名古屋千年ゼミ

持続可能な社会について、みんなで考えます!

ゆっくり,まったり対話する場…♪

住職さんから頂いた宿題♪

2011年10月27日 | 近況報告
住職さんからいただいた宿題♪
皆はやってみた?

私はやってみました。
自分は大きくとらえる癖があるなーとしみじみ。
もっと現実問題として細かく考え→実行していきたいなと思いました。

皆の震災前、後の世界はどう違うのかも知りたいなと思います。
良ければコメント等でお話できるとうれしいでございマース。


「ともにとっての震災前の世界(日本)」

・経済発展してきて、成功した平和な国に住んでいる。
・争いも少なく、教育・医療・福祉も(だいたい)安定。
・諸問題は色々あるが、仕方ない。皆頑張っているし、そのうえでも問題は出てくるものだ。
・少しずつ価値観を変えていく必要性を感じる。
 が、うまくいっているため、急に変えなくてもよい。このままでもなんとかなっていく世界。
・でも、このままだと確実にうまく回らなくなる日が来る。
・便利で豊かだがそれと引き換えに目に見えない大切なものを確実に失ってきている。
 しかしこの便利さが今の日本を発展させてきた一つの要因であることは間違いない気がする…改善点はあれ ども、この世界でいいんだろう…ね?…(もやもや…)


「震災後の世界(日本)」

…改善点はあれども、この世界でいいんだろう…ね?…………だと……?
全然ダメじゃん!!
ダメすぎるじゃん…orz
ダメというか、いやほんと、住めなくなるから。
というのが震災後に感じたこと。

テレビも政治もこの世界の仕組みも、それぞれの立場からなっていて、少なくとも「国民を守るシステムになっていない(もしくはシステムが機能していない)」だからこそ自分は自分で守るしかない。(←当たり前かもしれないけど、それに気づかなかった、というかなんとなく感じてたけど直視するのを避けてきた所もある)
便利な生活、発展のために汚されてきた大地。
それを自分は見て見ぬふりしてきた。見て見ぬ振りができるという価値観、感覚の麻痺。
この感覚の麻痺や価値観は社会にも言えることではないか?
(もちろん麻痺してなくて、守ろうと活動していらっしゃる方は沢山いる)
自分は今も麻痺しているのか、この社会でこの消費する生活を続けており、この社会の一端を「生活する」ことで担っている。
でも、この生活を続けていくと何が残るのか?
綺麗な環境がない、生きる知恵や、生きていくための深い思いやりが薄らいだ世界だったりするんじゃないか?自分だったらそんな世界に住みたいか?住みたくない。
自分だったら嫌な世界を子供に残すのか?残したくない。
じゃあどうすんの。どうしよう…いまできることからするしかない…。

という世界に只今住んでおりまして、そんな感じでくすぶっておりまして。
そのためくすぶり会に参加させていただいております(笑)
おや。住職さんの仰ったことを語源化してたら「参加動機」が出てきたよー(笑)

でも絶望ばっかりじゃなくて、この世界も好きです。
好きな人たち、愛する人たちがいるから。
放射能の問題はあるけど、地球は本当に美しいから。
生命の輝きは変わらないと思うから。

色々「起こってしまった」ことはあるけど、自分は「今」の生の時間を頂いているわけで、「今ここから」の時間がある。あるということに感謝したいし、「震災後のこの世界を生きている日本人」として、今生きていることに感謝しながら生きていきたいと思っています。

前回「偽善」の話がでましたが、自分はむしろ偽善しか持ってねーと、しみじみ感じます。
っつーか偽善ってなんだ。
私の偽善の解釈は「自分に都合の良い善意」です。
そう考えると残念ながら自分には「偽善」しかなさそうです。でも「偽善は持てている」という考え方もある。
自己否定すると生み出せなくなるけど、自己への疑いの眼差しは、時に自分を助けるなと思います。
「自分は偽善しかできていない。そのため人に迷惑をかけるかもしれない、だから偽善が迷惑になっていないか注意しよう、もっと人と喜び合える善意を考えていこう」って。

自分を知っていくって大事ですね。
でも「汝自身を知る」ということは私にはすんげー難しいです。二十何年自分やってきて、正直殆どわかってない。なので私はこの「名古屋千年ゼミ」の場をお借りして、みんなと対話したいと思っています。
住職さんが言っていた通り、対話することで見えてくるものってたくさんあると思う。
自分の輪郭や、相手のことも、見えてくると思う。

なので、コメントなどで対話してくれる人がいればうれしいなと思います。
もし興味のある人あれば、よろしくです♪

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2 コメント

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hypocrite (kuko)
2011-10-30 23:45:47
私は人が何かいいことをしようとしたら、どうしても偽善的になっちゃう気がする(清く正しく美しい面しかもってない人なんてなんかうそっぽいし。ちゃんと生きてますか?って思っちゃうよ)。だいたいなんで偽善って言われるのが嫌だったり怖かったりするんだろう。偽善だと言われたららやる気がしないことはどんなに正しいことでもしなくていいし、自分の気が向くことなら偽善だとののしられてもやればいいじゃんて思う。「偽善」は、「利他的を装ってされる利己的なこと」、「与えているようで実は奪っていること」って感じがする。でも「利己的」と「利他的」をどう区別できるんだろう?

ほかにもいろいろ思ったけど、とりあえずこれだけ。私も自分のことはわからない。
またお話しよー。
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Kukoちゃんコメントありがと! (とも)
2011-11-01 07:54:32
コメントありがとう(^ω^)ノシ
反応もらえるのはやっぱりすごい嬉しい♪

この前のゼミでも話したけど、自分がよかれと思ってしたことが相手にとってしてほしいことだった時が利他的になるのかなと思う。
でもそうするとこっちが行動して相手が感じるまでは、相手にとって『本当にしてほしいこと』になっているかはわからないよね。
だから『自分が考える→行動する』のプロセスは『利他』になれない、と私は考えてるよ。
でも『誰かのため』と考えて動くことはあるとおもう。ボランティアなどね。
でもそれをたとえ『誰かのため』と考えてやっていても、それはあくまで『利己』の範囲内だと私は考えてる。
自分が誰かにそれをしたいからさせていただいてる、のであって、してあげている、ではない。
そう考えていきたいと思ってる。

でもよく『してあげた』って単語を言ってしまう自分もいる。ということは心の無意識では『してあげた』という意識なんだろうなとも思う。

まだまだおごっていて、高慢な自分がいる。
でもそれもちゃんと心にとめて、行動することがまず『思いやり』の第一歩かなと思ってるよ。


わこちゃんの、『偽善とののしられてもやりたいことはすればいい』、逆に『偽善と言われてやる気が失せることはどんなに正しくてもしなくていい』という言葉、すごく心に響いたよ。
迷ったときの一つの指針にさせてもらおうと思った(^^)
ありがとう。
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