倭国、大和国とヘブライ王国

ヤマトとはヘブライ王国の神・ヤハウエの民を意味するヘブライ語‘ヤァ・ウマトゥ’が変化したものであろう

諏訪の守矢家と物部守屋の関係について

2006-10-28 08:38:02 | 歴史
 諏訪大社・上社の本宮を参拝した後、今回の旅の今一つの目的である「神長官守矢史料館」を訪ねた。神長官とは諏訪大社の神職の長を意味する。諏訪大社の神長官は代々守矢家が勤めている。
史料館で求めた`栞'に、守矢家についての説明があるので要旨を紹介する。
「室町時代初期に編纂された‘諏訪大明神画詞’によると、大和朝廷による日本統一の前の時代、この諏訪の地には洩矢(もりや)神を長(おさ)とする先住民族が狩猟を主体として住んでいた。そこに出雲王国の建御名方神率いる一族が、稲作の技術を持って進入して来た。洩矢族は力及ばず負けてしまう。しかし勝者である建御名方神は洩矢族を諏訪の共同経営者として用い、洩矢族の長を洩矢の神を祭る神官とした。この神官の名前が守矢家であり、現在の神官は78代目である。建御名方神と洩矢の神が戦った跡は現在も残っている。建御名方神の陣地跡には藤島明神が、洩矢の神のそれは天竜川を挟んで洩矢大明神が祭られている。」
この記述から次の事が言える。侵略者である建御名方神が諏訪大社の御祭神と成り、`諏訪様'として親しまれているのは、侵略者としての圧政は敷かず、この地に稲作を伝え、国を豊かにしたからと推察される。古事記の国譲りで、建御名方神は出雲の国の伊那佐の小浜で、天孫族の建御雷神と力比べをしたとあるが、諏訪から出雲まで戦いに行ったとは思えない。前回のブログで書いた如く、建御名方神の治めていた領地、越の国か関東の地で天孫族と戦ったのであろう。又天竜川を挟んで建つ二つの神社の話は、私のブログ・2006-2-1付けの「素戔鳴尊と氷川神社」で記した話、「荒川を挟んで東に天孫族の香取神社、西に出雲族の氷川神社が多くあるのは、天孫族と出雲族の戦いが関東であったことを物語っている」と同じ話であり、私の仮説を後押ししてくれる。
 史料館の壁に張ってある地図に、諏訪大社上社から南西に直線距離で6キロ行った伊那市高遠町に守屋神社と言う神社が示されていた。係りの人に「この守屋神社は字が違いますが、こちらの守矢に関係がある神社ですか?」と尋ねたが、答えは「この守屋神社は神仏戦争で負けた物部守屋大連を祭る神社で、諏訪様とは関係がありません」とのことであった。
ここで大きな疑問が持ち上がる。諏訪大社上社の御神体は大社の裏山の‘守屋’山であり(勿論御祭神は建御名方神)、その字は物部‘守屋’の守屋である。しかしその上社の神職の名は‘守矢’である。資料館の係りの人の話では物部守屋は、蘇我氏との戦いに敗れこの地まで落ち延びて、この地に祭られたと言っていた。守屋山の頂上には磐座があり、守屋神社の奥の宮とされている。
物部守屋を祭る守屋神社の奥の宮が守屋山の頂上にあり、その守屋山を御神体とする諏訪大社上社の神官が、古代この地を治めていた洩矢族の末裔・78代目の守矢家。どちらのモリヤも同じ守屋山を御神体としている。この難問題をどう解けばいいのだろうか。
ここに一つの答えがある。私の仮説を紹介したい。
‘イスラエルの失われた十支族’にとってイスラエルのモリヤの地は聖なる地であった。紀元前のある時期に日本に渡来した十支族の内のある支族が、いち早く諏訪の地に入り、自らをモリヤ族と名乗り、狩猟を主としてこの地に安住していた。その後同じイスラエルの別の支族によって出雲王国ができ、出雲王国の同盟国・越の国の王子である建御名方神が、諏訪の国を侵略した。`モリヤ'が何であるかを知る建御名方神は、洩矢族の祭っていた神を認め、同じ神を祭った。これが諏訪大社となった。
その後イスラエルの支族の本流であったヤマト族が日本を治める天皇となり、同じイスラエルの支族の出雲系とされる物部氏が中心となる大和朝廷が出来上がっていた。そして有名な神仏戦争で蘇我氏に敗れた物部守屋は、同じ洩矢族を頼って諏訪まで落ち延び、洩矢族が御神体とするモリヤ山(洩矢山か?)の別の麓で、ひっそりと暮らしたのではないか。宝治元年(1247年)に編纂された「大祝信重解状」なる古文書に、「諏訪は物部大連の所領であった」と、あるインターネットに記されている。
その後モリヤ山にかっての領主様の物部守屋に敬意を払って`守屋'の字を当て、諏訪大社上社の神官の‘洩矢’は、`洩と言う字を嫌い'‘守矢’と言う字に変えたのではないだろうか。
「神長官守矢史料館」には、もっとワクワクさせる物が飾ってあった。次回に洩矢族を何故‘イスラエルの失われた支族’としたかの訳を、諏訪大社上社に伝わる奇祭「御頭祭」を引いて報告する。

諏訪大社に見た出雲の国譲りの真実

2006-10-22 23:24:12 | 歴史
 今年の春に出雲大社を正式参拝し、年内には諏訪大社に参拝すべく計画してきた。今回待望の諏訪大社を参拝する事ができた。
言うまでもなく諏訪大社は支社である諏訪神社が全国に6500社余が分布している、全国区的な神社の本社である。大社は、7年に一度行われる奇祭・御柱祭で有名であり、御祭神は諏訪様と呼ばれ親しまれている。
諏訪大社は他の神社と比べ大きく異なるのは、次の4社を合わせ諏訪大社と呼んでいることである。諏訪上社前宮、同じく上社本宮、諏訪下社春宮、下社秋宮の4社である。伊勢神宮が外宮と内宮に分かれている例があるが他には見ない様式である。4社とも皆立派な神社であったが、やはり上社の本宮は他の3社に比して大きく荘厳であり、今まで見た出雲大社や他の神宮に決して劣るものではなかった。そしてあの御柱が4社の凡てに4本づつ建てられていた。丁度地鎮祭などで竹4本を立て注連縄を張り祭壇を作るように、拝殿を囲むように4本の御柱が立てられていた。
諏訪の上社には古事記の国譲りで天孫族の建御雷神と力比べをして敗れた、出雲王国の王・大国主命の子、建御名方神(たけみなかたのかみ)が祭られ、下社には妻の八坂刀売神(やさかとめのかみ)が祭られている。上社が諏訪湖の南側、下社が諏訪湖の北側に建立されている。上下のイワレについて神官から聞いた話では、諏訪湖の多くの水が南の八ヶ岳連峰から流れ込み、その水は天竜川となって北側から流れ出るため、水の流れから上下がついたと言う説もあるという。
さて話は大きく変わる。昨年の11/3付けの私のブログ「建御雷神について考える」で古事記に記された国譲りの力比べの舞台は、出雲の伊那佐の小浜ではなく「実は関東平野であったのではないか」と言う大胆な仮説を立てた。その後も何回と無くこの仮説を肉付けするための状況証拠を紹介してきた。今回の諏訪大社の訪問も、実はその仮説を裏付ける‘何かを求めて’が主題であった。そして大きな収穫があったのだ。
諏訪大社には神職と氏子で作る「全国諏訪神社連合会」なる組織がある。同会は昭和44年に第一回の大会が開かれ現在に至っており、毎年の大会には、多くの関係者が集まると言う。その大会時に講演された講演集が手に入った。その第一回の講演の記述の中に次のような一文があった。講演者は岡田米雄先生(故人)。そのまま掲載させていただく。「関東において常陸の国一ノ宮鹿島神宮には建御雷神様を御祭りしております。・・・(中略)恐らく古い時代、信州が中々手強い力を持っており、日本を統一するのに手こずった時代があった。その時に早く関東において皇室と深い縁を結んでおった建御雷神の一党の中臣氏、後の藤原氏の軍勢が碓井峠から信州へ攻め入った事があるだろうと私は思うのです。そして建御雷神の軍勢と建御名方神の軍勢が戦って、そしてだんだんと話し合いの結果、建御名方神が皇室(天孫族)に国を譲るということが行われたというのが、これが真実の歴史的な事実なのであろうと私共は思っております」。
どうであろう。私の描いていた世界が諏訪大社の関係者、それも本流の識者の講演として多くの聴講者の前で述べられている。特に次の節に強い感銘を受ける。「これが真実の歴史的な事実であろう・・・」。「歴史的事実」という言葉で十分足りるのに、更に「真実の」と言う形容詞が加えられている。 
講演された岡田先生がこのような考えに至った発端は「武神・軍神としても厚く祭られ、全国に6500社も在る諏訪様(建御名方神)が、古事記に書かれているように、そう簡単に建御雷神に負けたとは考えられない」と言う思いから色々調べた結果の結論としている。
私が「建御雷神と建御名方神の国譲りの戦いが、関東平野であったのではないか?」という考えに至ったのは、建御雷神を祭る鹿島神宮と建御雷神の軍の副将とも言われている建経主神を祭る香取神宮が、何故利根川の河口の両岸にあるのか?」と言う疑問から出たのだが、出発点が違いながら岡田先生と同じ結論に至ったというのは、そこに真実があるからではないだろうか。
しばらく諏訪大社関係の話を進めたい。

藤原氏の祖は?

2006-10-15 15:22:25 | 歴史
 関祐二氏の著作「藤原氏の正体」を読んでいる。以前私のブログ、「春日大社は語る」2006-10-28付けで、藤原氏は古事記の天の岩戸騒動に登場し、岩戸の前で祝詞を奏上した、天児屋命を祖とする話を紹介した。大化の改新の時、中大兄皇子(後の天智天皇)と共に活躍した中臣鎌足が、天皇から藤原という姓を賜り、以降藤原を名乗ったとされている。
関氏は著書の中で次のように結論付けている。「結論を先に言ってしまえば、中臣鎌足は当時朝鮮半島の百済から人質として来日していた百済王・豊璋その人ではないか」。その理由については氏の著書を読んでもらう事とするが、実は私も別の事由から氏の考えに同調している。
これまで色々読んで来た本の中で、面白い記述についてはメモしてきた。しかしブログで発表する事は考えていなかったのでその出典は記録していない。これから紹介するのもその類なので出典についてはご配慮願いたい。
フジワラとは朝鮮語のホゼワラから変化したものである。ホゼとは百済の事を言う。ワラとは倭国という意味がある。故にホゼワラを日本語にすると「倭国の百済」と言う意味になる。このホゼワラに和風の響きを持つ名を考えホゼにフジを、ワラにハラと言う漢字を当てたのが、‘藤原’であったと言う。確かに日本語にはホゼもワラも無い音である。`原'を漢和辞典で引いても`ワラ'という音は出ていない。
百済が新羅と戦った際、倭国は百済を応援したが白村江(はくすきのえ)の戦いに敗れ、多くの百済難民が日本に来たのは歴史の事実である。
そして元々才覚のあった百済の王が、大和朝廷の臣下となってその力を発揮してホゼワラ(倭国の百済)に藤原という名を与えられた、と考えるのに無理は無い。春日大社(藤原氏の氏神とされる)参拝の折戴いた由来書の中に、「春日大社の主祭神が建御雷神(茨城県鹿島神宮の御祭神)であることから、藤原の祖は鹿島出身と考えられる」と書かれていたが、以上の話から藤原氏の祖は百済からの渡来人(亡命者)と考える方が妥当であろう。うがった味方をすれば建御雷神が百済出身であったと想像する事もできる。
それでは古事記に出て来る藤原の祖・天児屋命との関係はどうなるのであろうか。私は時の朝廷が百済の王・豊璋を中臣氏の婿として迎え、中臣鎌足と名乗らしたのではないかと想像している。そして大化の改新などの働きにより新たに藤原氏という名を得て独立し、中臣氏はもとの神事を行う家として残ったのであろう。
その後の藤原家は天皇家の外戚として権力をほしいままに操り、藤原道長は「この世をば 我が世とぞ思う望月の 欠けたる事も成しと思えば」と詠った。
次の話も出典を記録していないので失礼するが、そもそも「日本」と言う国名は藤原氏が付けたと言う説がある。一般的には聖徳太子が隋の皇帝に送った国書に「日出東方の天子から・・・」とある事から「日本」が生まれたといわれているが、一寸違和感がある。我々日本人から見て‘日が出ずる国’とは、日本より東の国、太平洋上の島々と言う感じがしないであろうか。同じ感覚で百済から見た`日出国'とは倭国になる。古事記、日本書紀が編纂されたのも藤原不比等の時代である。日本書紀編纂に係わった藤原氏が、故郷・百済から和国を見たとき感じていた感覚から、新しく国の名をつけるに際し、日の本の国、「日本」としたのではないだろうか。言うまでも無く藤原氏は武士により政権を奪われた後は、日本の政治の表舞台に出る事はなかったが、公家の代表として江戸時代まで朝廷を仕切ってきた。そして明治になって再び表舞台に登場してくる。我々は明治以降に活躍した人物の中に藤原の名は見ない。実は藤原家はその名が変わって現代に至っているのである。
代々摂政・関白は藤原北家直系の五摂家、近衛、九条、二条、一条、鷹司の各家が務めていた。この中でも近衛家は戦前の総理大臣・近衛文麿を生んでいる。
1400年前、百済から亡命した百済人が以後現代に至るまで我が国に深く係わってきたと考える時、朝鮮半島ともっと近しく出来ないものだろうかと思わずにいられない。


古代海路と越前くらげ

2006-10-09 12:01:50 | 歴史
 近年になって毎年風物詩の如く報道されるようになったものに、越前くらげ襲来がある。本来風物詩と言う言葉は、広辞苑によると「季節の感じを良く表わしている物事」とあるから、越前(クラゲ)様の訪問に使っても可笑しくは無いが、招かねざる客であれば越前様訪問を風物詩と捉えるのは、いささか適当ではないかもしれない。
最近のTVで今年の越前様のご訪問の様子が紹介されていた。この報道によると今年の越前様は今までと一寸様子が違うと言う。今までの越前は(ここから呼び捨てにさせてもらう)中国の大河・揚子江の河口付近で生まれ、次第に成長しながら黒潮~対馬海流に乗って日本海に入り、越前沖に至るころは大きいもので直径2メートルにも育って現れる。ところが今年は例年には見られなかった小型の(1メートル以下)越前が多く見られると言う。専門家によると「地球温暖化が海水温の上昇となり、揚子江河口付近と同じような環境が九州有明海で見られるようになったため、越前(クラゲ)の一部が有明海で発生するようになった。このため有明海で生まれた越前が、越前沖に着く頃まだ十分に大きくなれず、1メートルクラスが混ざっているのではないか?」」と言う調査結果があり、朝鮮半島南端部にも同じ現象が生じていると言う。TV放送はここまでの説明であったように記憶しているが、その後の説明が有ったのか、無かったか見逃したのか定かではない。
以上の放送から推理した小生の仮説を紹介する。この現象は本来揚子江で孵化するはずの越前の卵の一部が、卵のままの状態で黒潮に乗って有明海に入り、海水の環境が揚子江と同じようになった有明海で孵化した後、再び対馬海峡に乗って越前を目指すが、揚子江からの行程と比べると丁度半分位の距離であることから、ハーフサイズの越前が現れたということであろう。
 大分前置きが長くなったが、私はこの有明海生まれの越前からある事を思い出した。くらげの泳ぎを見ると多少の推進力は持っているが、意思を持って方向を定めているとは思えない。海流任せのように見える。帆を持たない頃の古代の舟は、クラゲに近かったと言えるのではないか。人力で櫂を操れば多少は制御できるが、長い航海、例えば揚子江から九州となればほぼ潮任せであったであろう。と言う事は有明生まれの越前を考えた時、「揚子江近辺から倭国を目指した古代の渡来人は、有明海に辿り着いた」と言う事が言えるのではないか。
稲作の倭国への伝来ルートは幾つか考えられている。一つがこの揚子江近辺から、いま一つが朝鮮半島経由、そして台湾・沖縄経由である。山川出版社の「日本史総合図録」によればこの三つの道で最も大きな道は揚子江ルートとしている。更に同資料の「弥生文化遺跡の分布図」を見ると、最も密度が高く発生しているのが筑紫平野であり、他を圧倒している。筑紫平野とは言い変えると、有明海に注ぐ川が作った平野である。
航海術が未熟な古代の人達が、揚子江河口から黒潮任せに倭国へ向かったら、有明海に辿り着いた。そこに開けた肥沃な筑紫平野の川を遡り、稲作により築いた文明こそ、「邪馬台国」の基となった文化であったのではないか。
先にこのブログで、今年の5月から7月にかけて、倭国成立に係わる三つの海の道についての話を進めている。そのうちの一つが有明海と中国を結ぶルーとであった。嫌われ者の越前くらげのお陰で、‘有明海ルート’について思いかけずも検証することが出来た。
越前地方の人達は、「このクラゲの名前は、越前クラゲとせず、発生元の`揚子江クラゲ'と呼ぶべきである」と言っているという。最もな話である。私には思いもかけない情報の提供者となってくれたが・・・。

武蔵総社・大国魂神社

2006-10-02 23:30:37 | 歴史
 小生が神社に興味を持っている事を知った友人から、「家の近くに`立派な神社'があるので一度参拝に来たらいかがですか?」と言う話が来た。「何と言う神社か、資料があったら送ってくれ」と頼んでおいた。資料が送られてきた。
神社の名前は‘武蔵総社・大国魂神社’であった。送られてきた資料の地図を見ると神社は、JR京王線府中駅を降りると直ぐに大鳥居があり、神社の脇を府中街道が走り、JR武蔵野線の府中本町駅も近い、交通至便の地に立っている。
早速パンフレットに目を通してみた。パンフレットの記述をそのまま引用させてもらう。「由緒・・・大国魂神社は大国魂の大神を武蔵野国の守り神としてお祭りした社であります。この大神は出雲の大国主命と御同神で、大昔武蔵野国を開かれて・・・俗に大黒様、縁結びの神としても著名なお方であります」とある。
古事記を読み返してみると、大国主命の‘根の国訪問’の節にこのパンフレットの言っている話が記述されている。大国主命が根の国のスサノオに追われ出雲に帰ってきたとき、追うのを諦めたスサノオが大国主命に次のように言い渡す。「その汝が持てる生太刀、生弓矢を持ちて、汝が庶兄弟(八十神)をば、坂の御尾に追い伏せ、又河の瀬に追い払いて、おれ大国主神となり、また宇都志大国玉神となりて・・・・」とある。大国主命はこの時スサノオから別名も授かっていたのだ。`玉’が`魂'の変わっているが当て字の違いであり、神社の名前は正に、ここに紹介した古事記の大国主命の別名から来ているのであろう。
更にパンフレットの説明は続く。「大国魂神社の創立は景行天皇41年(西暦111年)5月5日で・・・」。1100年前に建立された神社でありながら、建てられた日にちが残っているとは・・・驚きである。そして大化の改新で大和朝廷が武蔵野国に国府を置くまでは、武蔵野国造が祭りごとをしていたと記されている。
説明するまでも無いが現在の地名の府中は、この国府から派生している。
 私はこれまで出雲国は、山陰の出雲の国に納まっていたような小さな国ではなく、山陰地方は勿論、越の国(今の越前から出羽の国までの広い範囲)から関東地方を治めていた`出雲王国'であったという説を展開してきた。そして関東に残る出雲の足跡をいくつも紹介してきた。大宮の氷川神社、守谷の一言主神社、霞ヶ浦の大杉神社、大洗の礒前神社などなど。そして天孫族と出雲族の天下分け目の戦い、建御雷神と建御名方神の出雲の国の伊那佐の小浜での戦いは、実は関東平野であったという大それた仮説を紹介してきた。興味のある方はこのブログの2005年11月3日付け「建御雷神について考える」でこの仮説を詳しく書いているので、覗いて頂ければ幸いである。
この大国魂神社の由緒に記載された大国主命の関東での活躍を見れば、この仮説が決して誇大妄想ではないことが言えるのではないか。
天孫族と出雲族の戦いは、天孫族が勝利を治めたが、パンフレットの説明を基にして考えれば、大化の改新の時代までは出雲系の子孫が国造を勤め、武蔵野国を治めていたとも考えられる。スサノオを祭る大宮の氷川神社が武蔵野国一の宮であることもこの仮説を後押ししてくれる。
大国魂神社の例大祭は、神社の創立の日、5月5日に行われる。俗に府中の「暗闇祭」と言われ有名である。一度は訪ねてみたい。