦人大兄皇子ですよと言ってるようなものです(*^▽^*)

日本書紀用明天皇条
二年夏四月乙巳朔丙午・・・
遂作太子彥人皇子像與竹田皇子像、厭之。俄而知事難濟、歸附彥人皇子於水派宮。

物部守屋側の人物である中臣勝海が押坂彦人大兄皇子と竹田皇子の像をつかって呪詛したということです。ここで、押坂彦人大兄皇子を用明天皇の皇太子としています。
それは、敏達天皇の皇子である押坂彦人大兄皇子を厩戸皇子として用明天皇の皇子に取り込んだための間違いでもあるのです。日本書紀の改竄箇所であるのですが、矛盾するのはミスともいえます


この隅田八幡神社人物画像鏡の銘文の謎が解けないのは、天皇とは本来は蘇我の王の呼称であり
大王とは異なるということが理解できていないからです。


それで、馬子はこの姉の孫の竹田皇子を聖徳太子ってことにしたかったのかな?残念なことに、実はこの竹田皇子は、この翌年624年に亡くなっているんですよ。ここの謎、凄く重要なんだけど・・・ここ解ければ、いろいろ問題とされていた聖徳太子の謎も解決するのですが・・・それはもう少し後で説明します。


聖徳太子とは、この押坂彦人大兄皇子で、彼は蘇我の血をひかない。
子供の山代王も、敏達天皇の皇女の桜井弓張皇女との子であり、
彼も、蘇我の血が流れていません。

日本書紀では、・・・
聖徳太子のお父さんが、用明天皇で、この用明天皇は、蘇我稲目の娘の堅塩媛と、欽明天皇の子ですよね。そして、お母さんは、欽明天皇と蘇我稲目の娘の小姉君との子の穴穂部間人皇女とされます。

山背大兄王は、蘇我馬子の娘の刀自古郎女と聖徳太子との子だとされています。だとすると、この山背大兄王は全く蘇我の王だといってもいいわけでしょう。

推古天皇崩御後、何故、蘇我蝦夷は、蘇我の血がながれていない田村皇子(舒明天皇)を擁立するわけ???何故、蘇我入鹿は山背大兄王を殺さなきゃいけないわけ???こんなの、どう考えたっておかしいわけでしょう。

聖徳太子が、押坂彦人大兄皇子なら子供の山背大兄王は、蘇我の血をひかないわけだから、蝦夷が、馬子の娘を妃としている田村皇子を立てて天皇にしたということも、入鹿が山背大兄王一族を殺したのも矛盾のない話とできますが、系図をひとつ改竄しただけでも、関わりのある人物に影響してきて、このような大きな
矛盾が生じる訳です。

天皇というのは蘇我氏の王の名称であり、蘇我氏が初めて王家と姻戚関係を結んだ欽明天皇と蘇我稲目の娘の蘇我 堅塩媛から続く、蘇我の王の名称。王家ではない。『天皇記』『国記』というのは蘇我氏の歴史書。

継体天皇と尾張連草香の娘の目子媛の子の檜隈高田皇子(宣化天皇)の娘石姫皇女から続くのが王家であり天武系の王。

継体天皇以降この二つの対立関係になっているのは明らかじゃないですか。

この鏡の銘文が、謎解けないのは「日十大王」ですよね。記紀には、こんな名の大王や天皇は存在しないですものね。いつまでも、記紀は正史だとするかぎり本当の歴史は見えてこない。
本来の王家が、断裂してしまい、傍系の王たちが権力争いに勝利を得て、天皇の名称を使用し系譜を改ざんして、正当化した。それが、蘇我氏の歴史書である『天皇記』『国記』である。
日本書紀・古事記もまた、後の時代、秦氏、藤原の時代になって改竄されています。この時にこの押坂彦人大兄皇子、日十大王の系譜や事跡は変更されました。それは、秦氏、藤原氏は、この押坂彦人大王の後胤と対立し多くの人物を暗殺してきたからです。

日本書紀の下巻の天皇はすべてこの押坂彦人大王から繋がります。当然ながら天武が皇祖と仰ぐこの押坂彦人大兄皇子は、もちろん大王でした。それを変更したのは大王家と対立していた藤原氏である。


写真は、和歌山県橋本市隅田にある隅田八幡神社です。和歌山と奈良の県境に位置します。この、八幡神社は応神天皇こと、誉田別尊を祀っていいます。この応神天皇とは、架空の人物であり、いわば蘇我の神様です。

八幡神社は、蘇我氏が物部氏を滅ぼして後に、物部の神様を祀ることができず、蘇我の神様を祀ったからです。
だから、蘇我馬子が関係します。この八幡神社というのは、元来は後の物部氏、本来の王家の神様を祭っていた神社です。

私には、この人物画象鏡の銘文の謎は凄く簡単な謎でした。それは、八幡神社は蘇我馬子が大きく関わっているからです。銘文の「斯麻」が蘇我馬子だとわかると謎解きは簡単です。
日十大王とは、敏達天皇の第一皇子でる、押坂彦人大兄皇子です。


矢田八幡神社(京都府京丹後市久美浜町)
由緒・・・
当初の祭神は饒速日命、孝元天皇、その奥后内色姫命であったが、奈良朝に至り、当時の物部氏と蘇我氏の争いからついに物部氏亡び蘇我氏の探索は当地にまでおよび矢田部一族はそれを恐れ、宇左八幡宮を勤請して社名を矢田八幡と改めた・・・

この矢田部一族とは物部氏と同族。そして、もちろん、宇佐神宮も元は物部の神社。
この地を豊の国というように、比賣大神とは、卑弥呼である台与のこと。
応神天皇と神功皇后が祀られるようになったのは、物部氏が滅んでから。
この応神天皇とは蘇我の神様。古代の歴史を改竄したのは蘇我馬子。
だから八幡宮は蘇我氏が関わっている。宇佐神宮ももとは八幡宮ではなかった。
後に蘇我氏が滅び、天皇家に秦氏が関わるようになって、八幡の名称に変更されている。


          












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