シベリア抑留死亡者遺児の会

父親をシベリア抑留で亡くした遺児の会。墓参・埋葬地調査・遺骨収集・慰霊碑の建立・慰霊祭の情報を交換し風化防止に努める。

シベリア慰霊巡拝(4)

2009-09-16 18:10:27 | シベリア抑留
2009年8月29日、今朝は快晴、+3度ぐらいとドライバー氏
9時に出発しボルジャには2時ごろ到着予定との事だったが、ショートカット路
をある時は川の中、急勾配ではないが峠越え、小休止でお供えの花を摘みながら
212KM走り、1時過ぎにボルジャ市役所に到着した。
ボルジャに付いて簡単に説明すると、満州(現在の中国東北部)のハルピンから
シベリア鉄道のチタへ鉄道が走っている(昔の東清鉄道)途中満州里は中国側、
国境を越えた所のロシアのボルジャである。日本人抑留者の拉致されたコースで
である。今回の参加者の父君はこのコースの入ソが多かった。私も最短コースな
ので始めはこのコースを調べたが未だジーゼルなので時間が掛かる。私の父の入
ソコースは、ここより西の、黒河―ブラゴエシチンスクからで、総抑留者の3分
の2がこのコースから入ソした。
中国に近く、モンゴルにも近い、ブリアート人の故郷とか町を歩く人はババロフ
スクとは違う。レストランの料理も中国の影響があった。
そこからは市役所の方の案内で、ランチの後、第1940野戦病院(戦争もしな
いのに野戦とは?)の跡地で、現在もそのまま内装を変えただけの博物館になっ
て居り見学した。第1942野戦病院で父上を亡くされた方が壁や柱を撫ぜて歩
かれていて鬼の目から涙、第1942病院の方は何処に有ったかも分らないと
の事、又日本人のものであろう「神田」と名前が記された鉄兜が展示されていた。
訪問者記帳をすることになりページを捲っていたら3年前にここに来られた、私
の遺児仲間,ベルフナリムで父上を亡くされた立川さんのサインが見付った。
それから埋葬地での慰霊祭に向ったが、大変広い場所で全く何処だか分らないと
の事、病院は駅の近くで如何してこんなに離れた場所に・・・と不思議でならない。
帰り道で日本人が作った学校を見たが完成は日本人の帰った後との事だった。