倭国、大和国とヘブライ王国

ヤマトとはヘブライ王国の神・ヤハウエの民を意味するヘブライ語‘ヤァ・ウマトゥ’が変化したものであろう

天若日子のお葬式

2006-09-16 21:48:52 | 歴史
 先日、友人のご尊父が亡くなったとの通知を受け、通夜に出席した。会場に入り案内に従って席に着き、遺族の方々に挨拶した後、正面を見た時、今まで経験していた葬式と何かが違う事に気がついた。
正面には神棚が据えられ、神社の祭礼時の飾り付けがされていた。お葬式は神道によって行われていたのだ。用意したお数珠をそっとポケットにしまった。
ある時何かの話の折に、友人の家系は神主という話を聞いていた事があったので、直ぐに納得した。帰ってから調べたところ神道によるお葬式を、‘神葬祭’と言う事を知った。神道では「祖先の霊を祭る行事は、凡て祭りと言う」と書かれていた。
しばらくして二人の神主が着席して神葬祭が始まった。祝詞が二人の神主により謡われ、美しいハーモニーが流れる。祝詞にじっと耳を澄ますと、何度も何度も読んできた‘古事記の神代の世界’が朗々と歌われている。祝詞の無い間は雅な笙(しょう)の音(ね)が流れ、仏式では感じる事の出来ない不思議な世界へ導かれていくようだった。
考えてみれば日本に仏教が伝来したのが西暦538年であるが、仏教が庶民の生活に真に定着したのは鎌倉時代(西暦1192年~)の親鸞の時代であろうと言われている。仏教伝来から世の隅々まで浸み込むまでほぼ500年を要した事になり、それまでの庶民の間の冠婚葬祭は、おおよそ神道によってなされていたと考えても良いのではないか。
神主の祝詞が古事記の世界であったことから、古事記の記述の中に葬式の様子を書いた物語があったような気がして、今一度目を通してみた。記憶に間違いは無かった。天孫族が出雲から国取りをする物語‘葦原中つ国の平定’の項の「天若日子」の節にそれがあった。
物語の概略を記すと「天孫族・天照大神は出雲の国に対し国譲りを迫った時、最初は武力に依らず使者を送った。最初の使者が大国主命の誑しに合い戻らず、二人目の使者`天若日子’も大国主命の娘を娶る事により懐柔された。次に送った使者・雉名鳴女は弓に射抜かれてしまう。怒った天孫族はその矢で天若日子を死に至らす。古事記はこの日子の葬式の様子を次のように記している。『・・・すなわちそこに喪屋を作りて、河雁を岐佐理持ちとし(註:葬送の時死者の食物を運ぶ)、鷺を箒持ちとし、翠鳥(かわせみ)を御食人とし(註:死者に供える餅を作る人)、雀を確女(うずめ)とし(米つき女)、雉を哭女(なきめ)とし、各行い定めて、日八日八夜八夜を遊びき』。この様子を見ると神道の神葬祭の原型が僅かではあるが見る事が出来る。現在神棚に色々な食物を飾る様が既に始まっている。神道では現在仏式で言う初七日が十日祭、四十九日が五十日祭に当たる。古事記の八日八夜も偶数であることを考えると、既に神道の基本が出来ていたのではないだろうか。古事記の記述で面白いのは哭女が登場している事であろう。韓国の葬式がそのようであると聞いているが、古事記の時代は韓国の強い影響にあったことが現れているのではないだろうか。
神主の祝詞が終わり、その後神主の手により‘御霊'が`霊じ’(仏式の位牌に相当する)に移されたが、場内の明かりを落とし、蝋燭の日だけで行われたこの儀式は、誠に厳粛であった。明かりが戻り親族から玉串奉奠が行われた。神社参拝時と同じく玉串奉奠の後二礼二拍一礼したが、拍手は‘忍び手’と言われる音を立てない方法で、これも強く印象に残った。小生もこれに習い玉串を奉奠した。
思わぬところでしばし古代倭国へタイムスリップする事ができた。故人のご冥福を祈り、式場を後にした。


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2 コメント

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偲ぶれば・・・  (虚庵)
2006-09-17 10:57:48
へぶらいびと様



丁寧にご紹介された神葬祭を読みつつ、お世話になった大先輩のことを、懐かしく偲びました。



逗子のご自宅で営まれたご母堂さまの神葬祭が、鮮明に思い出されます。ご本人のお見送りも、当然のことながら神式でした。



まだお母様がご存命中のこと、「尺八を聴きたい」とのご希望に応えて、取り出してこられたご夫君形見の尺八を構えて、咄嗟のことでしたが即興曲をご披露しました。



あの時、お母様は亡きご夫君を偲び、目に涙を湛えて、拙い尺八を聴いておられたことが、印象的でした。



連れて行った娘を膝に抱えて、一緒に聴いておられた大先輩に、あろうことか娘が粗相をして慌てたことも、今となれば懐かしい思い出です。



大先輩とご母堂様のご冥福を祈らずにはおれません。

 
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神葬祭 (へぶらいびと)
2006-09-17 11:12:58
 私は一度虚庵様の尺八を聴いた覚えがあります。敦賀か東海か定かに思い出せませんが、書に尺八と(その頃は詩の才能までは承知していませんでしたが)、他の先輩とは一味違う人と感じた事を思い出します。

神葬祭を通して益々神道と倭国古代の世界に魅力を感じました。
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