聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

仏教伝来の謎と「法興元」

2015年10月07日 | 聖徳太子の謎


天皇というのは、蘇我の王の名称であり大王はことなる。これ、日本書紀の謎を解くのに
重要な問題です。
蘇我馬子が関わった、「天皇記」「国記」というのは蘇我氏の歴史書であり、これは、
「大王記」ではなく「天皇記」であるわけです。
問題なのは、この蘇我氏の歴史書をもとに、後の帝紀、旧辞や日本書紀、古事記が編纂
されたということ。そして、蘇我の王の名称である「天皇」が使用されたこと。

天皇の名称は、本来は蘇我氏の王の名称であり、蘇我氏が初めて王家と姻戚関係を結んだ
欽明天皇と蘇我稲目の娘の蘇我 堅塩媛から続く、蘇我の王の名称。王家ではない。

この欽明天皇は継体天皇の三男坊ですよね(神武が三男坊なのはこれが理由だと思うの
ですが?どうでしょう?)長男は、安閑天皇で、次男は宣化天皇です。
継体天皇の後、蘇我氏とすれば、姻戚関係を結んだ欽明を次の王に指したいわけですよね。
それで、三男坊の欽明が長男、次男より、次の大王に相応しいとするのにはどうしたらいい
でしょうか?
そう、お父さんは継体でどうしようもないから、お母さんの出自を問題にしたらいいわけ
です。安閑、宣化のお母さんは尾張氏の娘の目子媛です。

ですが、この欽明のお母さんは、仁賢の娘の手白香皇女で彼女が皇后とされます。
で、彼女が皇室の祖で、女系ですが直系の血筋を繋いだとされます。
これ大嘘です。嘘をつくにも古代の人は単純。
雄略天皇の子の清寧は、后がなく、したがって子がなかったから、オケ、ヲケの二人が王
に迎えられたという、仁賢、顕宗の奇妙な話は作り話です。
欽明の方が正当であるとするため、彼女のお父さんを王に仕立て上げただけです。

尾張氏の娘、目子媛の子の安閑、宣化の系列より、欽明天皇から繋がる、蘇我の王である
天皇は、古代から繋がる正当な血筋を引く王であるとしたのが、蘇我馬子と竹田皇子が編纂
した「天皇記」「国記」です。



仏教伝来の謎・・・
仏教伝来に関しては、いくつかの説がありますが、有力とされているのが、この欽明天皇の
御代である「戊午年」に百済の聖明王から仏教が伝来したとされています。

この伝来の問題は、この「戊午年」とされます。
それは、この欽明天皇の時代は540年から 571年とされ、この治世時においては戊午の
干支年が存在しないからです。
ですので、欽明以前で最も近い戊午年である538年だろうと考えられています。

では、なぜこのような間違いが生じたのか?それは、そう記述されていた書物があったから
です。それは、もちろん、蘇我氏の歴史書である天皇記・国記においてです。

「辛亥の変」・・・ウイッキペディア

『日本書紀』に引く「百済本記」(「百濟本記爲文 其文云 大歳辛亥三月 軍進至于安羅 營乞
乇城 是月 高麗弑其王安 又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年
矣」)によれば、531年頃に天皇と太子・皇子が共に薨去したという所伝があるという。
このことから、継体天皇の死後、安閑天皇・宣化天皇の朝廷と欽明天皇の朝廷が並立し、二
朝間で内乱があったのではないかとする説もある(「辛亥の変」説)。

上宮聖徳法王帝説や元興寺伽藍縁起のおいて、欽明天皇の即位した年が辛亥の年(531年)
とされ、あたかも継体天皇の次が欽明天皇であったように解される。
『古事記』では継体天皇が丁未の年(527年)に崩御したことになっている。

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これ、つまり531年に蘇我の王である天皇に即位したのが、欽明であり、大王に即位
したのが、安閑であるということ。大王と天皇は異なるということです。
そう天皇記・国記に記述されていたということで、もちろん、天皇記編纂時において改竄された
わけです。蘇我氏が初めて王家と姻戚関係を結ぶのがこの欽明です。
天皇記・国記とは、蘇我の王である天皇は古代から続く正当な王家であると主張したものです。
天皇とは蘇我の王だったわけです。本来は。


これ、推古天皇や聖徳太子の時代においてもそうです。天皇と大王とはことなる。

隋書・・・
開皇二十(600)年、倭王、姓は阿毎(あめ)、字は多利思比孤(たりしひこ)、
阿輩鶏彌(おおきみ)と号す、使を遣して闕(みや)に詣る。
上、所司に其 の風俗を訪わしむ。
使者言う「倭王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。天未だ明けざる時、出でて
政を聴き、跏趺(あぐら)して座し、日出ずれば便 ち理務(つとめ)を停め、云う、
我弟に委ねん」と。
高祖曰く「これ太いに義理無し」と。是に於て訓して之を改めしむ。王の妻、彌(きみ)
と号す。後宮に女 六、七百人有り。太子は名を和歌彌多弗利(わかみたほり)と為す。


591年に天皇に即位したのが推古であり、593年に大王に即位したのが、厩戸皇子こと
押坂彦人大兄皇子であるということ。実質、本当の初代の天皇は推古です。
この593年というのが、法興元年ということ。日本書記において推古の年齢に2年
の間違いがあるのはこれが理由。


写真は、明日香村にある県立万葉会館前のせんとくん。大阪の、聖徳太子建立の七大寺の一つ
とされる四天王寺です。もとは、蘇我氏と対立し、滅ぼした物部氏の物部守屋たちをを祀るために
蘇我馬子が建立したものですが、蘇我氏憎しの天武が、竹田皇子の事績である創建の由来を厩戸皇子建立
に仕立てたものです。

                    
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