諏訪大社・上社の本宮を参拝した後、今回の旅の今一つの目的である「神長官守矢史料館」を訪ねた。神長官とは諏訪大社の神職の長を意味する。諏訪大社の神長官は代々守矢家が勤めている。
史料館で求めた`栞'に、守矢家についての説明があるので要旨を紹介する。
「室町時代初期に編纂された‘諏訪大明神画詞’によると、大和朝廷による日本統一の前の時代、この諏訪の地には洩矢(もりや)神を長(おさ)とする先住民族が狩猟を主体として住んでいた。そこに出雲王国の建御名方神率いる一族が、稲作の技術を持って進入して来た。洩矢族は力及ばず負けてしまう。しかし勝者である建御名方神は洩矢族を諏訪の共同経営者として用い、洩矢族の長を洩矢の神を祭る神官とした。この神官の名前が守矢家であり、現在の神官は78代目である。建御名方神と洩矢の神が戦った跡は現在も残っている。建御名方神の陣地跡には藤島明神が、洩矢の神のそれは天竜川を挟んで洩矢大明神が祭られている。」
この記述から次の事が言える。侵略者である建御名方神が諏訪大社の御祭神と成り、`諏訪様'として親しまれているのは、侵略者としての圧政は敷かず、この地に稲作を伝え、国を豊かにしたからと推察される。古事記の国譲りで、建御名方神は出雲の国の伊那佐の小浜で、天孫族の建御雷神と力比べをしたとあるが、諏訪から出雲まで戦いに行ったとは思えない。前回のブログで書いた如く、建御名方神の治めていた領地、越の国か関東の地で天孫族と戦ったのであろう。又天竜川を挟んで建つ二つの神社の話は、私のブログ・2006-2-1付けの「素戔鳴尊と氷川神社」で記した話、「荒川を挟んで東に天孫族の香取神社、西に出雲族の氷川神社が多くあるのは、天孫族と出雲族の戦いが関東であったことを物語っている」と同じ話であり、私の仮説を後押ししてくれる。
史料館の壁に張ってある地図に、諏訪大社上社から南西に直線距離で6キロ行った伊那市高遠町に守屋神社と言う神社が示されていた。係りの人に「この守屋神社は字が違いますが、こちらの守矢に関係がある神社ですか?」と尋ねたが、答えは「この守屋神社は神仏戦争で負けた物部守屋大連を祭る神社で、諏訪様とは関係がありません」とのことであった。
ここで大きな疑問が持ち上がる。諏訪大社上社の御神体は大社の裏山の‘守屋’山であり(勿論御祭神は建御名方神)、その字は物部‘守屋’の守屋である。しかしその上社の神職の名は‘守矢’である。資料館の係りの人の話では物部守屋は、蘇我氏との戦いに敗れこの地まで落ち延びて、この地に祭られたと言っていた。守屋山の頂上には磐座があり、守屋神社の奥の宮とされている。
物部守屋を祭る守屋神社の奥の宮が守屋山の頂上にあり、その守屋山を御神体とする諏訪大社上社の神官が、古代この地を治めていた洩矢族の末裔・78代目の守矢家。どちらのモリヤも同じ守屋山を御神体としている。この難問題をどう解けばいいのだろうか。
ここに一つの答えがある。私の仮説を紹介したい。
‘イスラエルの失われた十支族’にとってイスラエルのモリヤの地は聖なる地であった。紀元前のある時期に日本に渡来した十支族の内のある支族が、いち早く諏訪の地に入り、自らをモリヤ族と名乗り、狩猟を主としてこの地に安住していた。その後同じイスラエルの別の支族によって出雲王国ができ、出雲王国の同盟国・越の国の王子である建御名方神が、諏訪の国を侵略した。`モリヤ'が何であるかを知る建御名方神は、洩矢族の祭っていた神を認め、同じ神を祭った。これが諏訪大社となった。
その後イスラエルの支族の本流であったヤマト族が日本を治める天皇となり、同じイスラエルの支族の出雲系とされる物部氏が中心となる大和朝廷が出来上がっていた。そして有名な神仏戦争で蘇我氏に敗れた物部守屋は、同じ洩矢族を頼って諏訪まで落ち延び、洩矢族が御神体とするモリヤ山(洩矢山か?)の別の麓で、ひっそりと暮らしたのではないか。宝治元年(1247年)に編纂された「大祝信重解状」なる古文書に、「諏訪は物部大連の所領であった」と、あるインターネットに記されている。
その後モリヤ山にかっての領主様の物部守屋に敬意を払って`守屋'の字を当て、諏訪大社上社の神官の‘洩矢’は、`洩と言う字を嫌い'‘守矢’と言う字に変えたのではないだろうか。
「神長官守矢史料館」には、もっとワクワクさせる物が飾ってあった。次回に洩矢族を何故‘イスラエルの失われた支族’としたかの訳を、諏訪大社上社に伝わる奇祭「御頭祭」を引いて報告する。
史料館で求めた`栞'に、守矢家についての説明があるので要旨を紹介する。
「室町時代初期に編纂された‘諏訪大明神画詞’によると、大和朝廷による日本統一の前の時代、この諏訪の地には洩矢(もりや)神を長(おさ)とする先住民族が狩猟を主体として住んでいた。そこに出雲王国の建御名方神率いる一族が、稲作の技術を持って進入して来た。洩矢族は力及ばず負けてしまう。しかし勝者である建御名方神は洩矢族を諏訪の共同経営者として用い、洩矢族の長を洩矢の神を祭る神官とした。この神官の名前が守矢家であり、現在の神官は78代目である。建御名方神と洩矢の神が戦った跡は現在も残っている。建御名方神の陣地跡には藤島明神が、洩矢の神のそれは天竜川を挟んで洩矢大明神が祭られている。」
この記述から次の事が言える。侵略者である建御名方神が諏訪大社の御祭神と成り、`諏訪様'として親しまれているのは、侵略者としての圧政は敷かず、この地に稲作を伝え、国を豊かにしたからと推察される。古事記の国譲りで、建御名方神は出雲の国の伊那佐の小浜で、天孫族の建御雷神と力比べをしたとあるが、諏訪から出雲まで戦いに行ったとは思えない。前回のブログで書いた如く、建御名方神の治めていた領地、越の国か関東の地で天孫族と戦ったのであろう。又天竜川を挟んで建つ二つの神社の話は、私のブログ・2006-2-1付けの「素戔鳴尊と氷川神社」で記した話、「荒川を挟んで東に天孫族の香取神社、西に出雲族の氷川神社が多くあるのは、天孫族と出雲族の戦いが関東であったことを物語っている」と同じ話であり、私の仮説を後押ししてくれる。
史料館の壁に張ってある地図に、諏訪大社上社から南西に直線距離で6キロ行った伊那市高遠町に守屋神社と言う神社が示されていた。係りの人に「この守屋神社は字が違いますが、こちらの守矢に関係がある神社ですか?」と尋ねたが、答えは「この守屋神社は神仏戦争で負けた物部守屋大連を祭る神社で、諏訪様とは関係がありません」とのことであった。
ここで大きな疑問が持ち上がる。諏訪大社上社の御神体は大社の裏山の‘守屋’山であり(勿論御祭神は建御名方神)、その字は物部‘守屋’の守屋である。しかしその上社の神職の名は‘守矢’である。資料館の係りの人の話では物部守屋は、蘇我氏との戦いに敗れこの地まで落ち延びて、この地に祭られたと言っていた。守屋山の頂上には磐座があり、守屋神社の奥の宮とされている。
物部守屋を祭る守屋神社の奥の宮が守屋山の頂上にあり、その守屋山を御神体とする諏訪大社上社の神官が、古代この地を治めていた洩矢族の末裔・78代目の守矢家。どちらのモリヤも同じ守屋山を御神体としている。この難問題をどう解けばいいのだろうか。
ここに一つの答えがある。私の仮説を紹介したい。
‘イスラエルの失われた十支族’にとってイスラエルのモリヤの地は聖なる地であった。紀元前のある時期に日本に渡来した十支族の内のある支族が、いち早く諏訪の地に入り、自らをモリヤ族と名乗り、狩猟を主としてこの地に安住していた。その後同じイスラエルの別の支族によって出雲王国ができ、出雲王国の同盟国・越の国の王子である建御名方神が、諏訪の国を侵略した。`モリヤ'が何であるかを知る建御名方神は、洩矢族の祭っていた神を認め、同じ神を祭った。これが諏訪大社となった。
その後イスラエルの支族の本流であったヤマト族が日本を治める天皇となり、同じイスラエルの支族の出雲系とされる物部氏が中心となる大和朝廷が出来上がっていた。そして有名な神仏戦争で蘇我氏に敗れた物部守屋は、同じ洩矢族を頼って諏訪まで落ち延び、洩矢族が御神体とするモリヤ山(洩矢山か?)の別の麓で、ひっそりと暮らしたのではないか。宝治元年(1247年)に編纂された「大祝信重解状」なる古文書に、「諏訪は物部大連の所領であった」と、あるインターネットに記されている。
その後モリヤ山にかっての領主様の物部守屋に敬意を払って`守屋'の字を当て、諏訪大社上社の神官の‘洩矢’は、`洩と言う字を嫌い'‘守矢’と言う字に変えたのではないだろうか。
「神長官守矢史料館」には、もっとワクワクさせる物が飾ってあった。次回に洩矢族を何故‘イスラエルの失われた支族’としたかの訳を、諏訪大社上社に伝わる奇祭「御頭祭」を引いて報告する。