それでも永山則夫が好きだ(スピンオフ)

「ねっとわあく死刑廃止」や、無期懲役囚で「とらえなおし」で知られる飯田博久さんや、小松川事件の李珍宇のことを書いたり色々

(第七章)小笠原和彦著『李珍宇の謎』…在日朝鮮人の珍宇が、自分の死に価値を見出すための心の葛藤

2017-05-06 23:38:36 | 小笠原和彦著『李珍宇の謎』

(第六章-2)から続く

【李珍宇・小松川事件について】

・1958年4月20日、賄い婦の田中せつ子さんが殺害される。

・1958年8月17日、東京都江戸川区の東京都立小松川高等学校定時制に通う女子学生(当時16歳)が行方不明になる。

・1959年2月27日、李珍宇(在日韓国人)は犯行時18歳であったが、「賄い婦殺人事件」も含めた殺人と強姦致死に問われ、に東京地裁で死刑が宣告。

・二審もこれを支持、最高裁も1961年8月17日(被害者の命日)に上告を棄却し、戦後20人目の少年死刑囚に確定。事件の背景には貧困や朝鮮人差別の問題があったとされ、文化人や朝鮮人による助命請願運動が高まった(自白だけで物証がなく冤罪という説もあった)。

・1962年8月には東京拘置所から仙台拘置支所に移送(当時東京拘置所には処刑設備がなかったため)

・同年9月8日、珍宇が宮城刑務所から小林直人弁護士に再審請求書を送る

・同年11月16日に宮城刑務所で死刑執行。異例のスピード執行だった。

 

小笠原和彦著『李珍宇の謎』の目次 (五章以降)

 

第七章では、珍宇が死刑を受け入れるための、心の葛藤が分析されています。

(きちんと詳細を読まれたい方は、是非、【李珍宇の謎!】を借りて読まれてください^^;)

珍宇は獄中に入ってから多数の人と文通をしているのだが、その中でもダントツ文通量が多いのが、朴壽南(パク・スナム)という女性に宛てた手紙なのです。珍宇とスナムさんの手紙を全部読みたいと思ったら、以下の【李珍宇全書簡集】で読めます。(【罪と死と愛と】(1984/7)という本でも、スナムさんと珍宇のやりとりが読めますが、それは一部しか収録されてないようです。

珍宇はスナムさんに遠回り、若しくは小出しに、「ボクは、姉さんのことが好きなんだけどな~、えへへ~みたいなことを書き送っていて、読むと「カワイイ!」の一言です。ほんとまさしく年頃の男の子!という感じ。これを獄中で書いていて、しかも死刑判決まで食らっている男の子の手紙だと思えません

で…

珍宇が『(自分が)死ぬこと』について、スナムさんを含めた数名の人に色々書き送っているのですが、彼自身も意見が移ろっており統一されていないのです。「自殺したかった、でも、生きたかった、でも生きたくない」…という感じで、彼の手紙を読んでいると何が言いたいんだかさっぱりわからず、こっちは混乱してきます珍宇のこと『メンヘラ』…までは悪く言いたくないんですけど…

珍宇がシャバにいたとき辛い人生だったことは変わらないのです。珍宇は自殺未遂をしたこともある。家が貧しい、妹弟が下に数人いる。夜間高校に通いながら工場で働かないといけないし、父親と兄が喧嘩ばっかりしてる。ただでさえ辛い状況の最中、さらに母親は7人目の子供を身篭ってしまう…。

(昔は、今以上に、妻(女性)にセックスを拒否できるほどの人権がなかったのだと私は思う。彼氏や夫からの要求を断りにくい、『アホな男』どもが生でやりたがる、避妊を男性が協力しないというのは暴力である、と、今の日本でも問題になっていますが。昔はもっとさらに酷かっただろう。今でも『アホな男』が多いが。大切なことだから二度言わせていただいた。)

さらに、冤罪で逮捕されてしまって、巷では、完全に、自分は強かん殺人魔というレッテルを貼られている。自分は在日朝鮮人であるので、日本人たちから蔑まれているのもわかっているし、さらに、あの子沢山の貧しい家庭…無罪になってまで、その家に戻りたいとも思えなかったのではないか。

 

さらに、前の章でも書いてあったように、官憲の手下でもありブラック神父の教誨師からは、「殉教者を見習って、サクッと死んで来世に期待!とか言われて洗脳されている。(後のほうでその洗脳は解けていくのだけれども。)

スナムさん以外の支援者の方々には、殉教した聖人のことを書き送り、「聖人たちを見習って、自分も殉教したい」みたいなことを書き送ってるし(クリスチャンは自殺はアウトだもんね)、スナムさんに対しては、“良き朝鮮人として死にたい”などと、書き送っている。

 

珍宇の死への心理について、【李珍宇の謎】P.187より抜粋

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『自分の死に価値を求める』

犯人でない珍宇は殉教者と自分を重ねることによって、理不尽な自分の気持ちを抑えたのではないか、と私は考えてきたが、この手紙を読むと、それだけではなさそうである。自らよき朝鮮人となって、悪しき人間とみられてきた朝鮮人をすこしでもやわらげる努力をしたい、と珍宇は書いている。これは暗に自分の死は価値あるものなんだといっているようにとれる。そのことは、私は私の立場を自覚している、私は朝鮮人の死刑囚なんだ、だから同胞のために役立とうと勧化得る、と書いた9月22日の手紙にひきつがれることになる。

このように、朴壽南に書きおくったのは、自分の死に価値を求めることによって、犯人とされた無念な気持を鎮めるためであったようだ。

自殺をはかった珍宇が、9月22日の手紙で自殺は逃避だといったが、なぜそんな心境になったか、これではっきりした。自殺に価値を求めることはできないからだ。

さらに一歩すすめてみよう。もう一度殉教者の話に戻る。

まだ朴壽南と出会う前、珍宇はルドヴィゴ茨木の話を旗田にあてて書き送っている。寺本勤(弁護士)には長崎十二聖人の話を語って聞かせた。ふたりに語った殉教者は、いたいけな少年殉教者であった。それらの話は抑えきれない珍宇の気持を鎮めるには、役立ったかもしれないが、彼等の死から価値をみつけだすことは、信仰をもっていない人にはできない。自殺に近いからだ。

だが、朴壽南と出会い、彼女の影響を受けるようになると、少年殉教者の話はなくなり、かわってパルチザンの母親が自分の子を殺す話や、同じくパルチザンの桂順の話へと変わっていく。つまり死に価値をみいだすことのできり人の話になってくるのである。桂順の話などは助かる道がありながら死を選んでいるので、少年殉教者の話と似ているが、宗教のために殉じたのではないので、殉教者とはいえない。

そのような話を書いたのは、自分の死に価値を求めようとしたからと思われる。だが、珍宇は強かん殺人犯である。いくら死を受け入れたからといっても、自分の死が価値があるものとして、人に認めさせることはむずかしい。9月22日の手紙で、だから同胞のために役立とうと考えている、と書いたあと、このことはうまく書けないと書いたのは、人に伝えることのむずかしさをはからずも吐露しつぃまったのである。(抜粋以上)

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以下、管理人の私の、しょうもない感想ですが…

いたいけな子供1人を、日本という国はようも苦しめてくれたなあと思います。いや、韓国人となると一人だけではないのだけれど。で、皆さんもご存知の通り、今もネットでは嫌韓が活発活動中だし、この『小松川事件』の情報は嫌韓や右翼の間では韓国人を罵るために積極的に利用されております。

ああそう…私は在日外国人ではないのですが、少しでもネットで左寄りの発言をしたりレイシズム批判をすると速攻で嫌韓どもから在日認定されたりしていました(;´∀`)。しかし最近、『在日認定』行為は前と比較すると減っている気がします。しかし嫌韓書き込みは相変わらず絶大に多いです(2017.5.7)。現在、慰安婦像の報道が多いので、その影響だと思います。(また、最近の嫌韓はあまりに韓国が嫌い過ぎて、“北朝鮮のことを誉めて韓国を罵る”という、発狂モードになっている者達すら見ます。 それを見た私は、日本にいる嫌韓というのは北朝鮮の工作員なのではないかと思ったほどです

嫌韓はカルト教ですね…

珍宇の事件が起きてから、約60年経過。当時から、在日韓国人は差別され続けておりますが…この今の変わらぬ状況…天国というものがあるとしたら珍宇はどう眺めてるのやら。私は霊や天国といったものは本当は信じてないけれども、申し訳ない気持ちでいっぱいです。

参考:ヘビーユーザーを規制してもヘイトが減らないヤフコメという場

 

 



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