倭国、大和国とヘブライ王国

ヤマトとはヘブライ王国の神・ヤハウエの民を意味するヘブライ語‘ヤァ・ウマトゥ’が変化したものであろう

明治神宮参拝

2006-09-24 00:40:30 | 歴史
 小泉劇場も今月で終わる。話題の多かった総理であったが、中でも靖国参拝は中韓との外交問題に発展し今後の安部政権への課題を残した。親族が靖国に祭られて居なかった事から、今まで一度も参拝に行っていなかったが「小泉劇場の終わる前に」と思い立ち、重い腰を上げた。
 地下鉄九段下で下車し正面入り口に向かう。道路にいきなり現れた第一鳥居の大きさに圧倒されたが、他の神社には見られない鉄製の鳥居であった。パンフレットに高さ25メートルと書かれていたが、このような高さにすると石やコンクリートでは耐震性から無理なのかもしれない。しかし見上げてよく見ると、ペンキがあちらこちらではげていた。お賽銭が少ないのかなと余計な心配をしてしまった。第一鳥居をくぐるとこれも鳥居と同じくらいの背丈の銅像が建っていた。説明書きを読むと日本陸軍の創設者大村益次郎、司馬遼太郎の小説「峠」の主人公である。「何故ここに?!」と思ったが靖国神社の創設に深く係わったという説明に納得した。もう一つ何故がある。それは益次郎の銅像を何故こんなに高くしたのかという疑問だ。近くで仰ぎ見ると高すぎて益次郎の顔が見えない。遠く離れると今度は顔が小さくなって見えない。作者の意図が知りたい。
参拝後境内に在る遊就館を訪ねた。戊辰戦争から太平洋戦争までの近代史が詳細に展示されている。又ここでしか見られないであろう零戦から戦車、戦艦までが展示され、私の感想から言わせて戴けば「戦争博物館」と言った感じを受けた。
意外だったのは若い見学者が非常に多かった事だ。これも小泉劇場の副産物かも知れない。
天気が良く、時間も有ったのでJR市谷駅から原宿へ廻り、普段初詣でしか行かない明治神宮へ向かった。玉砂利を踏んで長い参道を拝殿に向かった。すれ違う参拝客の1割くらいが外人であった。京都や奈良まで足を伸ばす時間の無い外人には、手短に日本を感じる格好の場所かもしれない。時折、僅かに聞こえる山手線の音以外は、武蔵野の深い森の中に来ているような感じであった。
参拝後直ぐに宝物殿に向かった。建物は正倉院の校倉風大床造りを模したコンクリートつくりで、展示物は明治天皇と昭憲皇太后に係わる御物が展示されている。展示室の壁の殆どを使って、御物とは関係ない意外なものが展示されていた。それは神武天皇から昭和天皇までの全124代の天皇の肖像画である。さすが天皇家!百代以上前のご先祖様の肖像が残されている。
初代神武天皇は日本の古代の本や、神話の本に挿絵として度々登場しているので、肖像画があっても驚かないが、第二代綏靖天皇から第九代開化天皇までは欠史八代と言われ、実在の可能性が疑われているにもかかわらず、天皇凡ての肖像画が並んでいるのには正直驚いた。じっくり8人の天皇の絵を見比べて見ると、なんと皆兄弟の如く同じ顔、と言うより一卵性八子が並んでいると言う感じである。神武天皇と第十代崇神天皇は、それらの天皇とは違う顔付である事から考えると、「やはり欠史八代はあるのか」という思いがよぎる。これらの話と直接関係あるのか無いのか、九代までの髪型が古代の神の絵に見られる耳の脇に束ねた形、第十代崇神天皇からは中国風帽子を被り、髪を後ろに束ねているのも同じ理由に起因しているような気がしてきた。
小泉劇場に感化され、靖国神社で英霊に深謝し、遊就館で近代日本の成り立ちを学び、明治神宮で明治天皇の霊に拝謁し、宝物殿で124人の天皇にご対面する貴重な一日となった。




天若日子のお葬式

2006-09-16 21:48:52 | 歴史
 先日、友人のご尊父が亡くなったとの通知を受け、通夜に出席した。会場に入り案内に従って席に着き、遺族の方々に挨拶した後、正面を見た時、今まで経験していた葬式と何かが違う事に気がついた。
正面には神棚が据えられ、神社の祭礼時の飾り付けがされていた。お葬式は神道によって行われていたのだ。用意したお数珠をそっとポケットにしまった。
ある時何かの話の折に、友人の家系は神主という話を聞いていた事があったので、直ぐに納得した。帰ってから調べたところ神道によるお葬式を、‘神葬祭’と言う事を知った。神道では「祖先の霊を祭る行事は、凡て祭りと言う」と書かれていた。
しばらくして二人の神主が着席して神葬祭が始まった。祝詞が二人の神主により謡われ、美しいハーモニーが流れる。祝詞にじっと耳を澄ますと、何度も何度も読んできた‘古事記の神代の世界’が朗々と歌われている。祝詞の無い間は雅な笙(しょう)の音(ね)が流れ、仏式では感じる事の出来ない不思議な世界へ導かれていくようだった。
考えてみれば日本に仏教が伝来したのが西暦538年であるが、仏教が庶民の生活に真に定着したのは鎌倉時代(西暦1192年~)の親鸞の時代であろうと言われている。仏教伝来から世の隅々まで浸み込むまでほぼ500年を要した事になり、それまでの庶民の間の冠婚葬祭は、おおよそ神道によってなされていたと考えても良いのではないか。
神主の祝詞が古事記の世界であったことから、古事記の記述の中に葬式の様子を書いた物語があったような気がして、今一度目を通してみた。記憶に間違いは無かった。天孫族が出雲から国取りをする物語‘葦原中つ国の平定’の項の「天若日子」の節にそれがあった。
物語の概略を記すと「天孫族・天照大神は出雲の国に対し国譲りを迫った時、最初は武力に依らず使者を送った。最初の使者が大国主命の誑しに合い戻らず、二人目の使者`天若日子’も大国主命の娘を娶る事により懐柔された。次に送った使者・雉名鳴女は弓に射抜かれてしまう。怒った天孫族はその矢で天若日子を死に至らす。古事記はこの日子の葬式の様子を次のように記している。『・・・すなわちそこに喪屋を作りて、河雁を岐佐理持ちとし(註:葬送の時死者の食物を運ぶ)、鷺を箒持ちとし、翠鳥(かわせみ)を御食人とし(註:死者に供える餅を作る人)、雀を確女(うずめ)とし(米つき女)、雉を哭女(なきめ)とし、各行い定めて、日八日八夜八夜を遊びき』。この様子を見ると神道の神葬祭の原型が僅かではあるが見る事が出来る。現在神棚に色々な食物を飾る様が既に始まっている。神道では現在仏式で言う初七日が十日祭、四十九日が五十日祭に当たる。古事記の八日八夜も偶数であることを考えると、既に神道の基本が出来ていたのではないだろうか。古事記の記述で面白いのは哭女が登場している事であろう。韓国の葬式がそのようであると聞いているが、古事記の時代は韓国の強い影響にあったことが現れているのではないだろうか。
神主の祝詞が終わり、その後神主の手により‘御霊'が`霊じ’(仏式の位牌に相当する)に移されたが、場内の明かりを落とし、蝋燭の日だけで行われたこの儀式は、誠に厳粛であった。明かりが戻り親族から玉串奉奠が行われた。神社参拝時と同じく玉串奉奠の後二礼二拍一礼したが、拍手は‘忍び手’と言われる音を立てない方法で、これも強く印象に残った。小生もこれに習い玉串を奉奠した。
思わぬところでしばし古代倭国へタイムスリップする事ができた。故人のご冥福を祈り、式場を後にした。


日本古代史200年の空白を埋める

2006-09-05 00:29:46 | 歴史
 日本の古代史は中国で書かれた魏志倭人伝他の、各王朝の歴史書の中に記述された倭国に関する記述以外に、国内には正史を記した書物は無いと言うのが通説である。世界に誇る我が国の古事記、日本書紀が語る古代倭国の物語は、‘史実ではない’と言う説が大通りを堂々と歩いているのが現状であろう。
しかしそれらの人達も記紀の記述の凡てが‘作り話である’とは言い切れずにいるのも確かである。それらの人達は「記紀の神代の物語は各地に伝わった伝承を、脚色したり、つなぎ合わせたりしているのであろう」とある意味で記紀は史実である事を認めている気配もある。
先の私のブログで記紀が史実を基にして書かれていることの片鱗を示した。これからこれまで展開してきた記紀の解釈を基にして、更に想像力を膨らませて記紀の記述から倭国の空白の200年の古代史を大胆に推理してみたい。
前回の推理の如く各世代の政権機関を10年として推理を進める。()内は中国の歴史書からの史実を記す。
西暦140~189年年頃・・・魏志倭人伝に倭国大乱と有る。この頃イスラエルの失われた支族の末裔達が倭国へ渡来。内一支族が淡路島に上陸、他の支族も壱岐の島や佐渡島に上陸し倭国を侵略していた頃を、‘倭国大乱’としているのではないかと推察する。
西暦190~230年年頃・・・この間にイスラエルの支族の末裔達・伊邪那岐命・伊邪那美命の連合軍が四国から北九州を中心に侵略、北九州筑紫に都を構える。イスラエルの神`ヤハウエの神の子'と言う意味の`ヤァ・ウマトゥ'から自らをヤマトと名乗る。(魏志倭人伝はこのヤマトに漢字を当て邪馬台国と記した)
他の支族も出雲や越の国を侵略。
西暦240年頃・・・伊邪那岐命の時代に瀬戸内までその勢力範囲とした後、国を天照大神(卑弥呼)に任せる。(魏志倭人伝は倭国が乱れたので、卑弥呼を女王として立て国が治まったとし、239年に魏の国は卑弥呼に‘親魏倭王’の金印を与えたと記されている)
西暦248年・・・・天照大神(卑弥呼)、素戔鳴尊(狗奴国)との戦いに敗れ北九州・筑紫の都を捨て、宮崎県の高千穂峡の山中に隠れる。魏志倭人伝は卑弥呼の死を伝えているが、古事記はこれを天岩戸騒動として表わした。天照一族はこの高千穂峡を拠点として政治を行った。高千穂峡(霧島の高千穂の峰ではない)には、天岩戸神社他古事記の記述に沿った旧跡が多いことから推理した。
西暦250年頃・・・天照大神天岩戸から甦る。ここでは天照二世とする。(魏志はこれを卑弥呼の宗女・台与が13歳で女王を継ぐと残している)二世はスサノオとの戦いに勝ち、スサノオを追放した後も、高千穂を拠点として政をした。この時代に古事記の国譲りで有名な出雲の国と戦い、天孫族(邪馬台国)の属国とした。この台与の記述を最後に中国の歴史書から倭国に関する記述が消える。
西暦260年頃・・・天照二世の子(台予の子)天忍穂耳命に政権を譲る。命は引き続き高千穂を都として政をした。
西暦270年頃・・・天照(二世)の孫、天忍穂耳命の子・ニニギノ命に政権を譲る。天孫降臨である。天孫降臨の地を霧島の高千穂の峰とした理由は次のように考えている。ニニギノ命は高千穂峡に生まれた。古事記の作成時に、ニニギの命を天孫として降臨する筋書きが出来たとき、降臨する地は高千穂という名を使うこととし、降臨するにふさわしい景観・雰囲気を持っている場所を探す必要があった。あまり高千穂峡から離れていても都合が悪い。そこで神が降りるに最も相応しい地として霧島の峰が選ばれた。一度訪れた方はこの意味が理解いただけると思う。訪れた事のない方のために簡単に説明しよう。沢山の火山性の山が重なり、多くの火口が月の世界を思わせる。正に神が降臨するに相応しい神秘的な地と言える。高千穂が九州に二箇所あるのはこのためであろう。ニニギノ命は都を高千穂峡から日向の国の笠沙(薩摩半島)に都を移した。この地でニニギノ命は大山津見神の娘・木花咲夜姫と出会い娶る。大山津神は言い換えると陸の神であり、強力な陸軍を持つ一族を意味する。二人の間に海幸彦と山幸彦が生まれる。ニニギの命はこの地に没した。川内市の可愛山上陵がニニギノ命の墓とされている。川内市は笠沙の岬から50キロ北にある。
西暦280年頃・・・山幸彦は兄海幸彦との戦いに、海の神(対馬の安曇一族)を味方につけ、兄と隼人族を破り、山幸彦(火遠理命)が政権を握る。この時点で山幸彦には妻・豊珠姫の父・綿津身の神(海神)安曇族と、兄・海幸彦に従っていた隼人族の二つの強力な水軍を得る。この話の詳細は拙著のブログ7/30付けの‘山幸彦の戦略’を参照されたい。父の代に味方にした大山津神・陸軍とあわせ強力な軍備を備えた事を意味する。山幸彦の御陵は霧島の高千穂の峰の東、蛤良郡溝辺町に有る事から、都を笠沙から現在の鹿児島空港付近に移したのではないかと考えられる。妻・豊珠姫が鵜葦草葺不合命(鵜命と略す)、神武天皇の父を産む。
西暦290年頃・・・鵜命の治世。鵜戸神宮や宮崎神宮などから鵜命は宮崎県の海岸線、現在の西都市辺りに都を移したと考えられる。ニニギノ命から鵜命までを日向三代と呼んでいる。(古くは薩摩半島を含め日向と呼んでいた)
西暦300年頃・・・鵜命の子・カム・ヤマト・イワレビコ・ミコト(後の神武天皇)の東征が始まる。日向三代で二つの水軍と陸軍を従えていたことが、東征の動機につながったのであろう。16年余をかけて難波に至り、那賀須泥彦彦を倒し都を構え、都の名をヤマトとした。後に大和(大倭の倭の字を和に変えた)という字が当てられる。
 古事記の‘国生み’を‘国取り’と解釈すれば、天孫族(邪馬台国)は伊邪那岐命から天照大神の時代に、四国、北九州、瀬戸内、出雲をその支配下に治めた。その後日向三代が、抵抗勢力であった熊襲や隼人などの南九州の反抗部族を改めて従え、天孫族(邪馬台国)が西日本を代表する王家となった。そして神武天皇が東の良き国を目指すまでが古事記の神代の物語として記述されたのではないだろうか。
 これが先のブログで神武天皇の治世開始を西暦300年頃とした、空白の200年を埋める仮想の倭国の歴史である。神武天皇以降、有史の天皇といわれる第15代応神天皇までの時間を、応神天皇から第50代桓武天皇までの平均治世期間10年と同じとして約140年を加えれば、応神天皇在位時期は西暦440年頃となり、空白の日本の古代史は無事埋まった事になる。