古事記の物語は史実を表わしたものとする時、その中に表わされた幾つかの御伽噺のような物語を実際の出来事として解釈しなければならない。言い換えると、その御伽噺の世界の話を現実にありえるような話に置き換え、それを仮説として提唱する必要がある。そしてその仮説を幾つかの事象を通して事実である可能性を示していく事により、古事記の世界が何らかの史実を語っているのではないかと言う事を、解き明かす事が出来る。
そんな視点で改めて海幸彦・山幸彦の兄弟の争いを見てみた。
天照大御神の孫のニニギノ命が天孫降臨後、笠沙の岬で木花咲夜姫と出会い、二人の間に生まれたのが海幸彦、山幸彦の兄弟である。物語はあまりにも有名であるので詳細は省くが、山幸彦が兄海幸彦から借りた釣り針を無くし、針を探しに海の宮を訪れる話である。私がこの御伽噺で一番気に掛かっていた事は、塩椎神(日本書紀では塩土老翁という字を当てている)の案内で着いた海の宮が、何処にあったのかということである。
最近発行された関祐二氏の著作「古代史謎解き紀行Ⅲ・九州邪馬台国編」にそのヒントがあった。この本の第二章で対馬の事が書かれているが、対馬市豊玉町にある和多津美神社についての記載があった。同神社の御祭神は海の神(わだつみのかみ)が祭られ、神社には「この神社の建てられた地には、その昔海神が建てた宮があった。この宮に山幸彦が釣り針を探しに来て、海神の娘・豊玉姫と出会い、姫をを娶とり3年をこの宮で過ごした」と言う社伝が残っていると言う。
この社伝から‘海彦・山彦の不思議の世界’に掛かっていた霧が、徐々に晴れてくるような気がする。町の名前が豊玉町と、姫の名前を残している事も歴史を語っているようで夢が膨らむ。
ニニギノ命が木花咲夜姫と出会った笠沙の岬と言うのは、薩摩半島の西海岸にある。ニニギノ命以降の物語が日向の海岸(宮崎県側)で起きたと言う先入観で見てきたため気づかなかったが、海幸彦・山幸彦の時代はまだ薩摩半島側に都を築いていたと考えると、対馬の和多津美神社との繋がりが違和感無く見えてくる。古代は薩摩半島を含め日向と呼んでいた時代が有るので、日向王朝の都が当初薩摩半島側にあったとしても可笑しな話ではない。
岩波文庫の古事記の注釈に、「山幸彦に負けた海幸彦は、隼人族となって大和朝廷に仕えた」と記されていることから、海幸彦側には最初から海に長けた隼人一族が付いていたことが推測される。隼人族は残された民族舞踊などから見て、東南アジア系の海洋民族と考えられることから、舟の扱いに長けた一族であった事が推測される。
このような背景を考えると海幸彦と政権を争っていた山幸彦も、強い水軍を得る必要があったと言えるだろう。兄から借りた針を亡くして探しに行った旅とは、実は強い水軍を探し、その水軍を味方につけるための旅だったと考えてはどうだろうか。そして山幸彦は当時圧倒的な水軍を擁した安曇族が、対馬に拠点を置いていたことを知っていたのであろう。笠沙の岬から黒潮に乗れば対馬には簡単に辿り着く。そして綿津身神の娘、言い換えると安曇族の姫・豊玉姫を娶り、海戦の術を学びながら3年暮らした。そして安曇水軍の婿殿としてすっかり成長した山幸彦は一族を引き連れて薩摩に帰り、兄海幸彦を破って政権を手に入れた歴史があったと考えられないだろうか。古事記の言う綿津身神から貰った潮満珠・潮乾珠を使って潮を自在に操り兄を懲らしめたと言う話は、綿津身神の‘潮の流れを巧みに操る海戦の術’を超能力を持つ珠に置き換えて表現したのではないだろうか。つまり対馬に留まった3年の間に海戦の術を全て習得した事を比喩的に言い表わしたと考えると、この御伽噺に隠された歴史が見えてくるのではないか。
その後の日向王朝は都を宮崎県側の西都に移し、神武の時代へ移っていく。山幸彦が兄海幸彦を破り、兄に従っていた隼人族と、自ら対馬に行って従えた安曇氏の二つの水軍を得たことにより、当時の倭国で最も強力な水軍を備えた国が日向に登場した事を意味し、その強力な水軍力が以後の神武東征への礎になって行ったと考えている。その意味でこの海幸彦と山幸彦の物語は、古代大和朝廷誕生にとって大事な見過ごす事の出来ない‘御伽噺’であると言える。
そんな視点で改めて海幸彦・山幸彦の兄弟の争いを見てみた。
天照大御神の孫のニニギノ命が天孫降臨後、笠沙の岬で木花咲夜姫と出会い、二人の間に生まれたのが海幸彦、山幸彦の兄弟である。物語はあまりにも有名であるので詳細は省くが、山幸彦が兄海幸彦から借りた釣り針を無くし、針を探しに海の宮を訪れる話である。私がこの御伽噺で一番気に掛かっていた事は、塩椎神(日本書紀では塩土老翁という字を当てている)の案内で着いた海の宮が、何処にあったのかということである。
最近発行された関祐二氏の著作「古代史謎解き紀行Ⅲ・九州邪馬台国編」にそのヒントがあった。この本の第二章で対馬の事が書かれているが、対馬市豊玉町にある和多津美神社についての記載があった。同神社の御祭神は海の神(わだつみのかみ)が祭られ、神社には「この神社の建てられた地には、その昔海神が建てた宮があった。この宮に山幸彦が釣り針を探しに来て、海神の娘・豊玉姫と出会い、姫をを娶とり3年をこの宮で過ごした」と言う社伝が残っていると言う。
この社伝から‘海彦・山彦の不思議の世界’に掛かっていた霧が、徐々に晴れてくるような気がする。町の名前が豊玉町と、姫の名前を残している事も歴史を語っているようで夢が膨らむ。
ニニギノ命が木花咲夜姫と出会った笠沙の岬と言うのは、薩摩半島の西海岸にある。ニニギノ命以降の物語が日向の海岸(宮崎県側)で起きたと言う先入観で見てきたため気づかなかったが、海幸彦・山幸彦の時代はまだ薩摩半島側に都を築いていたと考えると、対馬の和多津美神社との繋がりが違和感無く見えてくる。古代は薩摩半島を含め日向と呼んでいた時代が有るので、日向王朝の都が当初薩摩半島側にあったとしても可笑しな話ではない。
岩波文庫の古事記の注釈に、「山幸彦に負けた海幸彦は、隼人族となって大和朝廷に仕えた」と記されていることから、海幸彦側には最初から海に長けた隼人一族が付いていたことが推測される。隼人族は残された民族舞踊などから見て、東南アジア系の海洋民族と考えられることから、舟の扱いに長けた一族であった事が推測される。
このような背景を考えると海幸彦と政権を争っていた山幸彦も、強い水軍を得る必要があったと言えるだろう。兄から借りた針を亡くして探しに行った旅とは、実は強い水軍を探し、その水軍を味方につけるための旅だったと考えてはどうだろうか。そして山幸彦は当時圧倒的な水軍を擁した安曇族が、対馬に拠点を置いていたことを知っていたのであろう。笠沙の岬から黒潮に乗れば対馬には簡単に辿り着く。そして綿津身神の娘、言い換えると安曇族の姫・豊玉姫を娶り、海戦の術を学びながら3年暮らした。そして安曇水軍の婿殿としてすっかり成長した山幸彦は一族を引き連れて薩摩に帰り、兄海幸彦を破って政権を手に入れた歴史があったと考えられないだろうか。古事記の言う綿津身神から貰った潮満珠・潮乾珠を使って潮を自在に操り兄を懲らしめたと言う話は、綿津身神の‘潮の流れを巧みに操る海戦の術’を超能力を持つ珠に置き換えて表現したのではないだろうか。つまり対馬に留まった3年の間に海戦の術を全て習得した事を比喩的に言い表わしたと考えると、この御伽噺に隠された歴史が見えてくるのではないか。
その後の日向王朝は都を宮崎県側の西都に移し、神武の時代へ移っていく。山幸彦が兄海幸彦を破り、兄に従っていた隼人族と、自ら対馬に行って従えた安曇氏の二つの水軍を得たことにより、当時の倭国で最も強力な水軍を備えた国が日向に登場した事を意味し、その強力な水軍力が以後の神武東征への礎になって行ったと考えている。その意味でこの海幸彦と山幸彦の物語は、古代大和朝廷誕生にとって大事な見過ごす事の出来ない‘御伽噺’であると言える。