倭国、大和国とヘブライ王国

ヤマトとはヘブライ王国の神・ヤハウエの民を意味するヘブライ語‘ヤァ・ウマトゥ’が変化したものであろう

山幸彦の戦略

2006-07-30 01:51:43 | 歴史
 古事記の物語は史実を表わしたものとする時、その中に表わされた幾つかの御伽噺のような物語を実際の出来事として解釈しなければならない。言い換えると、その御伽噺の世界の話を現実にありえるような話に置き換え、それを仮説として提唱する必要がある。そしてその仮説を幾つかの事象を通して事実である可能性を示していく事により、古事記の世界が何らかの史実を語っているのではないかと言う事を、解き明かす事が出来る。
 そんな視点で改めて海幸彦・山幸彦の兄弟の争いを見てみた。
天照大御神の孫のニニギノ命が天孫降臨後、笠沙の岬で木花咲夜姫と出会い、二人の間に生まれたのが海幸彦、山幸彦の兄弟である。物語はあまりにも有名であるので詳細は省くが、山幸彦が兄海幸彦から借りた釣り針を無くし、針を探しに海の宮を訪れる話である。私がこの御伽噺で一番気に掛かっていた事は、塩椎神(日本書紀では塩土老翁という字を当てている)の案内で着いた海の宮が、何処にあったのかということである。
最近発行された関祐二氏の著作「古代史謎解き紀行Ⅲ・九州邪馬台国編」にそのヒントがあった。この本の第二章で対馬の事が書かれているが、対馬市豊玉町にある和多津美神社についての記載があった。同神社の御祭神は海の神(わだつみのかみ)が祭られ、神社には「この神社の建てられた地には、その昔海神が建てた宮があった。この宮に山幸彦が釣り針を探しに来て、海神の娘・豊玉姫と出会い、姫をを娶とり3年をこの宮で過ごした」と言う社伝が残っていると言う。
この社伝から‘海彦・山彦の不思議の世界’に掛かっていた霧が、徐々に晴れてくるような気がする。町の名前が豊玉町と、姫の名前を残している事も歴史を語っているようで夢が膨らむ。
ニニギノ命が木花咲夜姫と出会った笠沙の岬と言うのは、薩摩半島の西海岸にある。ニニギノ命以降の物語が日向の海岸(宮崎県側)で起きたと言う先入観で見てきたため気づかなかったが、海幸彦・山幸彦の時代はまだ薩摩半島側に都を築いていたと考えると、対馬の和多津美神社との繋がりが違和感無く見えてくる。古代は薩摩半島を含め日向と呼んでいた時代が有るので、日向王朝の都が当初薩摩半島側にあったとしても可笑しな話ではない。
岩波文庫の古事記の注釈に、「山幸彦に負けた海幸彦は、隼人族となって大和朝廷に仕えた」と記されていることから、海幸彦側には最初から海に長けた隼人一族が付いていたことが推測される。隼人族は残された民族舞踊などから見て、東南アジア系の海洋民族と考えられることから、舟の扱いに長けた一族であった事が推測される。
このような背景を考えると海幸彦と政権を争っていた山幸彦も、強い水軍を得る必要があったと言えるだろう。兄から借りた針を亡くして探しに行った旅とは、実は強い水軍を探し、その水軍を味方につけるための旅だったと考えてはどうだろうか。そして山幸彦は当時圧倒的な水軍を擁した安曇族が、対馬に拠点を置いていたことを知っていたのであろう。笠沙の岬から黒潮に乗れば対馬には簡単に辿り着く。そして綿津身神の娘、言い換えると安曇族の姫・豊玉姫を娶り、海戦の術を学びながら3年暮らした。そして安曇水軍の婿殿としてすっかり成長した山幸彦は一族を引き連れて薩摩に帰り、兄海幸彦を破って政権を手に入れた歴史があったと考えられないだろうか。古事記の言う綿津身神から貰った潮満珠・潮乾珠を使って潮を自在に操り兄を懲らしめたと言う話は、綿津身神の‘潮の流れを巧みに操る海戦の術’を超能力を持つ珠に置き換えて表現したのではないだろうか。つまり対馬に留まった3年の間に海戦の術を全て習得した事を比喩的に言い表わしたと考えると、この御伽噺に隠された歴史が見えてくるのではないか。
その後の日向王朝は都を宮崎県側の西都に移し、神武の時代へ移っていく。山幸彦が兄海幸彦を破り、兄に従っていた隼人族と、自ら対馬に行って従えた安曇氏の二つの水軍を得たことにより、当時の倭国で最も強力な水軍を備えた国が日向に登場した事を意味し、その強力な水軍力が以後の神武東征への礎になって行ったと考えている。その意味でこの海幸彦と山幸彦の物語は、古代大和朝廷誕生にとって大事な見過ごす事の出来ない‘御伽噺’であると言える。

仮説は真実を見つけるための必要な手法である

2006-07-25 23:31:23 | 歴史
 これまで「大和朝廷はイスラエルの失われた支族によって造られた」と言う仮説に基づき、数々の事象に仮説を立てて話を進めてきた。
例えば;
@ 古事記の地名や物の名前の殆どに`天'と言う冠詞を付けているのに、何故高天原だけは`天'が頭に付かないのか?
@ 古事記の島生みの最初が何故淡路島なのか?四国を生んだ後、九州や本州を生まずに、何故壱岐の島や佐渡島などの島を生んだのか?
@ 大八島を生んだ後に対馬、五島列島などの島々を生んだのをどう説明したらよいのか?
@ 皇紀元年を何故紀元前660年前としたのか?
@ ヤマトは何故山戸、山門、山都、山処では無く大和なのか?
 皇紀元年については「中国の歴史書、辛酉革命説」を基に説明しているものがあるがどうも説得力に乏しい。奈良の大和の地名についても明確に説明した資料に出会っていない。出雲神話の「八岐大蛇」や「因幡の白兎」の何故?などの本は多い。私の示したような「何故?」について納得いく説明がなされた本が見当たらないのは、それを説明出来る良い仮説が見当たらないからではないのか。
アインシュタインの相対性理論も仮説から出発した。
古代史の権威・安本美典氏も仮説の重要性を説いている。氏の著書「大和朝廷の起源」に面白い話が載っていたので紹介したい。第一章の「新しい文献学」の中に次のような記述がある。「二十の扉と言う遊びがある。この遊びは一つ一つの扉はゆるくても、二十の扉を潜り抜けた答えは真の答えに極めて近くなる。ある仮説が十個の資料と矛盾しなければ、その仮説を採択した場合、その採択自体が誤っている事は千回に一回も無い事が確立の計算により求めうる」と述べている。氏は古事記や日本書紀の記述は史実であると言う仮説をたて、種々の事象(古文書、神社の言われ、遺跡など)により謎解きをしている。
そしてこの方法により西洋の御伽噺とされていた「イリウス」や「オデッセイ」等のホメロスの空想が、アマチュアの探検家シュリーマンの「御伽噺は史実である」と信じた探究心が実を結び、トロイの古代遺跡が発掘された話を引用し、「古代の研究は仮説検証的な方法によるべきである」と述べている。
安本先生はこれらの話を引用し「記紀は史実である」と言う視点で話を進めている。アプローチの仕方が多少違うが、私も同じ考えであるので、楽しく読まさせて頂いている。
エジプトのファラ王・ツタンカーメンを発掘したハワード・カーターもシュリーマンと同じような人であったのではないか。
先にあげた「何故?」について、私は「大和朝廷他古代の日本の豪族が、イスラエルの失われた支族が祖になっている」と言う仮説を視点にして、「古事記の神代編」をその一点で読み解いてきた。ここではその内容については重複するので記載しないが、これらを記載したブログを紹介しておくので、興味のある方は遡って読んで頂ければありがたい。
@2005-06-13・・・倭国と大和国
@2005-06-13・・・皇紀はなぜ2600年
@2005-08-28・・・国生みの秘密
@2005-11-09・・・改めてヤマトとは
@2001-01-03・・・古事記の斜め読み


 

出雲の東北弁

2006-07-16 01:21:53 | 歴史
 リタィアした後、ボケ防止と時間潰しのために、60の手習いを始めている。
一つは太極拳、これは「踊りと同じで前葉頭を使うのでボケ防止になる」と言う事と、「太極拳の踊り方が下半身を鍛える効果がある」と言う事で始めた。初めて2年になるが奥が深い。終生の友となりそうだ。
今一つは英会話である。これも大きく二つの理由による。一つは若い頃からロックとハリウッド映画に夢中になっていたことから、アメリカ大好き人間である事。今一つは太極拳同様ボケ防止のためである。英会話は先ずは語彙を増やさなければとASAHI WEEKLYを読んでいる。そのA.W.に面白い記事が載っていた。
それは寺沢盾東大教授の書いているコラム「英語を旅する」(7)の中にあった。記事の後半に英国の地名に関する話があり、「英国の言葉はケルト人に依る物が多いが、地名に限られている。ロンドン、テームズなどがそれである。地名に留まったのはゲルマンの侵略時、ケルト人とゲルマン人の間に殆ど接触が無く、ケルト人が北に押しやられた事を示している」」としている。
昨年の11月28日の私のブログ「地名から見えてくること」で次のような話をした。「北海道の地名の殆ど、東北の地名の多くもアイヌ語である」との話から「侵略者達はその土地を支配する時、その土地の名前が明確なときは、先住民の使っていた地名を使う」 と言う意見を述べ、多くの事例を紹介した。正に私の推測と同じ話が英国でも起きていたのである。これらの事から言語の分布からも可なりの歴史が見えると言う事が解る。
ここである映画を思い出した。松本清張原作の「砂の器」である。この映画は勿論推理小説であるが、謎解きのキーポイントが「東北弁」で有ったと言う事で、何故か記憶に強く残っている。粗筋を話さなければ話が進まないのでお付き合い願うが、かなり前に見た映画なので多少の記憶違いはご容赦。
 犯人の足がかりが「東北弁を話していた」と言う事から、東北を中心に捜査が進むが、手がかりが掴めない。万事休した刑事が図書館に出向き、東北弁について改めて勉強し直した。その結果東北弁が思わぬ地域にも有る事を発見する。その思わぬところと言うのは山陰地方の‘出雲’であった。捜査は出雲に絞られ事件は解決した。そして「出雲に何故東北弁(いわゆるズーズー弁)が残ったのか?」について次のように説明していた。
アイヌ人を北に追いやった縄文人が広く倭国に分布していた。(別の資料によると縄文時代は東日本の人口密度が高く、西は低かったという。それは東北地方の方が狩猟・採取社会に適していたためと説明している)縄文人はズーズー弁を使っていた。その後黒潮に乗ってやってきた南方系や、朝鮮半島を経由して来たと思われる大陸系の人々が九州から西に稲作文化と共に東に向かい、ジワジワと縄文人を東から北へ押しやった。この時北へ逃げ損ねた部族が山陰地方にいた。山陰に残された部族は九州側から侵入した部族に東に追いやられ、近畿地方から侵入してきた部族によって西に追いやられ、山陰の真ん中である出雲に追い詰められ、逃げる事を止めた。これが「出雲地方の人達がズーズー弁を使っている理由である」と説明されている。能登半島の先と、房総半島の先に残るズーズー弁も同じ理由で、「これ以上逃げられなかったので残った」としている。
手元にある国語辞典(角川書店発行)の巻末に記載されている「全日本アクセント分布図およびアクセントの分類図」は、正にこの話を裏付ける地図となっている。
このブログにこの地図を貼り付けることが出来ないのが残念であるが、地図には縄文人を北に押しやった関東甲信越式アクセントの勢力がはっきり分布しており、その勢力を近畿地方から締め出したと考えられる`京阪式アクセント'の勢力が近畿地方から西を占めている。そして関東甲信越式アクセントと京阪式アクセントの境が、前回のブログの日本三関で仕切られた線(遠賀川式土器の分布境界線)と一致していた。正に言語の違い、イコール文化の違いである事が解る。各地の方言・アクセントからその地域の人々のルーツを探るのも楽しい旅になるかもしれない。

関東と関西

2006-07-09 00:54:07 | 歴史
 過日両国にある大江戸博物館へ行ってきた。既に何回か訪れているが、今回は「発掘された日本列島2006」と言う特別展示のコマーシャルに惹かれて行って来た。
大きな驚きは無かったがいくつかのトレビは有った。その一つは福岡県雑餉隈(読み方が解らないので失礼する)遺跡から発掘された美しい「石剣」である。今まで矢じりや斧などの石器は数多く見てきたが、銅剣、鉄剣と同じデザインの石剣を見たのは初めてであった。銅剣、鉄剣のレプリカとして作ったのであろう。説明文には「有柄式磨製石剣」とあり、今から2300年前の弥生時代初期の墓に副えられていたとしている。銅剣や鉄剣に形が酷似していると言う事は、その頃既に倭国の王族にはそれらの幾つかは伝わっていたが、望めども手に入らなかった地方の豪族が、石を削り、磨きに磨いて模造品を造り得意になっていた姿が目に浮かぶ。私見になるが、発掘された遺跡は地方豪族のものであったのではないだろうか。
そのほか縄文時代に(今から13000年前)近畿、東海の石材(安山岩、流紋岩)が関東の千葉まで運ばれていた可能性があるという発掘も、ヒスイの伝播範囲の広さと同様縄文時代、既に全国規模の物流があったことが想像され、「古代人侮れず」の思いを新たにする。
私の求めていた古代のロマンも一つ見つかった。それは島根県隠岐の島から1300~1400年前の都風の食器やベルトなどが発掘されたというニュースだ。始め隠岐の島に流された後醍醐天皇に係わる品かと考えたが、後醍醐天皇は鎌倉幕府以降(700年前)の天皇である事を考えると、私の自論である「イスラエルの失われた支族」が倭国を侵略する時、隠岐の島を拠点としていた話の裏付けとなる遺品ではないのだろうか。都で流行ったのは1300年前であったかもしれないが、イスラエルの支族が持ってきたのはもっと古い時代のものであったはずであり、時代の流れを考えても決して可笑しな話ではない。特に西日本では出土例の少ない銅椀が発掘されている事はイスラエルの支族の隠岐(置き)土産ではなかろうか。
 ある地図の前で足が止まった。それは「遠賀川式土器の分布図」と言う題の日本全土を示す地図であった。その地図は関が原から東が濃い緑色で塗られ、そこに黒い点々が東北地方まで分布している。ところが関が原から西にはその点がない。遠賀川と言うのは九州福岡県を流れ、日本海に注ぐ川で、神武天皇も東征の途中で立ち寄ったと言われる地であるのに、その西日本に遠賀川土器の分布を示す点が無いことに疑問を感じて、係りの人に尋ねた。答えは簡単であった。「関が原から西には遠賀川式土器があらゆるところから発掘されているので、特に発掘を示す黒い点が示されていないのです」と。係りの人もこの地図の舌足らずを認めて恐縮していたが、私はこの説明を聞いてふと有る事に気がついた。関が原から東を、関の東側という意味で関東と言い、西を関西と言っていたのか!こんな簡単な事に今まで気がつかなかった自分が腹立たしかった。
関が原のイワレは不破の関があった原地であったから、関が有る原・‘関が原’と呼ばれたのであろう。改めて関所について調べてみた。この不破の関は672年の壬申の乱の時に、天武朝が中仙道に築いた関で、この他に東海道の鈴鹿の関、北陸道の愛発(アラチ)の関があり、合わせて日本三関と呼ばれていたと言う。
この三関は多くを語っている。当時(7世紀)の大和朝廷にとっては、この三つの関の東側は蝦夷の住む国として常に警戒をしていた事の証である。既に記紀に依れば崇神天皇の四天王による征伐、日本武尊による東征などで何度と無く遠征はして来たが、きっと面従拝復であったのであろう。その結果これらの三関が置かれたのではないのか。現在でもこの不破の関で文化が二分されていると言う意見も有るが、その発生は1300年前に遡っていることが、遠賀川式土器の分布図から見える。それが地政学的なことか民族学的なことから来ているのかは定かではないが、1300年を経ても何故か、関が原から東は、西の文化に全て染まる事はなかったということを表わしているのであろう。
ここで不思議な事に気がつく。前回紹介した継体天皇が越の国から大和に入ったと言う話だ。北陸道の愛発の関とは現在の敦賀市の南、琵琶湖の北限くらいのところにあったといわれている。と言う事は関の向こう側の人、言い換えると蝦夷の人が天皇になったと言う事にならないだろうか。
継体天皇についてはこのような視点から見ても不可解な天皇であるが、一方で継体天皇がイスラエルの御三家の一つの出であったと考えると、あまり違和感無く受け入れる事ができる。記紀は何か多くの事を隠しているのではないだろうか。

三つの王朝

2006-07-02 01:35:47 | 歴史
 戦後明治政府によって作られた天皇を現人神とする呪縛から逃れた日本の歴史家は、万世一系の天皇家について疑問を持ち、自由な研究を進めてきた。
それらの中には、天皇家は何度かの交代があったとする説が多く見られ、その代表が江上波夫先生の騎馬民族による王朝の交代であろう。
私も「天皇家は何度か入れ替わっている派」である。特に第26代継体天皇に贈られた「体制を引き継いだ」と言う意味の諡は、‘万世一系’の天皇家にはそぐわない名となっている。
天皇の名は記紀を起こした時代(天武・持統天皇の時代)に贈られた名(諡・贈り名)であり、天皇の生涯を二つの文字で表わしたように見える。雄略天皇と武烈天皇はその字からも解るとおり荒々しかった天皇であったと言う。仁徳天皇は正にその名の通り、‘仁’と‘徳’が桁外れに優れた天皇であったという。このような視点で天皇の名を見てくると、125代に渡る天皇の中で`神'と言う字を戴いている天皇が3人いる事に興味を引かれる。初代天皇の神武天皇と、神武と同じ旧名・始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト)の名を持つ第10代崇神天皇と、第15代応神天皇である。
3人の天皇に`神'と言う諡を与えたのには、それなりの深い訳が有ると見ている。例えば`天`と言う諡を与えられた天皇が二人いる。第38代天智天皇と、第40代天武天皇である。この二人の天皇はその活躍が歴史上も明確であり、諡をつけた時代に生きた偉大な天皇である事を考えると`天`と言う字が与えられても不思議ではない。天と神のどちらが格上かは定かでないが、神の居る所が天である事を考えると、神の方に実質的な重みがあるように思える。
その重い‘神’という字を与えられた3人の天皇は、どのような理由から神とされたのだろうか。
神武天皇と崇神天皇は始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト)と言う同じ名を持っている。その名の通り、神武は大和に都を築いた天皇であり、崇神は東国を含め広く倭国を征服した天皇としてその名が与えられている。応神天皇はどうであろうか。母・神功皇后の陰になり、母が死んだ後60歳で天皇となっている。日本書紀では110歳、古事記では130歳で崩じたとされているが、60歳で天皇になった後もこれと言った目立った活躍は記述されていない。
この目立たない天皇に、何故、偉大な神武、崇神と同じ‘神’と言う字を贈ったのであろうか。
天皇家の政は三つの王朝が交代で務めてきたと考え、その夫々の始祖となった天皇に`神'と言う字を贈ったと考えてみてはどうだろうか。その三つとは今までのブログで記してきた三つの海の道に係わる次の三つの国である。
一つが黒潮を利用して淡路島に上陸し、四国、九州を侵略し有明海に面した地を都とした邪馬台国。その後邪馬台国は有明海から五島列島を経由し、百済との交流の道を持った。
二つ目が朝鮮の新羅の国から親潮に乗り、その後黒潮に乗って隠岐島から出雲に入った出雲王国。
三つ目が高麗国から親潮と黒潮を利用して佐渡島に渡り、本土を侵略して築いた越の国。
神武天皇は邪馬台国の血を引く初代王と言う事から‘神’と言う字を与えられた。
崇神天皇は出雲系の初代天皇として`神'の称号を与えられたのではないだろうか。何故出雲系かと言うと古事記の中に「崇神天皇の時代に疫病が流行った時、天皇の夢枕に大国主命が現れ、『私を祭れば災いが終わる』と告げられ、厚く祭ったところ良い世になった」と言う話が載っている。
この事象に対する一般の説明は、「疫病が流行ったのは大国主命が天孫族に対して祟ったので、祟りを治めるために祭った」としているが私は違うと考えている。崇神天皇は出雲系の天皇であったのに、出雲の神をないがしろにしていたため、罰が当たった(疫病が流行った)と考えて、改めてご先祖様を厚く供養したのがこの記述であると思っている。ご先祖に祟られた神、それが崇神天皇なのである。
先に紹介した江上先生は騎馬民族は東北アジア系であったとしている。そこから見えるルートは新羅を通ることであり、それは新羅と深い関わりが出来る事を意味する。また笠原英彦氏の『天皇総覧』の崇神天皇の項で、「崇神天皇は騎馬民族の流れを汲む」と述べている。私の話と妙に繋がる様な気がする。
そして応神天皇は越の国系の初代天皇であったので、`神'と言う字が与えられたと考えている。最初に天皇の諡のところで説明した継体天皇は、越の国から応神天皇の五世として天皇に迎えられている。応神天皇は神功皇后の子であるとされているが、「父・仲哀天皇の子ではない」と言う説が一般的である。神功皇后の‘息長帯比売(オキナガタラシヒメ)’という名から、越系の息長氏との繋がりが考えられ、新羅征伐の時高麗の国の応援があったのではないか。その時高麗の王子を自分が生んだ子として連れ帰り、仲哀天皇の皇太子たちを滅ぼし、吾が子を応神天皇にしたとすれば、新しい高麗系の天皇が生れたことになる。しかしその時代は「応神天皇が高麗系である」という話は伏せられていたのであろう。時代が移り、越の国から高麗系の継体天皇が堂々と迎えられる事になり、高麗系の初代天皇’であった誉田別尊(ホムタワケノミコト)に‘神’と言う字を贈り、応神天皇としたのではないだろうか。
そしてこれら三つの王朝は全て『イスラエルの失われた十支族』の部族が作った王朝であろうと考えている。それらの王朝は夫々の海の道を介して朝鮮の国々と強い連携を保ちながら、王国を築いていったと考えられないだろうか。そして最後は皆同じイスラエルの支族であったので容易に王朝を交代する事が出来たといえる。徳川の御三家がそうであったように、イスラエルの御三家が倭国の王朝になったと考えれば、この壮大な仮説も解り易いのではないだろうか。