倭国、大和国とヘブライ王国

ヤマトとはヘブライ王国の神・ヤハウエの民を意味するヘブライ語‘ヤァ・ウマトゥ’が変化したものであろう

神社から見えてくるもの(3)ユダヤ教の礼拝所

2005-07-31 21:14:00 | 歴史
ユダヤの人々が日本に来て生活すると色々な場面で驚くことがあるという。それはユダヤ人自身が忘れている古いヘブライ王国時代の習慣を、日本人が現代の生活の中に取り入れている事だ。
ユダヤのラビ(牧師)M・トケイヤー氏は神社に参拝したときあまりに多くのことがユダヤの風習と似ているのに驚いたと氏の著書「日本ユダヤ封印の古代史」の冒頭でその幾つかを記述している。
そのまま引用すると;
@神社の構造はユダヤの幕屋(礼拝所)に似ている。(ヤハシロという。社に聞こえる)
@神社の手水舎は幕屋の洗盤と同じである。
@拝殿が聖所で本殿が至聖所である。
@神主の装束が古代ユダヤの神官の衣装と似ている。特に袖口に4本の房がついていること。ユダヤではこの房を「ツィーツィート」と言う。
@神官のお払いの儀式が類似している。
@参拝する前に手を清めること。
@礼拝所の入り口には二本の門柱が鳥居のようにある。
などなど他にも多数あるが神社、神道関係が一番多いとしている。
来日して以上のような類似点を知りトケイヤー氏は日・ユ同祖論(日本とユダヤの祖先は同じと言う考え方)に興味を持って、10年に亘って調査した。その結果が「失われたイスラエルの10支族は日本に渡来していた」と言う答えになり、それら調査の記録が前述した「「日本・ユダヤ封印の古代史」に成った。

 先に諏訪大社の「御頭祭」に関わる伝承をお話したが、現在では諏訪の祭りは「御柱祭」のほうが有名になっている。説明するまでも無くその様子はTVで全国に放映され人気を博している。私も一度は見なければと思っている祭りだ。実はこの命を失いかねない激しい祭りが、どんな由来から始まったのかはっきりした説明が中々見つからない。色々調べても「何時から始まった・・」など「御柱祭ありき」の説明が多い。日本の祭りの中で是ほどまでに命駆けの祭りは他に知らない。「だんじり」もかなり危険な祭りであるが、とてもその比ではあるまい。この様な命がけの祭りにイワレ・由来が無いわけはないと常々思っていたが、その答えが見つかった。小石豊氏著「古代出雲イスラエル王国の謎」にこの答えが記述されていた。氏によると「諏訪の御柱祭は、ユダヤ王国の王ソロモンが神殿を建てた時、神殿の門柱にすべき木がエルサレムの近郊にはまったく無かったため、レバノンから杉を買い取り、海路と陸路を使ってエレサレムまで運んだ大事業の伝承に由来する」と述べている。
ソロモンの宮殿の入り口にはレバノンから苦労して運んだ杉が、門柱として立てられていたのだ。あたかも鳥居の如く。木の柱には女神が彫刻されていた。女神の名は「ハシュラ」と呼ばれた神だ。「ハシュラ」は「はしら」、ここにもヘブル語に由来すると思われる言葉がある。そして鳥居という言葉はヘブル語の門を意味する「TARAA]が変化したとしている。
 何故伊勢神宮や出雲大社にこの様な祭りが無く、諏訪にだけソロモン王の伝承が残ったのか?私は以下のような仮設を考えている。
先に「出雲の神もイスラエルの失われた支族の一族ではないか」と言う仮説を紹介した。天孫族より早く渡来したが、天孫族がヘブライ王国時代の主筋に当たるため国を譲ったと言う考えを述べた。諏訪神社の御祭神・建御名方神は出雲の大国主命の子である。この事から更に想像を進めると「建御名方神の祖先は、ソロモン王の時代にレバノンから門柱の杉を苦労して運んだ一族だったのではないか」と考えた。ヘブライ王国時代を忘れないために、命がけで御柱を山から切り出す祭りを始めたとしても不思議ではない。
早く次の御柱祭を見たくなったが、6年毎(7年に一度)であり昨年祭りが有ったので次の祭りはあと5年待たなければ成らない。祭りの正式な名称は「諏訪大社式年造営御柱大祭」という。

神社から見えてくるもの(2)神社の格

2005-07-30 13:13:38 | 歴史
 前回神社にも格の違いが有ることを述べた。平安の昔から「一ノ宮」、「「二ノ宮」、「三ノ宮」と格付けされ、明治になって政府により法律上でもはっきりと格付けされた。「官幣大社、中社、小社」である。これらの格付けは太平洋戦争に負け、アメリカ軍が進駐し、神道を国教から外した時点で廃止され、旧来の「一ノ宮」・・・の呼び名が復活した。これら神社の明確な格付け以外にも神社にはさまざまな顔がある。神宮、大社、神社に~~宮などの呼び名の違いに、どのような格付けの基準があるのだろうか?それぞれに祭られている御祭神から何かが見えてくるのではないかと、ネットサーフィンで調べてみた。
*先ずは最高位の神宮から祭られている御祭神を調べてみよう。
 伊勢神宮・・・天照大神、「八咫の鏡」
 熱田神宮・・・天照大神、「草薙の剣」
 霧島神宮・・・天孫降臨のニニギの尊
 宮崎神宮・・・神武天皇
 橿原神宮・・・神武天皇
 宇佐神宮・・・応神天皇
 明治神宮・・・明治天皇
 ヤマト一族の中でも功績の大きな神が祭られている
*大社はどうだろう
 出雲大社・・・大国主命
 諏訪大社・・・大国主命の子・建御名方神(国譲りで負けた神)
 住吉大社・・・イザナギの命の禊から生まれた三神(底筒男神他)、物部氏系
 春日大社・・・藤原氏の氏神であるが御祭神は建御雷神、建経津主神(どちらも 国譲りの時の天孫族側のヒーロー)
 伏見稲荷大社・・・秦氏の氏神
 天孫系の亜流の神々と外戚など深い関わりの大物が祭られている
*八幡宮
 本社は九州の宇佐神宮で御祭神は武勇に優れていた応神天皇であったことから源氏・ 鎌倉幕府の氏神とされ、以後全国各地の武将が支社を建立した。現在分社の数は4万社と言われ、全神社の1/4が八幡宮となり最大勢力でる。
*神明宮
 伊勢神宮の支社(分社)として全国に建立。官幣神社のはしりと言える
*天満宮
 菅原道真を御祭神としている。九州に流罪となり無念のうちになくなった道真の鎮魂のための神社。天神様として親しまれ学問の神様。各地に分社あり。
*水天宮
 天の御中主神、安徳天皇(不幸にして壇ノ浦で散った悲劇の天皇)の鎮魂のための神社。
*東照宮
 徳川家康を祭る。明治政府は朝敵の徳川の墓を上野から排除しなかった。古くは大国主命の出雲大社から連なる日本の美しい風習。
*神社
 神社の位置づけとして神宮、大社、~~宮の次に位置しているような気がする。神宮、大社の分社も多い。分社も含め全国区な神社を見てみると
 稲荷神社・・・伏見稲荷が本社で秦氏の氏神、全国に分社多数
 日吉神社・・・比叡山の地主神
 諏訪神社・・・諏訪大社の分社
 八坂神社・・・京都の八坂神社が本社、素戔鳴尊が御祭神。祇園祭で有名
 八幡神社・・・宇佐神宮、岩清水八幡宮の分社
がある。これらで日本の神社の殆どがカバーされるだろう。
*やしろ(社)
 村の鎮守様、神道が広がる以前の原始アメニズム的宗教。御祭神は動、植物、鉱物。これら‘やしろ’が神道の普及によって神社になっていったと考えている。
一説によるとこれら神社の総数は全国で15万社を数えると言われている。その中で分社の数が多いのは官製の神明宮は勿論だが、稲荷神社、諏訪神社、八坂神社など天孫族系ではない神社が圧倒的に多い。原田常次氏著の「古事記以前の神社」によると「西暦700年以前の神社の数は3000から5000くらいだったと思われる。著者が確認できたのは1600社であった。その内八坂神社他、素戔鳴尊を祭る神社が8割に達していた。残りが天照大神系であった」と記している。
先に祇園祭が全国の八坂神社を中心に行われている話をした。何故敗者の素戔鳴尊系の神社の祭りが栄えているのかは大いに不思議な点であったが、この古事記編纂期の8割に及ぶ八坂神社の数を見ると疑問が解けた気がする。
太平洋戦争で勝ったアメリカ軍が天皇をどう扱うか悩んだ末、国民の心情を考え、天皇を戦犯とせず「人間天皇・国民の象徴」とした事と、出雲王国に勝った天孫族が出雲王国の神々の処遇について検討した結果、出雲王国の指導者たちがあまりにも倭国の人々に人気が有ったので、素戔鳴尊や大国主命らを厚く処し、全国の素戔鳴尊系の八坂神社、諏訪神社などをそのまま残したことが、同じ政策であったのではないかと考えている。歴史は繰り返すのか・・・。


神社から見えてくるもの(1)建築方式

2005-07-29 22:12:47 | 歴史
 先に皇室最高位の伊勢神宮が何故京都、奈良に建立されなかったかについての考察を述べた。そして熱田神宮が次ではなく宇佐神宮が第二位の神宮であるかについても述べた。
大和朝廷は古事記の神話に基付き、各地に神社を建立したと言われている。確かに天孫降臨の地、高千穂の峰の懐にニニギノ尊を祭る霧島神社、神武天皇が東征を目指した日向海岸の宮崎神宮、神武天皇が大和朝廷を開いた地に橿原神宮、応神天皇の生誕の地に宇佐神宮などなど。そして伊勢神宮の支社として全国に神明宮を建立した。これらの神社を通して天皇家は絶対的権力と権威を不動のものとすることに成功した。そして各地方の国々で最も権威のある神社を、「一ノ宮」と位置付け、以下「二ノ宮」、「三ノ宮」とした。明治政府は神道を国教に定め、これら「一ノ宮」は「官幣大社」とし、以下「官幣中社」「官幣小社」と呼び、宮司は皆公務員として処遇した。ここまでの話には何の新鮮さもない。あちこちの話を継ぎ接ぎしただけであるから当然だ。実は、私は幾つかの神社を見て気になることが有る。それは建築様式が大きく二つに分かれている気がすると言うことだ。一つは伊勢神宮、出雲大社などのいわゆる「大社造」と言う形と、八幡宮が代表する「流れ造」である。
大社造は屋根が直線であることが特徴で簡素では有るが荘厳な感じがする。一方流れ造は屋根が緩やかな曲線で造られ優雅な感じと同時に、柱などに朱色が施され華な感じがする。これらの違いがどこから来るのか?と言う素朴な疑問が湧いてくる。ここで又斜めに見る癖が出てくる。

先に伊勢神宮に納められている「八咫の鏡」にはヘブライ語が刻まれており、内宮と外宮を結ぶ参道の石灯籠にはイスラエルのダビデの星が刻まれていると言う話をした。そして神社の形はイスラエル王ソロモンの館に類似していると言う話もした。石と砂の文化の地から来た「イスラエルの失われた支族」は、木の文化の国で戸惑いながらも新しい材料を使い、衣、食、住に適応し、イスラエルの文化を「倭風」にアレンジして行ったのだろう。大社造はイスラエルの幕屋(礼拝所)をベースに簡素に、しかし重厚で神秘的な雰囲気が出るようにアレンジして造ったのだと思う。神社を「社・やしろ」と言うがイスラエルではヤハウエの神が降臨する所を「ヤハシロ」と言っている。
一方の煌びやかな八幡造は大陸あるいは朝鮮の影響を強く受けた一族が建立したのではないかと想像している。言い換えると初期のヤマト一族は大陸文化にあまり影響を受けず、南の海を経由して宮崎に上陸したのではないだろうか?
大社造を見ていると、特に屋根の形に東南アジアの質素な建造物を思い出させる。
先陣よりかなり遅れて日本に辿り着いたヤマト一族の第二陣は大陸、或いは朝鮮に滞留した時間が長く、その文化を吸収して渡来した可能性がある。八幡造の元祖は宇佐八幡宮であり、その御祭神は第15代天皇応神天皇である。先に道鏡が天皇になろうとした時、和気清麻呂がお伺いを立てたのが宇佐神宮であると述べた。この史実は応神天皇が伊勢神宮におわす天照大神系ではないことを物語っていると言える。
神社の建屋の形は色々あるがみな大社造と流れ造を基本にしているように見える。
インターネットの各神社のホームページの写真で見た範囲であるがそれらの幾つかを記してみる。
大社造・・・伊勢神宮、各地の神明宮、出雲大社、熱田神宮、住吉大社、宮崎神宮
流れ造・・・各地の八幡宮、霧島神宮、稲荷神社、鹿島神宮、香取神宮
大社造に関わる神々が南の海経由で渡来した一族で、流れ作りの神社の神々は大陸経由の渡来族という解釈をしたいのだが、霧島神宮のニニギノ尊は天孫族の直系であるのだから大社造で無ければならなくなり、例外になってしまう。それなりの理由があるのだろうが、今後の課題としてたい。
中間的な建物に春日大社(春日作りと呼ばれている)と諏訪大社、八坂神社がある。これらは屋根が曲線的であるが質素であったり、大社造であるのに朱色が塗られているなどの違いがありどちらかに分類できない。

神社の建屋の形から神々の出目を見直してみると新しい発見があるかもしれない。


秦氏について考える

2005-07-17 22:15:47 | 歴史
 国としてまだ定まっていなかった頃、多くの渡来人が日本に帰化した。渡来人の中でもその規模が他に比べ著しく大きかったのが秦氏であった。秦氏は全国に散り名を変えて現在に至っている。秦氏が祖と思われる名には、羽田、波田、畑、旗、幡多、畠、波多、幡多、旛、機、が考えられる。この名前の中で大事なものは、機である。機織(はたおり)と言う言葉は、布を織る技術を秦氏が伝えたことから出来た言葉で、秦という字があまりに日本的でなかったために、機と言う字に置き換えられたと考えられる。名前の「秦」の字がかくも多くの字に変化したのも同じ理由であろう。元総理大臣の羽田さんは自分の家系図に秦氏が祖であることが示されていると言う。
秦氏の故郷は中央アジアの天山山脈の麓、弓月(ケンユウ)という。そこは現在の地図には記載されていないが古い地図には「ヤマトゥ」と言う地名が記されていたと言う。秦氏も「イスラエルの失われた支族」に関係が有るのかもしれない。
秦氏は秦の始皇帝の血を引く一族で、秦朝が滅びた後、漢国に追われて亡命した説と、倭国に来たときに秦の末裔と名乗ったほうが厚く受け入れられるとした説、そしていま一つは、出典が定かではないが秦氏は秦の始皇帝の時代、万里の長城の建設に携わっていたが、あまりに激しい苦役に耐えられず、日本へ亡命したと言う説である。いずれの説にしても渡来した時期は紀元前200年前後となりまだ倭国の時代である。是は私の想像であるが先に渡来していた同族の大和族に迎えられ、摩擦無く入国し、帰化出来たのではないだろうか。そして秦国の進んだ技術を倭国へ伝えていったのだろう。
先に秦氏も失われたイスラエルの支族ではないか、また秦の始皇帝の末裔ではないかと書いたが、秦の始皇帝の父は呂不韋と言うユダヤ系の人で、始皇帝自身も目が青く西洋人のようであったという言い伝えがある。この説も出典が定かではないが、実は確かな証拠が漢字の中に隠されて残っているのだ。
漢字は紀元前1400年、殷の時代に甲骨文字が発明され、その後改良され、秦、漢の時代にほぼ完成したと言われている。漢字には象形文字、表意文字があり、この二つを組み合わせて沢山の漢字が出来たのは言うまでもない。漢字を見ればおおよそ、その意味が掴めるのはそのためだ。しかし漢字の中にはその組み合わせから、何故そんな意味になるのか理解できない漢字も見られる。それらの幾つかは、旧約聖書の物語を漢字の中に隠したと考えると理解できる漢字が在る。それらを紹介しよう。(出典はインターネット)

* 造 ・・・創世記2・7「神は土から人を造り口から息を吹き込み、人は歩いた」。之は歩くと言う意味
* 元 ・・・創世記1・26「全てはアダムとイブの二人から始まった」
* 禁 ・・・創世記2・16「エデンの園の木の実を食べてよい。しかし善悪、知識の木は食べてはならない」
* 魔 ・・・創世記3・1「蛇が木々に隠れイブに禁断の実を食べるよう誘った」麻で木に隠れる意、ムは秘密、儿は人を表わす。蛇が人の声で誘う
* 始 ・・・創世記3・6「イブが秘密で木の実を口にしたことから人類の罪と罰が始まった」
* 裸 ・・・創世記2・25「禁断の木の実を食べて羞恥心を持ったアダムとイブが裸を嫌がり衣を必要とした」
* 初 ・・・創世記3.21「神は刀で皮を切り衣を作った」
* 被 ・・・創世記2・25「アダムとイブは神から皮の衣を与えられ、それを着た」
* 船 ・・・ペドロ記2・5「ノアの箱舟でノアの家族8人がすくわれた」八口は8人
* 乱 ・・・創世記11・9 バベルの塔「神に反抗して天に届くバベルの塔を造った人類に対し、神は人類を散らし言葉がバラバラになるようにした」舌は言葉を意味し、乚は足の片方を意味し方向がバラバラの意

 確かに木が二本、その下に示す、で何故禁じるという意味になるのか他に説明のしようがない。
果物に衣で裸?、刀に衣で初めて?舟に八口で大きな舟?
これらの字が旧約聖書の物語を表わしているとは!この様に解釈した人に驚き、尊敬する。地名や物の名前などのイワレや由来が大好きな私にとって、インパクトの大きな発見であった。これらは「秦の始皇帝がイスラエルの失われた支族である」という十分な状況証拠に成り得る。とすると秦氏も同族であると考えるほうが自然である。
久保有征氏の「日本の中のユダヤ文化」から引用させて戴く。
秦氏は大和朝廷に厚く迎えられた。その時の亡命者の数は一万人に上る技術者集団であった。伝えた技術は冒頭に述べた機織のほかに養蚕、灌漑、治水、冶金など多岐にわたった。更に楽器、紙の製造、神社の建造、などにも貢献し、神道の伝承にも関わったという。宇佐八幡神宮を建立し、稲荷神社や八坂神社を広めたのも秦氏だと言う。日本全国の神社のかなりの部分を秦氏が関わったことになる。八坂神社といえば祇園祭があるがこれも秦氏の功績だという。
秦氏が藤原氏などの他の渡来系帰化人と大きく違うのは朝廷の要職に付かず、技術系に絞り込んで日本に貢献したことであろう。秦氏を調べるまで認識していなかったが、現在の日本文化の基礎を作ったのは「秦氏」といっても過言ではないような気がする。





日本固有の文化はあるのか?

2005-07-14 22:29:52 | 歴史
 日本固有の文化とは何だろうか?有形、無形を問わず、世界中を訪ねても同じ物が無く、有ったとしてもその文化は日本から発信された文化と定義するのだろうか?
日本は大陸と地続きであった一万数千年前、大陸から移住した民族と、南から海伝いで船で移住した民族が混血して縄文人が形成されたと考えられる。この縄文人が考え出し、伝えた文明は間違いなく日本の固有文化と言える。その後海面が上昇し、大陸と離れた後、朝鮮、中国或いは西欧から伝えられた文化、文明は、和風にアレンジはしているが元祖がハッキリしているため、これらは日本固有の文化とは言い難い。
この様な観点で身の回りを見るとどれだけのものが日本固有の文化と言えるのだろうか?
思いつくままに「これぞ日本固有の文化」と思われるものをあげてみたい。

*仮名文字、ひらかな文字・・漢字の変形であるので判定が難しいが他国には一切ない
*漆・・・英語でJapanと言う。これぞ日本を代表する固有文化の筆頭である。北海道・垣の島で縄文初期の遺跡から漆が発見され、それまでの定説、中国からの伝承説が覆った。青森・八戸・是川遺跡から3000年以前の赤漆が発見されている。
*酒・・・米を発酵させて作るアルコールは他に無い
*納豆・・米と同じ発酵技術
*草履・・草鞋、下駄
*相撲・・モンゴル相撲があるが古事記の国譲りに記載されていることから、大陸と地続きだった頃に既に伝わっていたのではないか?
*社(やしろ)八百万の神を祭る信仰は日本固有。特に「村の鎮守様」はその代表。初詣、お宮参り、七五三など神社の関わる行事は固有の文化と思われる。
*寿司、味噌汁、醤油などは判定が難しい。
その他能、狂言、歌舞伎などの文化があるが、中国からの文化が変化した可能性がある。
 私は常々漢字の読み方からその物がどんな歴史を持つかを考えている。漢字が日本に入って来た時、その漢字の意味するものが漢字の中にあった物は訓読み(倭読み)して使用した。「酒、漆」は是に当たる。伝わった漢字の中にそれらを表わす漢字が無かった物は、音と意味から造語した。それらが「納豆、下駄、草履」であろう。見事な当て字である。最近の中国は一挙に欧米の文化を取り入れているが、日本のようにカタカナが無いため大変な苦労をしているらしい。余談になるがちょっと紹介するとエイズは愛死、ビートルズは披頭四、ビタミンは維他命、これらは漢字の音と意味がマッチしている傑作だ。コンピューターは電脳、ビデオは録像機、ライターは打火機、これらは意味だけで作られている。日本も明治時代に西欧文明を輸入した時、それらの言葉を漢字で造語した。経済、議会、自由、民主主義・・・など。今の中国は日本が作った漢字・熟語を逆輸入して使っているという。それにしても古代の日本人はセンスが良い。
日本固有の文化を探しても意外に少ないので驚く。私はこの中で神社に関わる全ての事が、文化の殆どの供給元である中国、朝鮮に類似のものが無いことに注目したい。
世界中の原始的宗教は日本の八百万の神と同じように、岩、山、木の様な物体や、蛇、像、亀などの動物を祭っていた。日本の縄文時代もこれらの神々を祭り、それが村の鎮守の社に祭られていたのであろう。童謡「村の鎮守」で歌われる鎮守様の夏祭りが懐かしく思い出される。この社に関わる固有の文化を探してみよう。
初詣、七草粥、お七夜、初宮参り、神嘗祭、新嘗祭、お祓い、お清めなど日本の固有の文化と思われる風習・習慣が多い。しかしこれらの文化は何故か社とは結びつか無いような気がする。社が神社に変化・発展した時期に、これらの行事も生まれたのではないか?
古代の日本の社の御祭神であった八百万の神が、日本の神話の神々に置き換わり、社から神社へと変化した。それは古事記を編纂した大和朝廷が天皇家を神聖化することによりその権力を不動のものとする戦略からなされた。と同時に天皇家が神社の祭司として司っていた諸行事をも、同時に神社を通して全国へ伝えられた。それらの行事と一緒に種々の作法が伝えられ日本の習慣・風習となったと考えられる。こうして見ると仏教国のインド、中国、又広くアジアを見ても同種の物が見られず、日本固有の文化に見える。しかし、実は殆ど同じ形態の諸行事が大陸の西の果ての国・イスラエルの風習にあるというのだ。M・トケイヤー氏はこう言っている。
そもそも日本の神社はイスラエルのソロモン王が造った神殿と構造がほぼ同じであり、その機能(使い方)も同じだ。拝殿と本殿、鳥居に狛犬、そして手水舎までが在る。更に古代イスラエルでは正月にモッツァ(餅)と言う種の入っていないパンを食べ、正月の終わりに苦菜(七草粥)を食べるという。お七夜のお披露目は、割礼の変形であると思われ、汚れの思想から母親は産後1~3ヶ月、家に篭る事が変化し、初宮参りの時、母の変わりに祖母が赤子を抱いて宮参るという風習になったのではないかなどの説がある。
これらの風習を「失われたイスラエルの支族の末裔」と言われる天皇家が日本に伝え、大和朝廷の行事として司られて来たものが、神社を経由し日本の隅々まで伝承され、日本固有の文化と言われるようになったと考えられる。
私の最初の定義からすると外来文化の変形に分類されてしまうが如何だろう。

神社から見た日本の古代史

2005-07-08 00:21:14 | 歴史
 天皇位を継承する時、即位のための行事を大嘗祭と言う。この時無くてはならない物が有る。三種の神器である。ニニギノ命が天孫降臨する時に天照大神から授けられたのがこの三種の神器である。古代史の幾多の皇族の争いでこの神器の奪い合いが為されてきた。今NHKの大河ドラマ「源義経」でも平氏が西に退くに際しこの三種の神器が登場している。この三種の神器は「勾玉」」「八咫の鏡」「草薙の剣」から成る。「八咫の鏡」は伊勢神宮、「草薙の剣」は熱田神宮、そして「勾玉」は御所(京都御所か皇居かは定かではない)に保存されていると言う。
伊勢神宮の御祭神は天照大神で、神器は「八咫の鏡」と言うのはごく自然だ。熱田神宮の御祭神も天照大神であるが、相殿神のヤマトタケルノミコト(日本武尊)が、東征の折「草薙の剣」によって朝敵を倒せたので、剣をその地の熱田神社に奉納したと言う物語から、これもごく自然である。そして「勾玉」だけ神社ではなく御所と言うのも「まあ、そういうこともあるか!?」と考えている。
しかしここで幾つか腑に落ちない事がある。
大和朝廷にとって最も大事な三種の神器を納める神社が、二社とも何故ゆかりの奈良や京都ではなく伊勢と熱田に建立されたのか!
ここに一つの答えがある。大和朝廷が力を付ける以前、倭国には三大豪族が君臨していたと言う説がある。紀の国、尾張の国、そして出雲の国だ(この三豪族に続くのが阿蘇国と越の国)。紀の国は伊勢、尾張は熱田と考えると、大和朝廷が倭国を手中に治めた時、相手国の中に大和朝廷の大事な社を建てる約束をしたのではないか?例えば出雲王国の場合、大国主命のために出雲大社を建立したように!
それでは紀の国の中で、何故伊勢の地が選ばれたのか?先に八坂神社の山鉾の御巡幸が何故7/17なのかの根拠を示した。地名や名前のイワレや由来についても色々お話して来た。ここにも伊勢神宮が何故伊勢に建立さられたかの由来やイワレが無ければならない。
古事記の中の神武東征の章で「神武天皇は難波の攻略に手こずり、日を背にして攻めるべく南に回り熊野に入った」と記されている。同じ章の中で詠まれる歌に次の歌がある。「神風の 伊勢の海の 大石に・・・・・撃ちして止まむ」。私はこの歌から神武天皇は伊勢湾側から、今の伊勢神宮の辺りに上陸し難波に向かったと解釈している。早朝に攻めれば正に日を背に戦うことが出来る。そして伊勢の豪族の助勢を受け、見事天下を治めた。この地を大和一族にとって最も尊い地と定め、天照大神を祭り、「八咫の鏡」を御霊とし、天皇家の最高位の神宮を伊勢に建立した。これはあくまで私の仮説であるが解り易い‘由来'と言えないだろうか。
 一方熱田神宮は日本武尊が東征を終え、尾張で亡くなられたのち、東征に使われた「草薙の剣」を熱田神社に奉納した事から伊勢に次ぐ神宮として位置づけられている。熱田神宮には東征に協力した尾張の豪族も一緒に祭られている。これらの事から熱田神宮が熱田にある根拠は明確である。皇室第一位、第二位の神宮が奈良、京都でない事が説明出来たのではないか。
余談になるが皇室には他にも大事な神宮が幾つか有る。明治時代前は日本に神宮と呼ばれる社は、伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮の三社のみであった(鹿島神宮は建御雷神、香取神宮には建経津主神、二神とも葦原中つ国・出雲王国の国譲りで活躍した神)。明治政府は神道を国教と定め皇室に関わる多くの神社を神宮に格上した。熱田神宮、霧島神宮、宇佐神宮、明治神宮・・・・などなど大安売りである。この中で歴史的に見ても格が高く、又一部では熱田神宮を押さえて第二位の神宮と言われる社がある。それは九州、大分県にある宇佐神宮で、御祭神は第15代応神天皇・八幡神で、全国4万に及ぶ八幡神社の総本山にあたる。平安の昔、第47代淳仁天皇の時代、天皇に成ろうとした道鏡と言う僧侶が居た。その可否の御神託を得るべく使者の和気清麻呂が出向いた先は、伊勢でも熱田でもなく、なんとこの九州の宇佐神宮だったのだ。御神託は‘否’であった為、道鏡は追放され事なきを得たが、何故最高位の伊勢神宮へ行かず宇佐神宮だったのかは大きな疑問点である。
当時は天皇家にも幾つかの家系があり、その資格のある皇族がその位を争っていた。私の考えは、時の第47代淳仁天皇は天照大神系ではなく、応神天皇を祖とする系統の天皇であったと解釈している。
しかし決してイスラエルの血が途絶えたとは考えていない。先に出雲王国も同じ「イスラエルの失われた支族」ではないかと言う説を展開したが、この応神天皇は出雲系であったと考えている。
故に宇佐神宮は熱田神宮を押し退けて、伊勢神宮に告ぐ第二位の位置付けがなされているのであろう。
 最後に伊勢神宮の「八咫の鏡」のミステリーを紹介しよう。
明治政府の森有礼文部大臣が「八咫の鏡」を見たときの話だ。博士の話によると鏡の裏にはヘブライ文字が刻まれており、和訳すると「我は有りて有る者」となると言う。これはヘブライの神「ヤハウェ」を意味している。そして内宮と外宮の間を結ぶ参道に並ぶ石灯籠に、ダビデの星(イスラエルの国旗の星)が刻まれている。この話を始めると終わらないので、別の機会に伊勢神宮の話をしたい。

大和言葉とヘブライ語

2005-07-04 17:36:45 | 歴史
 日本語の構成は縄文の世のネイティブから伝わった倭語に、仏教の伝来と共に入ってきた漢語を取り入れ基本が出来上がった。漢語も外来語であり、その後西欧各国の言葉を外来語として消化してきた。大和言葉は濁音が少なく、フランス語を聞くような、優しさ、柔らかさを感じる。
何十年も日本語を聴き、話してくるとその言葉が大和言葉か否かが、直感でわかる様な気がするがどうだろうか。
何かを修行する者や受験生などの馴染みの言葉に「虎の巻」(とらのまき)と言う言葉がある。「虎の巻」の出典は「六韜」(りくとう)と言う中国の兵法書の中の「文、武、龍、虎、豹、犬」の六巻の「虎巻」(こかん)から来ているとしている。これは漢語を大和読みして和語としている例。
いま一つの由来がある。日本の修験者(山伏)が持つ修行のための書を「トラの巻」と呼ぶことから、武術、学術などの修行者が使う指導書を「トラの巻き」と呼ぶようになった。現在の「虎の巻」と言う言葉の使われ方から考えると修験者と修行者、受験者の類似性から、後者の由来の方が正しいような気がする。
それでは何故修験者の持つ修行用の教えの書を「トラの巻」と呼ぶようになったのだろうか?
虎という動物はその昔日本には居なかった。冒頭に述べたように大和言葉でなければ外来語である。漢語からだとすれば「虎巻」(こかん)となろう。中国以外から来た外来語と考えられる。ここで又斜めから見てみよう。

現代の世ではあまり馴染みがないが日本には古くから山岳信仰があり、それらを司る行者を山伏と呼んでいる。現在は何派かは知らないが仏教に属しているのだろうか?中国やインドなどに似た様な物が無い事からすると、日本の古代神教と思われる。我々の知っている山伏の姿は額の上部に黒い小さな箱をつけ、ほら貝を吹く。または鞍馬山の天狗を想像する。天狗の顔は赤く、鼻が高く、髪は白や黄金色が多い。私は直ぐに「あっ!イスラエル人だ!」と直感した。私と同じ感想を持ったのがM・トケイヤー氏である。氏が始めて京都で山伏を見た時、「その井出達があまりにユダヤ的であった」と言うのだ。私は顔からだが、氏は服装から直感したのだ。氏は言う。「頭に付けている物はユダヤの人が付ける‘フィラクテリー’にそっくりだ」。日本ではこの物を「兜巾(ときん)」と呼んでいる。更に「法螺貝はユダヤ人が祭りのときに吹くショーファールと言う笛に似ている。この笛は羊の角から作られている。日本には羊が居なかったのでねじれた角に似ている法螺貝を使ったのだろう」と言い「山伏の衣装の袖にある房と、胸当てもイスラエルの祭司の衣装に良く似ている」と言っている。そしてもう一つ、山伏の井出達に無くてはならないものが有る。天狗が手に持っている巻物、「トラの巻」である。
かって古代のイスラエル人は、シナイ山で神から「トーラの巻物」を授かった。山伏は山で天狗から巻物を授かった。天狗をイスラエル人と仮定すればその巻物は「トーラの巻物」と呼んでも可笑しくは無い。当時トーラを和語では表わすことが出来ず、外来語としてそのまま取り入れて使った。そして時代は流れ、虎と言う動物が居ると言う事が中国から伝わり‘トーラ’が‘虎'に変化して行ったと考えられないだろうか。
先「に中国の兵法書の話をしたが、私はこのトーラの話の由来の方に軍配を揚げたい。

 日本人の直感で判断しても大和言葉とは思えないが、古くから使われていて外来語とは思えない言葉。これらの中にトーラと同じ歴史を持つ言葉が沢山有るような気がする。久保有政氏の著「日本の中のユダヤ文化」とヨセフ・アイデルバーグ著「大和民族はユダヤ人だった」から紹介したい。
イスラエルが語源でそのまま残った言葉と、大和風に優しく訛った言葉があると言う。エッサ、エッサ、エンヤラヤーなどの日本人もその意味や語源が理解出来ない掛け声などは前者に当たる。青森のねぶた祭りの掛け声「ラッセラー、ラッセラー」、弘前のねぷた祭りの「ヤーヤードゥ」等も同じだ。故川守田英二博士は東北地方に広く伝わる夏祭りの踊りの歌「ナニャドラド」の歌詞は全てイスラエル語だと断じている。これら日本人が理解出来ない言葉が、イスラエルの人々には理解できるのだ。
それでは完全に大和言葉に成ってしまっているイスラエル語を紹介しよう。
ヨセフ氏はイスラエルが語源と思われる大和言葉が3000語もあるという。
 先ず音も意味も同じものを紹介する。ばれる、だべる、映える、凍る、枯れる、曲がる、傘、物、蜜、辺り、壁、火傷(やけど)、匂い、許す、憎む、商う、書く、被る、住む、訛る、困る、何時(いつ)、ありがとう、など。
 次に少し変化、或いは大和風に訛ったと思われる言葉を紹介する。先にイスラエル語、後に和語を示す。マツァ:餅、ミガド:帝、ナギ:禰宜、ハデクハシェム:辱め、ハルク:歩く、カム:神、エフォダ:お札、ハカシャ:拍手、ハヤ:早い、ホレル:掘る、コメツ:供物、ナハク:泣く、ナケル:除ける、ナシ:主、ユルシュ:許す。

以上で40位有る。英語と日本語を比べて音と意味が同じものが幾つ有るだろう。SOと「そう」位ではないだろうか。Rordと道路が似ているが逆様である。他には思い出せない。イスラエル語と和語にこれだけの類似性が有れば偶然とはいえない。他にも似ている言葉を探せば3000語も有ると言うのだ。間違いなく弥生の早い時代にイスラエルの失われた支族が日本に辿り着き、倭人と同化して行き、日本の文化の基本に大きな影響を与えたことが、この言葉の類似から伺われるのではないだろうか。
我々の身近な風習の中にどれくらいイスラエルの風習が、それとは解らず浸み込んでいるかを次回に紹介したい。