倭国、大和国とヘブライ王国

ヤマトとはヘブライ王国の神・ヤハウエの民を意味するヘブライ語‘ヤァ・ウマトゥ’が変化したものであろう

山陰道について

2006-05-27 20:12:56 | 歴史
 天橋立と元伊勢籠神社を見た後、出雲大社に向かう途中、豊岡市の出石町に寄った。この町は小さい町ながら但馬の国の小京都と呼ばれ、碁盤上の町並みが今も往時の風情を宿している。町は蕎麦が美味しい事で知られており、立ち寄ったのが朝早くであったため、ほんの一口、わんこそばのように戴いただけであったが、噂どおり美味しい蕎麦であった。町にはその名が全国区の沢庵和尚が再興した宗鏡寺があったが、私の興味はお寺より神社である。
出石町には但馬の国・一ノ宮で、天日槍命を御祭神とする出石神社があった。天日槍命は朝鮮半島の新羅の国からこの但馬の国に渡来し、この地を開拓した命として伝えられている。全国隅々まで探しても、渡来した神である事がはっきり語られている一ノ宮はこの神社だけだと言う。渡来時期も第12代垂仁天皇3年と明確に記されている。「播磨風土記」には「大国主命と土地争いをした」されている事から考えると、垂仁天皇の頃に来た渡来人は天日槍命ではなく、その末裔かも知れない。
この出石神社の歴史を見ても、私が再三述べてきたように、山陰道と朝鮮の係わり合いの深さが読み取れる。
豊岡市から鳥取の砂丘を見ながら出雲に向かったが、このバスの旅で一番驚いた事は、太平洋側と比べて鉄道と国道に大きな差があることである。一桁の国道が往復二車線と言うのは、4号線や6号線の一部にもあるが、JRの幹線が単線と言うのは他に無いのではないか。鳥取市で日本海に出た1車線の国道9号線は、単線の山陰本線と平行しながら出雲まで走る。勿論高速道路も新幹線も走っていない。
私は長い間新潟で暮らしていたから、山陰道のこの景色が北陸から東北の日本海側と比べ、大分違う事が解る。しかしバスガイドから島根県と鳥取県の人口を聞いてある程度納得した。鳥取県が60万人、島根県が70万人であった。ちなみに新潟県は250万人である。大国主命の時代、出雲王国が倭国のかなりの範囲に覇権を及ぼしていた時代があった事を思うと寂しい現実である。
長々と山陰道の寂しさを書いてきたのには訳がある。私はサラリーマン時代、大きな土木工事を伴う仕事に参加してきた。土木工事とは大きな掘削工事が伴うため、何回か遺跡と対面している。大規模な土木工事ほど、大きな遺跡に当たる確率は高い。青森の三内丸山も大スタジアムの建設工事の現場からの発掘であり、その結果スタジアムの建設は中止された。広域にわたる土木工事程、遺跡に当たる確率が高くなる。その代表が、道路工事と鉄道工事であるが、山陰道にはそれが無いのである。山陰道からあまり古代遺跡は発掘されていない理由は、ここにあるのではないだろうか。言い換えると道路や鉄道のような大規模工事が山陰で実施されれば、新たにかなりの遺跡が発掘され、日本の古代史がひっくり返るような可能性があるということである。
これまで大国主命の覇権は山陰道から北陸道、越の国、更に信濃から関東に及んでいたと言う説を展開してきた。前回の元伊勢籠神社の御祭神が大国主命の御子であったと伝える別伝が在り、ここに紹介した出石神社の御祭神・天日槍命は‘大国主命と土地の争いをした’と伝えられている。
小泉行革により高速道路の建設にブレーキが掛かったので、山陰地方の古代の遺跡は当分姿を現さないかもしれない。小泉行革には賛成だが、山陰道の古代文化に興味の有る身にとっては、新たな遺跡の発掘の可能性がなくなると言うジレンマに陥っている。しかしこれからの山陰道の発展により、大規模工事が増え、何かが発掘される事を期待したい。

不思議の社‘元伊勢籠神社'

2006-05-20 23:47:31 | 歴史
 出雲大社参拝の折、天橋立に立ち寄った。丁度満開の桜の時期と重なり、松の緑、宮津湾の海の青さもあって、日本三景の名に恥じない美しさであった。しかし勉強不足で、天橋立が、日本古代の神話と関係ある名所とは知らなかった。ガイドの説明によれば、「伊邪那岐命は籠宮にいた伊邪那美命に会うために、高天原からこの宮津に梯子を降ろした。その梯子が倒れて宮津湾に横たわり天橋立になった」と言う事であった。説明の後、伊邪那美命が御鎮座しておられた籠宮(現在の元伊勢籠神社)を参拝した。こちらも勉強不足で、「天照大神が伊勢に来る前にここに鎮座していたので‘元伊勢'と言う」事くらいしか知らなかったが、社務所で買った御由緒略記を読んでビックリした。
「籠神社はかって山陰八国を代表する官幣大社で、最高位の正一位の位を賜っていた」と書かれていた。あの出雲大社ですら正二位である。読み進んでいくと更に驚きが続く。天照大神の話から元伊勢と呼ばれ、江戸時代の頃は‘お陰参り'の行列が天橋立を埋め尽くしたと言う。その様子を民謡で次の様に歌われた。
 ‘伊勢に参らば 元伊勢参れ 元伊勢伊勢の故郷じゃ 伊勢の神風海山越えて 天橋立吹き渡る’
驚きはこれで止まらない。籠神社からは国宝が二つ出ている。一つは雪舟の描いた「天橋立図」(京都国立博物館所蔵)、いま一つは「海部氏家系図」である。特にこの海部氏家系図が只者ではない。この家系図は昭和51年に現存する日本最古の家系図として国宝に指定されているもので、海部氏の始祖・彦火明命から現在の宮司までなんと82代、2000年の歴史を途切れることなく示しており、特に当主の事跡だけではなく、兄弟の傍系に至るまで詳細な記述がされていると言う。中には他の古記録には失われている古代の貴重な伝承も含まれていると言われ、今考古学会で注目を集めていると言う。確かにこの海部氏家系図の話は、以前読んだ本の中に「これら全ての伝承が白日の本になると、日本の古代史がひっくり返る」と書いてあったような覚えがある。天皇家の2600年、出雲大社の千家とこの海部家が、2000年の時の流れを今に引き継いでいることは、ただただ驚きでしかない。伊勢神宮、熱田神宮など他の歴史のある神社の宮司も、皆同じような歴史を刻んでいると想像される。不思議の国、‘日本'である。
 紹介が遅くなったが元伊勢籠神社の御祭神は海部家始祖の彦火明命であり、天照大御神の御子の一人である。御由緒略記はこの命の別名を、饒速日命であるとし次に驚くべき事が書いてあった。それは別伝に曰くとして「大汝命(大国主命の事)の御子である」と書かれているのだ。
この二つの事から私が長く頭から離れない謎が解けた。その謎とは「大和の地の神の山・三輪山に何故出雲の主・大物主神(大国主命と言われている)が祭られているのか?」と言う疑問だ。大和朝廷は大国主命の怨霊を恐れ、出雲大社に封印したほどなのに、何故大和王朝の神聖なる三輪山にその怨霊を祭っているのか。この疑問は私だけではなく、古代史に興味を持つ者の共通の疑問ではないだろうか。
日本書紀には饒速日命は天の磐船に乗って難波に降臨したとしている。難波の王・那賀須泥彦の娘を娶り、入り婿として実質難波の国を治めていた。そして神武天皇との戦いに敗れ、以後物部氏と名乗り(古事記)天孫族に仕えたと書かれている。
籠神社の御由緒略記には饒速日命は大和国および河内、丹波(丹後)に降臨し、丹波国造りの祖となったと書かれている。
記紀と御由緒略記を重ね、私が考えた三輪山の大物主神の物語は以下の通りである。「出雲を後にした饒速日命は、丹波の宮津湾に上陸した。ここを拠点として力を蓄え畿内に攻め入った。那賀須泥彦は思いのほか強く、戦いが長引く。最後は政略結婚という手段で那賀須泥彦の娘を娶り、娘婿として難波の王と成った。饒速日命の治世は民にも認められ、その名は九州・日向の神武天皇まで聞こえるほどであった。その後故郷の出雲が天孫族の手に落ち、父大国主命(大物主神)が無念の死を遂げた事を聞く。弔い合戦に及ぶほどの国力は無かったので、戦いを諦め、大和の三輪山に大物主神を祭り、父を偲んだ。大神神社である。その後神武天皇がこの地を攻めてきた時、難波の軍の猛攻に一度は退いたのは、饒速日命が父の恨みを果たすべく、果敢に戦ったからと考えると理解できる。神武天皇は難波(大和)を征服した後、三輪山の大国主命の対応に苦慮したが、出雲大社に厚く祭ったように、大国主命を他に移すことは民の反応を考えると為政上も得策ではないと判断し、そのまま三輪山の主として祭り続けた」。
このような仮説を立ててみると、大和の聖地・三輪山に出雲王国の王・大国主命が祭られていることに納得がいく。
又私の持論に結びつけると、出雲族の傍系となる饒速日命・物部氏も、イスラエルの失われた十支族のうちの一部族であると考えられる。
最後になったが籠神社の名の由来は彦火明命が‘籠’舟に乗って、海神の宮に行った話に由来すると述べられている。これも一寸引っかかるがこの次にしたい。

封印された大国主命

2006-05-14 00:52:39 | 歴史
 出雲大社参拝の折、一番印象に残ったのは、神楽殿と拝殿の巨大な注連縄であった。インターネットで注連縄について調べてみた。
「注連縄は古事記の天の岩戸騒動で、天照大神が洞窟から出てきた時、二度とそこへ戻れぬようにその入り口に張った縄を‘尻久米縄’と呼び、それが注連縄の始まりである」と書かれていた。そしてその目的について「一本の縄が境界を示し、占有の印、清浄・神聖な場所を区画する、立ち入りを禁止する意」として、各地の色々な注連縄が紹介されていた。その中で一際目立ったのが、やはり出雲大社の注連縄であった。神楽殿の注連縄は長さ13M、重さ8Tと紹介されていた。圧倒的な迫力である。拝殿の注連縄は一回り小さいがそれでも長さ8Mに及ぶ。次の説明文に目が止まった。「出雲大社の注連縄の向きは他の神社と逆で、左が本で、右が末になっている」と書かれていた。
インターネットの説明はこれで終わっているが、私にはこれが大変な意味を持つと直感した。それは注連縄を逆に張った理由が、大国主命を二度とこの世に出さないためではないかと思ったからである。普通の神社の御祭神は、注連縄によって縛られていない。それは次の習慣で説明できる。工事現場で安全祈願の式典を行う時、神主が「降神の儀」と称して神に現場までご来臨戴き式を進め、終わると「昇神の儀」で神を神社に御送りしている。
天孫族は大国主命が二度とこの世に出てこられないように、注連縄を逆に張ったと考えられないか。それだけでは心配で、巨大な注連縄にして大国主命の強い霊力を遮断したのではないかと考えられる。更に永遠にその意思を引き継ぐため、出雲大社の宮司は代々天照大神の子・天穂比神の末裔・千家が勤めていると考える事ができる。現在の宮司は神代の時代から数えて84代目と言う。
それでは天孫族は何故それまでして、大国主命を封印したかったのだろうか。古事記では建御雷神と建御名方神の争いはあったが、大国主命とは話し合いで国譲りが行われた事になっている。しかしその事実は前述のような注連縄を使って、閉じ込めなければならないほど、大国主命の霊は怨霊になっていたのではないだろうか。それは大国主命が怨霊になるような、卑怯な戦術が使われたか、残忍な手段で殺されたと考えれば納得が行く。
井沢元彦氏の大作「逆説の日本史1・古代黎明期」にも同様な記述があり、この考えが異端な物でない事に安堵した。井沢氏は注連縄の話に続け、出雲大社の本殿の中に祭られた御祭神について述べている。それは「大国主命は西を向いて祭られ、その西に古事記の別天津神五神として登場する神達が、正面を向いて祭られている」と記述している。その意図を「参拝客が大国主命を参拝しているつもりが、実はその五神を拝む事になるようにした」としている。私もその考えには共感するが、更に井沢氏は、五柱の神は大国主命がこの世に出る事を防ぐための、見張りの役目も持っていると言う。大国主命の強い霊力を抑えるためには、天地創造の神達を総出演させる必要があったのであろう。それほど大国主命の怨霊は強かったと言える。
古事記の中では、天孫族が大国主命の言うがままに、壮大な社を造りそこに祭ったとしている。しかし私は先に天孫族が出雲を治めるに際し、出雲の民達の大国主命に対する敬慕の気持があまりにも大きいので、民の反発を恐れ、政の意味から大きな社を築いたと説明してきた。民は大きな社の建設により、大国主命が強い怨霊に成っている事を知るすべも無く、天孫族に支配される事を渋々納得したのであろう。一般の神社では二拍するのを‘幸せ・四合わせ’の四と教わり、四拍して参拝した。実は大国主命に死(四)を宣告するための‘四拍’(出雲大社は二礼四拍一礼)とも知らずに・・。

不思議の島「沖ノ島」

2006-05-05 23:50:44 | 歴史
 北九州、宗像市の沖60キロの玄界灘の荒海の中に、周囲4キロの小さな孤島がある。ここに沖津宮という神社があり、多紀理姫が御祭神として祭られている。この神は天照大神とスサノオの‘天の安河原の誓約’のときに生まれた、三柱の女神の一人である。この三神は宗像三神としても有名で、昔から海上交通安全の神として祭られている。多紀理姫は、古事記の出雲の物語で大国主命に嫁いだとされている。沖の島はその小さな島に係わらず、4世紀から10世紀に跨る国宝、重要文化財が、なんと12万点も発掘されていることでも知られ、海の正倉院と呼ばれている。
このブログのタイトルを「不思議の島」とした理由は、地図にも載らないような小さな島、小さいだけでなく、陸から60キロも離れ、周辺にも全く島影が見えない孤島に、何故12万点にも及ぶ国宝・重文が出たのか??と言う驚きからである。ちなみに関東地方に置き換えると、伊豆の下田から神津島くらいの距離である。日本海が穏やかなのは夏の間だけで、特に10月から4月の半年は荒海が続く。その孤島へ手漕ぎか帆船かは定かでないが、運が悪ければその途中に遭難してしまう。
かなり有名な一ノ宮を訪ねても国宝が有るのは珍しく、せいぜい重文が宝物殿に飾られているのが実情である。国宝とは重要文化財の中で、国が特に貴重と判断したもので、一寸データが古いが、1970年代の国宝の数は1000点であった。現在上野で開かれている「最澄と天台宗の国宝」展で展示されている国宝が31件、重文が100点と発表されている。沖ノ島の国宝と重文の比率は解らないが、日本の全ての国宝の数が1000点と考えると、異常な数と言えるのではないだろうか。
先日千葉県佐原市にある「国立歴史民俗博物館」へ行ってきた。そこで再び沖ノ島が‘不思議の島’である事を再確認した。
この博物館は日本の歴史・民族の全ての時代のものを、五つの区画に分けて展示している。その第一展示室が縄文時代から律令国家までとして、様々な物を展示している。この第一展示室の一割のスペースを占有して、「沖ノ島」と言うコーナーがあったのだ。私が手もとに置いている2001年発行の「日本史総合図鑑」の何処を開いても「沖ノ島」に関する記述は無い。
博物館の資料は沖ノ島について次のように説明している。
「玄界灘の孤島沖ノ島には、宗像大社の沖津宮があり、古くから神の島として信仰の対象とされてきた。・・・・・沖ノ島における古代からの祭礼は日本と朝鮮半島或いは中国大陸との海上交通に係わるものであったと想像される。又海外からの移入品を含む各時代の豪華な奉献品から、その祭礼はヤマト王権によって始められたものと考えられる。」としている。別の資料にはその豪華な移入品の中にはペルシャからのものも有ったと記されている。又遺跡からの出土品は鏡、玉類、宝器、武器、工具、馬具、剣などあらゆる品に及ぶとしている。
ここで私の考えを述べたい。国立博物館の説明によると「ヤマト王権が祭礼のために奉納した」としているが、先に述べた地理的条件から考えて現実的ではないと考える。1000年以上も前の時代の航海術で、60キロ沖の小島を往復するのは至難の業である。航海の安全を祈るのであれば、出航前に陸で祭礼を行うのが自然であり、陸にある宗像大社で祈願し、宝物を奉献するのが一般的な見方ではないか。運が悪ければ安全祈願の目的の航海で、遭難してしまうことになる。ペルシャや中国から輸入した大事な宝を、再び孤島に奉献することは、常識からしても到底納得いくものではない。
では何故この沖ノ島から12万点余の国宝・重文が発掘されたのであろうか。
沖ノ島が載っている大きな地図を見ると、舟の流れが想像できる。朝鮮から九州に渡る時は対馬、壱岐島を経由する。これは魏志倭人伝の邪馬台国に至るルートとして有名である。朝鮮から出雲、隠岐に行く時、この沖の島は丁度良い中継点になる。古代、「失われたイスラエルの支族」のある一族は、朝鮮から倭国に渡る時、九州には既に強い勢力があったため(黒潮に乗って倭国へ来た他のイスラエルの支族・天孫族)、それらとの接触を避け一旦沖ノ島に拠点を定めた。後続の一族は沖の島を中継地として隠岐島、出雲の国を目指した。逆に出雲から朝鮮へ行く時も沖の島を経由した。そしてその支族の一部が島に留まり、島を経由する人々の面倒を見るようになった。航海者は、はるばる異国から持ってきた宝を、お礼として沖ノ島の人々に残していった。それらが積もりに積もって12万点に及んだのであろう。
沖ノ島から、質も量も想像を遥かに超えた宝物が、出土した理由、以上のように考えると納得が行くと思うが如何であろうか。
宗像三神に祭られる神がスサノオの子であること、大国主命が沖の島の姫を娶っている事も、これらの歴史の一コマを現しているのではないだろうか。