それでも永山則夫が好きだ(スピンオフ)

「ねっとわあく死刑廃止」や、無期懲役囚で「とらえなおし」で知られる飯田博久さんや、小松川事件の李珍宇のことを書いたり色々

斗争記―個人総括(7)(1987年10月5日)

2017-01-23 00:57:58 | 斗争記―個人総括

永山則夫元支援者の武田和夫さんが、永山から追放された後、発行された『沈黙の声』という会報を冊子にまとめたものです。どうして追放されたかは、武田和夫著【死者はまた闘う】(明石書店)を読まれてください。この『斗争記―個人総括』と合わせて読むと感慨深いと思います。

この冊子中には、『N(永山則夫)裁判闘争記』という記事が収録されて…いたのですが…途中から『斗争記―個人総括』に名前が変わりました。


 斗争記―個人総括(7)(1987年10月5日)

六、反 動  

「決別」後、永山則夫がまず言ってきたのが、運動として支援してきた秋山芳光氏の詩句集「苦い罠」の残部を渡せという事であった。運動として継続して支援していくから、というのなら分るが、永山の使いで来たOによると支援をどうするかは「未定」であり「運動も作成に関与したので (全部)渡してほしい」というのである。 

この他、「決別」前に故障した輪転機の修理代と「三億円事件」論争に関わる永山のコピー文を 「うすいものに交換」せよとの三点を永山は言って来、これをやらないと「スパイ行為になる」「損壊罪、窃盗罪で告訴する」とのことであった。 年が明けて、永山が武田との決別の内容を、一方的にデマ宣伝している文書(題名は「仲間たちに告ぐ!」)をばらまいている事を何人かの友人が知らせてくれた。(この文書は武田には送られなかった)それで、決別の直接的原因である「三億円事件」問題についての対立点の正しい説明と事実経過を記した『永山則夫との対立の真相と意志表明』を印刷、関係者に配布した。 

1月6日、秋山氏の弁護人(一人)であり、永山の主任弁護士だったS氏よりTELがあり、 「永山君からの手紙で、秋山さんに、詩集を渡さないと弁護人をやめることになるので、渡すよう言えといっている」と言われた。武田「ひどいと思わないか」S弁「自分中心だと思うが、要求をのんでから説得してはどうか」 他方で永山は、「印税から10万円払う」(〝運動のものだから返せ〟という主張と矛盾する。秋山氏を援助するのなら、カンパでいい筈)とも持ちかけていた。1月8日、秋山氏はS弁の面会をうけ、詩集を引き渡すことを了承(させられた)。 

処が2月に入ってから、S弁より「詩集を今週中に持ってきてほしい」との伝言を書いた「無反省なハガキ」(当時の武田の日記より)が届いたので、「現金受頷とひきかえの筈だ。急ぐ理由は何か」と返答したところ、「それなら金は出さない」との応答があったので、「では話は元に戻ったね」とS弁に確認した。 

しかしその後も、3月に入って再び「10万出してよい」の対応や永山の妻Kが秋山氏に会うと言っている、等々としつように続く為、事実経過の一切を公表することに決めた。武田は1月段階で「この件に関する理不尽な対応は、すでに公けに糾弾の対象になるものであるが、それでいいのですか」と警告していた。それでも、公表は〝永山が更に悪質なデマ・スパイ宣伝を公然と行なってきた場合〟とした。そして、永山が「キケ人ヤ」 (永山裁判闘争の過程で77~82年にかけて、武田が7号~33号まで編集した。「決別」後3年間に5号分発行されたが、内容は全て「武田攻撃《〔批判〕ではない。》に終始。33号まで印刷をひきうけてくれたS社は、永山らの依頼に対し「その様な中傷文は印刷できない」と断った由)で「スパイ」攻撃をかけてきたので、これに「事実」を対置し、『告発状』として発行した。  

一方、〝永山人変わり〟キャンペーンは続けられていた。この時期、「新日本文学賞」に、選考委員の佐木隆三が強力に推し、「永山は素直になった」と発言。またその受賞にからめた「朝日」特 集記事(83年4月23日夕)で、「闘争放棄」を印象づけるキャンペーンがなされた。この他方で「減刑以降最高裁の死刑事件審理が、上言審の結果を待って停止されている」事に注目し、最高裁の結果如何を「死刑廃止か存続かの問題として注視させていくキャンペーンもなされていた。 この様な中で、4月25日、最高裁は「無期」事件には異例の弁論を行なった。 

結果から逆にみると、この動きは、「永山の人変わり―闘争放棄」を強調して「それ故の減刑」と印象づけ、減刑判決が獄中被告と獄外人民との共闘の成果であることを隠蔽した上で、人々を 「減刑か死刑か―死刑廃止か存置か」の結果を追う「見物人」の位置に封じ込め、然る後「やはり死刑存置!」と印象づける道筋をつくるものであった。

佐木隆三の発言と、新日文系の人物が永山側関係者と親しく交流している事実の報道は、 「減刑」時の「永山人変わり」キャンペーンの裏付けとなるものだったのである。そして現に、永山自身は「闘う支援」を切りすてていたのだ。

高裁減刑は、「獄中結婚による情状」などのためでは断じてない。それは、死刑囚と獄外人民とが裁判の場において共闘し、「犯罪」に正しく責任をとり、ともに生きようとする「死刑との闘い」が、その突破口として、徹底的に闘われたことによる政治的勝利であった。その闘いをかわし、懐柔し、政治性をハク奪する必要があったのだ。 

減刑が維持されるなら、それは更なる懐柔の要ありという事であった。減刑破棄は、懐柔の要なし、という事であった。 

永山自身による「闘う支援」の切りすては、権力側の願ってもない事であった。

闘いの成果を他の死刑囚にも広げようとしていたこの「闘う支援」を、あくまで個別永山の利益を至上とする立場から、デマ中傷を加え、闘えなくする、ということは、権力にとって更に更に望ましいかぎりであったのだ。

3月24日弁論の前日、武田は永山弁護団の一人から、弁論傍聴に来ないかとさそわれた。  

「君も結果は気になる訳だろう。明日の弁論は重要だから来ないか。」 

当時、最高裁が弁論を行なうのは、一定の結論を出してからだということは全く知らなかった。然しこの時、武田は「最高裁が弁論をあえて入れてくる以上、何れかの結論は出ているだろう。それは明日の弁論で左右されることはないだろう」という風にみていたのだ。 

ある獄中者(死刑囚)との面会で、 「どうなりますかね」 と聞かれたのに対しては、 「常識的には八割方、減刑維持。だけど『支援』を切りすて、武装解除していることが、どう響くか…」とこたえている。 

今頃になって「永山減刑判決の重み」が云々されている。五年遅いのだ。

然し私自身、永山の「武装解除」を何とか阻止出来なかったか、と今更のように考えている。しかし、永山則夫のその後をみる時、いずれにせよどこかで永山とは対立していただろうと思う。すでに決別前、私か闘いの他への波及を目指そうとしたのに対し、彼は「科学理論発見者」としての自己の誇大化に向かっていたのだから。 

運動内で永山を批判できなかったのが、私の限界だった。もっともその運動は、永山の「指導」する市民の「反省」の運動であり、「指導者」が受け入れたくない批判を、「反省の不足」ゆえとして排除しようと思えばしうる構造を持っていたのだが。―「指導者」が健全であるかぎりにおいて、健全な運動を維持することが出来たのである。 それらの事を考えるならば、やはりそれらはおこるべくしておこった現実の過程とみる以外にないのかも知れない。そして重要なことは、ふつうなら闘えなくなってもおかしくない状況の中で、闘う原則を維持し、闘いの成果を引きつぎ、あとに続く状況にそれを生かしえた、という事だろうと思う。

(抜粋以上)


 

管理人のつぶやき

ここについてはあまり私が口出すべきじゃないと思う。けど、これだけ、すいません(-"-;

>佐木隆三の発言と、新日文系の人物が永山側関係者と親しく交流している事実

都内の古本屋で、永山の手紙が販売され、その手紙の画像がその古本屋さんのHPに載っていたのですが(どこに載ってたか、わからくなってしまったのでリンクを貼れないのですが)…その内容は、文化人と永山が仲良く手紙でやりとりしている内容だったと思います。ちょうどそのころの手紙じゃないのかなと、今、思いました。



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