倭国、大和国とヘブライ王国

ヤマトとはヘブライ王国の神・ヤハウエの民を意味するヘブライ語‘ヤァ・ウマトゥ’が変化したものであろう

国生みの秘密

2005-08-28 14:07:50 | 歴史
 私は常々古事記の国生みの物語で伊邪那岐命と伊邪那美命が最初に創る島が何故淡路島なのかと言う疑問を持っている。私が神なら先ず本州を創り、次が四国と言う順番にすると思うが・・・。
大杉博氏著「古代ユダヤと日本建国の秘密」に記された邪馬台国・四国論を面白く読んだ。是まで私はM・トケイヤー氏の説「失われたイスラエルの支族」が倭国に辿り着いて大和朝廷を作ったという論を紹介し、自分なりの考えを展開してきた。そしてその支族は九州の日向の海岸に最初の一歩を刻んだとして来た。しかし古事記の国生みの物語のなかで、伊邪那岐命と伊邪那美命が最初に淡路島を創ることと、大杉氏の四国論を重ねて考えてみると、何故、淡路島なのかの問いに答えがあるような気がする。
もう一度古事記の国生みを読んでみた。
@ 最初に生める子は比蛭子。この子は葦舟に入れて流し去てき。次に淡島を生みき。こも又この例(たぐい)に入れざりき。
日本書紀の注釈で比蛭子は皇氏の流産を表わしているが、私は伊邪那岐命と伊邪那美命(イスラエルの支族)が最初に侵略する島を何処にすべきかの意見が合わず小さな島(比蛭子)見送ったことを表わしていると見る。次の淡島も小さすぎて拠点にはならなかったのではないか。淡路島の南に小さな島がある。地図では青島(昔は淡島)と言い、島の対面の四国側に淡島神社がある。この島を意味しているのだろうか?
@ 最初の国生みに失敗した後、天ツ神の指導を受け再挑戦して最初に出来た島が淡路島(淡路の穂の狭別島)。次に四国(伊予の二名島)を生みき。この島は身一つにして面四つ(愛媛、讃岐、土佐、阿波)あり。
ここに日本列島最初の国としてなぜか淡路島が生まれる。そして四国が生まれる。これはイスラエルの支族が四国を攻める拠点として先ず淡路島を占領し、体制が整った後、四国全土を占領したと言う史実を表わしていると推測した。紀州側には強い豪族(長須根彦・・後に神武天皇により滅ぼされる)が居た為、先ず四国を目指したと見ている。
@ 次に隠岐の三つ子島を生みき。
四国占領の後何故日本海の孤島の隠岐島を突然攻略したのか。地図を見ると隠岐島の西側に三つの島がある。島の南の本土側は出雲だ。こう解釈したがどうだろう。イスラエルの支族は十支族有った。内一つが淡路島に上陸した。そして別の支族が隠岐の島に上陸して出雲を侵略したと考えられないか。隠岐島を調べてみると島には2000年の歴史を持つ崇神天皇ゆかりの水若酢神社がある。訳有りの島である。
@ 次に筑紫の島を生みき。この島も身一つにして面四つ(筑紫、豊、肥、熊曾)あり。
大和族の話に戻り、四国完全制覇の後、九州を制圧した事を意味していると考えられる。
@次に壱岐の島を生みき。次に津島(対島)を生みき。
この二つの島は九州と朝鮮の間に有る島である。この頃朝鮮側の倭人の管轄下に有った島を、占領したことを表わしているのではないか。
@ 次に佐渡島を生みき。
大和族や出雲族とは別のイスラエルの支族が、東北地方を侵略すべく、淡路島、隠岐島同様、佐渡島を拠点とすべく占領したことを意味しているのではないかと考えられる。
@ 次に大倭豊秋津島を生みき。この八島を先に生めるによりて、大八島国と言う。
この大倭豊秋津島は出雲から越の国までを含む日本海側と(隠岐島と佐渡島を生む物語により出雲地方、越の国を制圧したと考えると辻褄が合う)、瀬戸内の国(今の山陽地方)までの範囲を言い、畿内地方以東は含んでいないと推測している。その理由は畿内は神武東征により大和朝廷に属するのであり、関東地方は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)によって制圧される事が後に語られるからである。これらから大八島国は神武以前の大和朝廷の勢力範囲を示しているものと考えられる。それは即ち初期のイスラエルの支族の占領範囲と推測すると、古事記の国生みの物語の中に隠された歴史が見えてくる。この国生みの時点では九州に拠点を移した大和族と、中国地方を制圧した出雲族が向き合った状態であり、以降の国譲りの出雲神話で大和朝廷の軍門に下る事が物語られるのである。

古事記の国生みの僅かな記述から、壮大な「失われたイスラエル十支族」の倭国侵略の歴史が見えると同時に、この解釈で十支族のうち三支族の動きが見えてきた事になる。残りの七支族の行方も気になり始めた。又これらの新しい解釈からソロモンの秘宝「契約の箱」が四国・剣山中にある可能性が更に深まったと言えないだろうか。


四国について更に考える

2005-08-21 14:03:57 | 歴史
 「古代ユダヤと日本建国の秘密」の著者・大杉博氏は四国の剣山にソロモン王の秘宝・契約の箱が隠されている。そして邪馬台国は四国に在ったと言う。
もう一度古事記を読んでみた。
 古事記‘神代七代’の後の章で、伊邪那岐命と伊邪那美命の国創りが物語られる。最初に比蛭子(ひるこ)を生むが葦舟に入れて流した。次に淡島を生むが、子の例(たぐい)に入らなかった。若かった二人の神は最初の子つくりに失敗したが天つ神の助言を得て改めて子創りに励む。その結果最初に出来た子(島)が淡路島であった。(古事記では淡路の穂の狭別島と表現されている)次に四国(同伊予の二名島)を造った。その後は子(島・国)創りに慣れ次々と子を作り日本列島をお創りになられた。
概略は以上の通りであるがこの短い小節の中に二つの発見がある。
一つ・・・‘比蛭子’を流すのに何故葦舟を使ったのか
一つ・・・失敗の後に最初に創る島が何故淡路島なのか?次に創る島が何故四国だったのだろうか
この二つについて考えてみた。
葦の舟はエジプト、メソポタミア文明など木の文化の無かった中近東の産物ではないのか。木の豊富な倭国で葦舟とは以下にも違和感がある。古代の倭国には丸木舟は無く、舟が造られるほどの立派な葦が群生する川や湖があったとは思えない。
前出の大杉氏は「イスラエルの失われた支族の一部は、シルクロードを使った陸路ではなく、葦の舟(パピルスの舟)を使い、インド洋経由し太平洋に回り黒潮に乗って倭国に辿り着いたのではないか」と言う仮説を立てている。有り得ない話ではない。詳細は忘れたが最近実際に葦の船を作り中近東から日本まで航海した冒険家が居たと言う記憶がある。仮にソウだとすると「‘比蛭子’を葦舟で流す」と言う表現の中に、古事記の作者が葦舟で倭国に入られた一族に近い人だったのではないかという素朴な疑問が湧いてくる。
先に私は神社の建屋の形式について、大社造りとその他に分けた。そして大社造りが東南アジアの古い建屋の形式に似ていることから、「伊勢神宮(大社造り)の天孫族と出雲大社の出雲族は船で東南アジア経由で九州・日向の海岸に辿り着いたのではないかと考えている」と述べた。しかし大杉氏の四国高天原説を基に古事記を読み直してみると、失われたイスラエルの支族が最初に辿り着いたのは九州ではなく淡路島だったのではないかと言う考えに惹きつけられる。そしてイスラエルの支族は淡路島から四国へ移動し、吉野川を遡り剣山へ向かったと言う考えが、この国創りで、‘淡路島の次に四国を生んだ’と言う物語として記述したのではないかと想像できる。
淡路島には「伊邪那岐神宮」があり、一ノ宮として地元の人の信望を集めているが決して全国区的な神社ではない。何度も言ってきたがわが国の最高の神社は伊勢神宮である。ここに一つの疑問が湧いてくる。それは、日本国を創った神・伊邪那岐命を最も位が高い神として祭るのが自然であり、なぜ天照大神が伊邪那岐命を超えて伊勢神宮に最高神として祭られているかを次の様に考えた。
古事記編纂にあたり天武天皇は稗田阿礼に対し「倭国に最初にたどり着いた‘イスラエルの失われた支族’の祖である伊邪那岐命は旧約聖書を基に重要な神と位置付けて物語せよ。しかし物語は、四国の剣山に‘契約の箱’があることを隠すために、祖は九州にたどり着いた様に脚色するが、実際に最初に辿り着いた淡路島を国創りの最初の島として古事記に残せ。この国を征服したのは天照大神を祖としたヤマト一族であるので、神の位としては天照大神を最高神として物語を纏めよ」、とこのように指示したと考えることは出来ないだろうか?
いずれにしろ神代の時代に、日本の島々が生まれる時、「最初に生まれるのが何故淡路島だったのか?」は深く考える必要がある。






空海とソロモン王の秘宝

2005-08-13 12:27:04 | 歴史
 司馬遼太郎は氏の著「空海の風景」の中で「空海は日本史上並ぶものなき天才である。世界に目を広げてもあのルネッサンスのレオナルド・ダ・ビンチに並ぶかそれ以上の天才である」と述べている。
空海は四国・讃岐の国の豪族 佐伯氏の家に生まれた。天才空海は地方豪族の子弟としては異例の扱いで朝廷の大学で学んだ。その後大学を中退し、四国の山中に篭り、「虚空蔵求聞持法(この法を習得したものは全ての経典の文句を暗記、理解できるようになる)」、を習得した。その力であらゆる経典を読破したが、「大日経」を理解する事が出来ず、唐に渡って学ぶ以外に方法がないと決意し、遣唐使に私費留学生として加わった。この時同じ遣唐船に乗っていたのが国費留学生・最澄であった。
唐の国で遺憾なく天才振りを発揮し、2年で密教を修め、師・恵果和尚より「わが師、不空の再来である」と言われ第8代の宗祖として認められ「偏照金剛」と言う法号を得た。恵果の弟子たちは認められず、以後中国において密教は途絶えてしまう。この一事で空海の天才振りが証明される。帰国後、天台宗の最澄をしのぎ、時の嵯峨天皇から厚く迎えられ、高野山に金剛峰寺を開いた。その後も日本各地に数々の業績を残し、835年62歳で入廷(死ぬこと)した。死後87年経ったとき醍醐天皇が改めてその業績を認め、空海に弘法太子(大師では無い念のため)と言う尊称を与えた。長い日本の歴史の中で太子の称号を得たのは今一人、聖徳太子のみである。
空海について簡潔に説明したが、これから展開する話の中で大事なのは次の3点である。
一つは・・空海は四国・讃岐生まれで四国全土で修行した。
一つは・・唐に渡って修行した。
一つは・・嵯峨天皇と非常に親しかった。
この3点について順に説明する。
四国の古い豪族の出身であるということは、剣山・剣神社の「契約の箱・ソロモン王の秘宝」の言い伝えを聞いていた可能性があると想像できる。更に四国全土を回って修行する間にこの秘宝に関する噂を各地で耳にしたのではないかと思われる。言い換えると空海は四国が大和朝廷の故郷ではないかという結論に辿り着いたのではないだろうか。そしてソロモン王の秘宝が唐の国でどのように言われているのかを確認するためには唐に渡ることが必要と判断した。実際空海は密教の習得に入る前に、かなりの時間、景教に関わる人達と交流したと言う話が残っている。この間にソロモンの秘宝は日本の‘何処か’にあるという噂が唐の国でも囁かれている事を確認した。空海自身はその場所が‘四国であろう’と言う確信も強まったのだと思う。そして帰国後真言密教の宗祖として認められ、日本一の高僧となった空海は皇室との付き合いも深くなっていった。ある時師として又友達のように親しくなっていた嵯峨天皇にこれらの噂の真実について尋ねたのではないか。
先の章で「嵯峨天皇は空海に対し四国を封印するように指示した」、と言う話を引用した。私は天皇自身がこの秘密を自ら空海に話すことは無いと考えている。朝廷は完全に封印されていると思っていた秘密について空海から尋ねられ、秘密漏洩の危うさを感じた天皇が、噂がこれ以上広がらないように改めて‘四国全土を封印するよう’に命じたと想像するほうが自然に思える。
誰でもが知っている「いろは歌」は空海の作だと言う説と、そうでないという説があるが、私は天才空海でなくては出来ないと信じている。それは全ての‘てにおは’を一度きりしか使わないで詠むことは「大天才」で無ければ出来ない技と考えるからである。「いろはにほへと・・・・」。前回紹介した大杉氏はこの歌の中にも空海が後世に残したソロモンの秘宝に関する、謎解きのメッセージが示されていると言う。そのまま紹介する。「母なる国(四国)はその匂いがいっぱい残っているが、是でおしまいか。この世は無常である。さまざまな因縁によって生じた現象を、今日ようやく乗り越えて、これから浅い夢を見ず、酔いもせず、厳しい現実の中を生きてゆく」。どうだろう。空海の思いが伝わってくるような気がする。
今回は日本の誇る天才のお話をしてきたが、最後に近代が生んだ世界の天才アルバート・アインシュタインが戦前、日本を訪れたとき残したメッセージを紹介してアインシュタインが我々に何を語りたかったのかを考えたい。
アインシュタインはナチスの迫害を逃れ、アメリカに亡命したユダヤ人である。
「近代日本の発展ほど、世界を驚かしたものは無い。(中略)長い歴史を通して一系の天皇を戴いていると言うことが今日の日本をあらせしめたのである。(中略)最後の戦いに疲れるとき、人類は真の平和を求めて世界的盟主を挙げなければならない。それは武力や金力ではなく、あらゆる歴史を遥かに超えた、最も古く、最も尊い家柄でなくてはならない。世界の文化はアジアに始まり、アジアに帰る。それはアジアの高峰、日本に立ち戻らなければならない。我々は感謝する。我々に日本という尊い国を造って置いてくれた事を」。
是を私はこう解釈する。
「アジアの西の果てヘブライ王国に始まった文化は、失われたイスラエルの支族が造った日本に帰らなければ成らない。我々イスラエル民族は感謝する。我々の同胞がここにこんな素晴らしい国を築いていてくれたことを!」

ソロモン王の秘宝は四国の剣山に!

2005-08-10 23:36:30 | 歴史
 7月17日京都八坂神社のギオン祭のご巡幸と同じ日に、四国の吉野川上流にある剣山で神輿を頂上まで担ぎ上げる奇祭がある事を先に紹介した。また神輿はヘブライ王国の契約の箱に似ていると言う話もした。今回はこの契約の箱についての話をしたい。
モーゼが神と契約した「十戒」を記した石板とヘブライの秘宝を納めた箱が契約の箱で、ソロモン王の秘宝と呼ばれた。箱の頂部には神輿の鳳凰と同じような鳥が配され、神官たちが担いで神殿へ運んだと言う。
ヘブライ王国がアッシリアに滅ばされたときソロモン王の秘宝は最後まで発見されなかった。秘宝は「イスラエルの失われた支族」が密かに東方へ運んだと言う噂が残った。その後、探険家が必死に探したがいまだに発見されていない。
その秘宝は「アーク」と呼ばれ、映画「インディー・ジョーンズ‘失われたアーク'」の中で捜し求めていたのがこのアークなのだ。
私は「失われたイスラエルの十支族」のある一族は九州・宮崎の日向の海岸に上陸したと言う仮説をお話してきた。ところがヤマト民族がイスラエルから来たことについては同じ意見だが「上陸したのは四国である!」と言う説を著している書がある。大杉博氏著「古代ユダヤと日本建国の秘密」である。氏は四国・吉野川を遡上して上陸し剣山にソロモンの秘宝「契約の箱」を隠したとしている。氏は剣山周辺をくまなく探査し、この地が天孫降臨に始まる神代の世界の舞台であると論じている。詳細は省くが氏は言う。「大勢の山伏姿の信者によって神輿を、剣山の頂上まで担ぎ上げるのは異常であるが、剣山へアークが担ぎ上げられた故事によるものと考えれば納得できる」。正にその通りである。先に諏訪の御柱祭で何故諏訪神社の氏子が命をかけて御柱を山から切り出す祭りをするのかを述べた。一方剣山では平地で神輿を担ぐのですら大変なのに1500メートルの山頂まで担ぐのである。納得行く故事・来歴が無ければならないのは当然のことである。氏は今でもアークは剣山の周辺のどこかに隠されていると考えている。何故現代までこの秘宝の話が秘められていたかを次の様に説明している。
古事記が編纂される前は大和朝廷の故郷は四国剣山周辺であったと氏は言う。遣隋使、遣唐使が派遣されていた頃大和朝廷にある情報が入った。それは「西方の人達がアークを探しに日本に来るらしい」と言う噂だった。驚いた朝廷はアークを隠すことを決め、その手段として古事記を編纂し、大和朝廷が四国に上陸した過去を隠すことにした。そして九州を中心に物語を作り、神武天皇が東征して近畿地方で大和朝廷を作ったとする物語とした。大和朝廷は古事記に基ずき九州から近畿地方に神社を建立し、西方の人達の関心が絶対に四国に向かない策略を展開した。一時国内は地方の故事、伝承とまったく関係ない神社が次々に出来、混乱したと言うがこの作戦は成功し四国は忘れ去られていった。
第52代嵯峨天皇の時代、天皇は時の高僧空海に念には念を入れ四国全土を封印するように指示した。四国をほぼ一周するように88箇所に寺を建て、特に吉野川の川にそって念入りに封印した。天才空海は後の世の人達が何時かはこの封印が解けるよう幾つかの仕掛けを残した。
そして1300年を経て大杉氏が正に空海の仕掛けた謎を解き明かした。その謎の一つは吉野川に沿って四番札所から十番札所の寺の頭文字を順に記すと「大、地、安、十、熊、法、切」となりこの文字の序列は次の如く解釈されると言う。「大地(日本)が安住するように、熊(吉野川の意)を法の力で仕切った(封印した)」。いま一つは空海の著書「秘蔵法輪」に次の記述がある。「顕薬は塵を払い、真言は扉を開く。秘法忽ち陳して、万徳即ち証す」。意訳すると「真言密教により隠されたアークが発見され、万人が徳を得られるだろう」と解釈できると言う。剣神社の祭りは空海が仕掛けた謎の一つなのでは無いかと思えてくる。

近い将来四国剣山から「契約の箱」が発見されることを期待したい。