倭国、大和国とヘブライ王国

ヤマトとはヘブライ王国の神・ヤハウエの民を意味するヘブライ語‘ヤァ・ウマトゥ’が変化したものであろう

‘高天原’を何故‘天の高原’としなかったのか?

2007-02-24 00:44:20 | 歴史
 前回伊邪那岐命と伊邪那美命の話をした。二柱の神が生んだ神々が住んでいた所を高天原と呼ぶ。
現在最も惹かれている古代史の権威・安本美典先生の「邪馬台国と高天原の伝承」を読み終えた。安本氏の著作はどれも豊富な資料、裏付け調査など非常に説得力に富み、他の古代史の本とは一味違い、読者を安本ワールドに引き込む強い力を持っている。
安本先生は‘邪馬台国九州論者’であり、‘卑弥呼は天照大御神’であるという説を展開している。ここから「天照大御神の住んでいた高天原は、卑弥呼の住んでいた邪馬台国を意味している」と言う論旨でこの本を纏めている。話の詳細は本を読んでいただく事にして大略の流れを紹介したい。
先ず現在の高天原論争を紹介している。大きな分類として1.天上説、2.海外説、3.国内説を紹介し、その国内説を更に1、大和説、2.九州説、3.その他の国内説を順次紹介し、氏の持論である邪馬台国九州論から、高天原は九州であったという説を展開する一方、他の説を詳しい資料を基に論破してゆく。
氏の古代史謎解きの基本的な考えは、「魏志倭人伝」などの外国の歴史書と共に、記紀などの日本の古文書の神話の部分に光を当て、「神話は史実が表現を変えて伝えられたもの」と言う考えの下、これに考古学の成果を加えて読み解く方法を取っている。私もこれまでのブログで、正にこの考えで物語を進めてきたので読んでいてうなずく事ばかりである。
高天原に出てくる地名が、邪馬台国=甘木市(福岡県)の近辺に多く見られることから、高天原=邪馬台国は北九州に有ったという考えには賛同する。しかし肝心の高天原に相当する地名が示されていない事と、架空の名であるなら何故高天原と言う名を付けたかの説明が欲しかった。最も大事な神達の住む所の名の由来についての説明がないのが残念である。
私は予てより`高天原'は何故`天の高原'としなかったのか?と言う素朴な疑問がある。そしてこの疑問を語った本に一度もお目にかかったことがないのも、また不思議である。この疑問を持ったきっかけは、古事記の高天原に出てくる地名や物の頭に(勿論神の名も含む)殆ど"天の~~"と付くのに、その元になる神達の住む所だけが"天"を冠せず"高天原"としたのかと言う疑問だ。ここには`天の高原'とせず`高天原'とした強い意志が感じられてならない。
具体的な例を述べておく。天の安の河、天の真名井、天の安河原、天の岩戸、天の沼矛、天の浮橋、天の御柱、天の香具山、天の朱桜・・・。
今一つは神の住むところは一般的には山で有る。何故‘原’としたのかと言う疑問だ。古事記の高天原には前述の‘天の香具山’や‘天の安河’など山や川があり、とても‘原っぱ’と言う感じではない。
ここに答えがある。
私のブログのテーマは「大和民族はイスラエルの失われた十支族の末裔である」と言う物語である。イスラエル人の祖となった人物の名をアブラハムと言う。アブラハムはこのブログの諏訪大社の御頭祭の物語で記した、イサクの父である。このアブラハムの生まれたところの名が`タガマ・ハラン'と言う。タガマハラン~タカマハラ~タカマガハラ~高天原。似すぎていないであろうか。
私のテーマに従えば、古事記を編集した大和朝廷は、自分達の先祖の出身地を何とか古事記の中に納めたかったのであろう。私が大和朝廷にいたらそうする。
大和朝廷は邪馬台国が東遷した王朝である。当然その王朝の誕生の秘話を神話化して伝え残そうとした時、邪馬台国の女王・卑弥呼を天照大御神に設定したであろう。そして邪馬台国を神話の世界に当てはめるために、大和一族・イスラエルの支族の先祖の生まれた地・タガマ・ハランを記録に留めたいと考えるのは、至極当然のことと思える。
こうして『高天原』と言う名が生まれたのではないかと考えている。




伊邪那岐命と伊邪那美命のその後

2007-02-16 00:23:42 | 歴史
 伊邪那岐命と伊邪那美命が別れ、夫々の国を造る事になるがどのような国造をしていったのであろうか。
別れの時交わした二柱の神の言葉は、伊邪那美命が「汝の国の人草、一日に千頭絞めり殺さむ」と言い、伊邪那岐命が「汝然為ば、吾一日に千五百の産屋を立てむ」であった。これは夫々が軍拡をする意味と解釈できる。
伊邪那美命の軍拡の模様は古事記には何も書かれていないが、伊邪那岐命はその後次々に神を生んでゆく。伊邪那岐命が筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原で禊を行い、身に着ける物から12柱の神を生むとしている。更に川に入って身を清める時に14柱の神が次々と生まれる。そしてこの14柱の神の中には有名な海の神・綿津見神(水軍と解釈出来る)を生んでいることからも、軍拡である事が読み取れる。そして14柱の神の最後に、天照大御神と素戔鳴尊が生まれる。
この多くの神を生んだ日向とは、現在の宮崎の日向ではないような気がする。古事記があえて筑紫の日向としていることから、筑紫(現在の福岡県と佐賀県)の何処かに日向と言う地名があったのではないかと考えている。
先月の14日付の私のブログ「イスラエルの失われた支族の日向の国取り」で、天孫族が日向を手に入れたのは、ニニギノ命の時代になってからと言う説を述べた。
従ってこの伊邪那岐命の神生みをする日向とは、筑紫の国の何処かに有る日向を意味していると考える。実際に地図を調べてみると、”日向神峡”という渓谷が福岡県に有る。伊邪那岐命が「筑紫の日向の川で禊をした時に神が生まれた」としていることから、この日向神峡を指しているのではないだろうか。‘日向’と‘神’が一体となって‘日向神’峡と成っているところから、ここが禊をした川と考えても可笑しくはない。
地図の上での‘日向神峡'の位置を説明しておく。筑紫平野の南、筑肥山地と名づけられた山の中で、直ぐ南に`国見山'と言う山があるのも意味深であり、更に南に行くと、天岩戸神社、高千穂町が近いことが、神話が史実を基にしている事を感じさせる。
これらの神生みの話で最も不自然な事は、伊邪那岐命が一人で生んだ神々でありながら、その神の中の素戔鳴尊が「母伊邪那美命の国・根の堅州国に帰りたい」といって泣く話である。伊邪那岐命と伊邪那美命が別れた後に生まれた子でありながら、素戔鳴尊は伊邪那美命の子と言う。
この矛盾も私の仮説「伊邪那岐命と伊邪那美命は夫婦ではなく、共に戦う両巨頭であった」という視点から見れば解く事が出来る。即ち、素戔鳴尊は、元々のボスである伊邪那美命が、政争に敗れて出雲へ帰ってしまったため、天孫族の中で浮いていた。伊邪那岐命は政敵・伊邪那美命の派閥出身である素戔鳴尊に対し「汝命は、海原を知らせ」と左遷の命を出す。この処遇に不満を感じた素戔鳴尊は「伊邪那美命のいる国へ帰りたい」と言う要求を出した事から、根の堅州国(出雲)へ追放される。
一方、伊邪那美命については出雲に戻ってからの記述は無い。国造が上手く行かず、軍拡どころではなかったのであろう。出雲が乱れていた事は、素戔鳴尊が出雲に帰った時、八岐大蛇が出雲の国を蹂躙していた事からも推察できる。
古事記は、伊邪那岐命が素戔鳴尊に左遷の命を下した後、「淡海の多賀に座した」と記している。古事記の注記には淡海を‘近江'又は‘淡路’としている。私は‘伊邪那岐命が始めて日本に上陸したのは淡路島である’という仮説を展開しているので、淡路島に座したと解釈する。淡路島には伊邪那岐神宮がある。
私は常々日本を御造りになった伊邪那岐命を祭る神社が、日本の中で最も格式の高い神社とすべきではないかと言う思いがある。しかし現実は伊邪那岐命の子・天照大御神を祭る伊勢神宮が一番上で、草薙の剣が祭られる熱田神宮がその次とされる。更に宇佐神宮、霧島神宮など伊邪那岐命神宮より格上と見える神社が多いのは何故なのであろうか。何れ答えを出したいと思っている。
伊邪那岐命が淡路に去り、伊邪那美命が出雲に去り、両雄の治めていた時代が終わり、高天原が天照大御神の時代に移ってゆく。古事記は次の「天岩戸騒動」へと続いていく。

国生みの秘密(4)

2007-02-05 00:20:57 | 歴史
 伊邪那岐命と伊邪那美命の国生みの話を続ける。
「伊邪那岐命と伊邪那美命はイスラエルから行動を共にしてきた戦友・両巨頭であった」という仮説を述べた。しかし安本美典先生の著書「邪馬台国と出雲神話」を読んでいたときに、`スサノオの子・大屋彦神が紀の国を開いたという話から、‘伊邪那岐命、伊邪那美命はイスラエルから一緒だったのではなく、淡路島で始めて出会ったのではないか!’と言う新しい仮説が浮かんできた。それは‘出雲を切り開いたのは伊邪那美命だったのではないか’と言う考えだ。少し詳しく説明しよう。
古事記では出雲を造ったのは、スサノオとしている。一方古事記は「沢山の神を生んだ伊邪那美命が、最後に火之迦具土神を生んだ事により亡くなり、出雲の国と伯伎(ははきの)国との境の比婆山に葬られた」と記し、その国の名は`黄泉の国'としている。更に伊邪那岐命と伊邪那美命の最期の別れの場となる地を、古事記は「その所謂黄泉比良坂は、いま、出雲国の伊賦夜坂と謂う」と述べている。
伊邪那岐命がこれほど出雲と深い関係にあると言う事を俗ぽく考えれば、出雲出身と考えるのが自然である。
またスサノヲが「死んだ伊邪那美命に会いに根の堅州国に行きたい」といって泣くのに怒った伊邪那岐命が、「然らば汝はこの国(高天原)に住むべからず」として根の堅州国へ追放している記述から黄泉の国、出雲、根の国が複雑に繋がっている事が推察できる。
これらの関係については既に2006-2-16付け「根の国について考える」の中で「根の国=根の堅州国=黄泉の国=朝鮮」と言う考えを述べ、その理由を二つ挙げた。
一つは大国主命が八十神の迫害に紀の国の大屋彦神を頼って逃げたが、八十神がそこまで追ってきたため、更に遠いスサノオの住む‘根の堅州国’へ逃げる話がある。出雲から紀の国まで追ってきた神から逃れるために、紀の国より更に遠い国とは何処かを考えた時、当時の地理的状況から言って朝鮮が最も妥当である。根の国・黄泉の国を出雲と考えると、敵の待っているところに帰る事になり矛盾が生じる。
二つは日本書紀の中に「スサノオはその子・五十猛命を率いて新羅の国に降った。そこから舟で東に渡って出雲の肥の国河上の鳥上の峰に至った」と言う記述からも、スサノオが朝鮮・新羅と深い繋がりがあることが読み取れる。
この二つに最近の知見を加える。安田美典先生の「邪馬台国と出雲神話」の中に「`先代旧事本紀'と‘本居宣長の‘古事記伝'の中に大屋彦神は五十猛命同一神である」と述べていることから、大国主命が頼っていった紀の国の大屋彦神とはスサノオの子・五十猛命ということになる。そして同著書の中の第一章・伊邪那美命の神話’の中で、「出雲の国と紀の国には同一の地名が沢山ある。これは出雲から紀の国に移動した一族がいる事を示している」という考えを述べ、以下の例を挙げている‘熊野、美穂、粟島、速玉神社、伊達神社、加多神社'が一部当て字が異なるが紀の国にも有るとしている。確かに安本先生は記していないが紀州にあるあの有名な那智の滝が出雲にもあり、どちらも熊野神社の裏山に位置している。
話が大分広がったので整理したい。伊邪那岐命が黒潮に乗って淡路島に辿り着くよりかなり以前に、伊邪那美命は朝鮮~隠岐島を経て出雲に入っていた。伊邪那美命は出雲から東へ進み、因幡、大和を経て、木(紀)の国にもその勢力範囲を広げ紀の国の国造りをしていた。その頃同じ‘イスラエルの失われた支族’である伊邪那岐命が、淡路島を攻略した事を知る。紀の国にいた伊邪那美命は伊邪那岐命と合流し、四国から九州へ、その侵略範囲を広げて行った。九州で邪馬台国の基礎を造った時点で伊邪那岐命と伊邪那美命はその後の戦略に食い違いが生じ、伊邪那美命は自分の国・出雲に引き上げる。その後伊邪那岐命系の天照大御神と伊邪那美命系のスサノオが争う事になり、スサノオが負けて伊邪那美命の造った出雲の国に帰った。しかし国は賊(八岐大蛇)のために乱れていたが、スサノオの知力と武力で賊を退治し、再び元の平和な出雲に戻した。後に出雲は大国主命が治める事になり、五十猛命が紀の国を治めた。一時大国主命は八十神の迫害を受け、五十猛命を頼って紀州へ落ちたが、再び追われてスサノオを頼って根の国・朝鮮・新羅へ逃げた。その後天照大神率いる天孫族(邪馬台国)が、大国主命の出雲の国を取る話(国譲り)へと続くが、実はこの二国の争いは既に伊邪那岐命、伊邪那美命の時代から始まっていたのだ。
このように考えると、今まで何の脈絡もなかった夫々の物語が見事に繋がり、イスラエルの失われた支族による古代倭国侵略の壮大なスペクタクルがいよいよ姿を現してきた。