倭国、大和国とヘブライ王国

ヤマトとはヘブライ王国の神・ヤハウエの民を意味するヘブライ語‘ヤァ・ウマトゥ’が変化したものであろう

奈良・古代への旅、春日大社は語る

2005-10-28 21:00:47 | 歴史
 伊勢を後にして三桁の国道368号を通って奈良に向かった。伊勢自動車道(高速道)を使って亀山市を経由し、阪奈自動車道(高速道)で奈良に向かうのが時間的には早いが、あえて366号を使ってくねくねの山間道を通ったのには、訳がある。
古事記には神武天皇が難波の国を攻めるのに苦労し、正攻法を諦め熊野灘を回り、日を背に攻める戦法を取ったと記述されている。そして熊野の山中から難波に向かったと言う古事記の記述について、その上陸地点が伊勢であると考えているからである。かねてより私は色々な事象について、皆イワレ、由来が必要であると述べてきた。日本で最高位の伊勢神宮が伊勢に在るその由来は‘神武天皇がそこに上陸したからだ'と考えている。伊勢に上陸したとすれば難波(奈良・橿原)に向かうには今の国道368号が最も適切な道と思えたので同じ道を選んだ。地図にも旧名として‘伊勢本街道'と記されている。そしてこの街道が神武天皇を祭る橿原神宮へと通じている事も、私の仮説を裏付けているようで更に勇気付けられる。
奈良市の最初の宿は橿原神宮のすぐそばに決めた。橿原神宮は神武天皇が天皇の即位の礼を取られたと言う‘橿原宮’跡に、京都御所の建物を使い明治23年に建立されたと言う。パンフレットには載っていなかったが神官から聞いた話では現在の神宮は今から65年前、皇紀2600年を記念して新たに造営されたと言う。太平洋戦争開戦の1年前であり、この年の紀元節(今の建国記念日)は大変な盛り上がりを見せ、皇居を提灯行列が埋めたと言う。その熱気が戦争へとなだれ込んでいったのであろう。母と昔話をすると戦争を思い出し「紀元は2600年・・・・」と歌っている。(従って今年は皇紀2665年に当たる)
そんな歴史からか伊勢神宮、熱田神宮に比して森は広いが木々が年代を感じさせない。しかし神宮は真に立派で初代天皇を祭るにふさわしい威容を誇っていた。神武天皇の東征物語を思い出しながら、神宮に深く参拝した。
翌日、翌々日と市内の世界遺産をゆっくりと見学した。三日間かけてもとても見切れなかった。薬師寺、法隆寺、東大寺の大仏・・・・・ここではそれらは本筋ではないので別の機会に旅行記として書いてみたいと思っている。
奈良でイスラエルを感じたのは春日大社である。東大寺の大仏を仰ぎ見て祈り、鹿が我が物顔で歩く奈良公園を歩き、春日大社の深い森の中を参道に沿って本殿に向かった。
春日大社は天皇家の外戚として紀元700年からほぼ100年にわたって権力をほしいままにした藤原氏の氏神である。御祭神は鹿島神宮の御祭神・建御雷神が祭られている。由来には藤原氏の祖といわれる中臣鎌足が鹿島神宮のある茨城、鹿島の生まれであることと、ある時建御雷神が奈良の春日山に白馬に乗って降臨したというイワレから御祭神とし、長く藤原氏の氏神としたとしていると説明されていた。古事記の天岩戸の節で天照大神が岩戸に隠れたとき外で「ひー、ふー、みー・・」と祝詞を詠んだあの天児屋命(アメノコヤネノミコト)が中臣氏(藤原氏)の祖と記されている。
春日大社で頂いた‘浄(きよめ)'と言う大社発行の機関紙・第27号に面白い記事が乗っていた。春日大社で6月と12月に行われる‘大祓式'であげられる祝詞について説明されている。この大祓詞の起源は藤原氏の祖である中臣氏が聞いた神の声をそのまま祝詞としているが、機関紙の中で宮司は「毎日心をこめて唱えてもまったく意味が解らない」と述べている。その意味の解らない祝詞とは「ひーふーみー・・・」ではないのか?!天岩戸の物語で藤原氏の祖となった天児屋命が岩戸の前であげた祝詞ではないのだろうか。先に「天岩戸騒動」の節で述べたように「ひー」の後に「とーっ」、「ふー」の後に「とーッ」と繋がるため「ひ、ふ、み」とも関連付けて考えられないのだろう。思わぬところで大発見である。1000年以上意味も解らずあげている祝詞はヘブライ語だった可能性がある。何かの機会に大社の関係者に尋ねてみたい。
皇室は血を最も大事にしている。その皇室が100年にわたって婚姻関係を続けた藤原氏、そしてその祖先が天孫族の天子屋根命であること、天孫族のエース・建御雷神を御祭神として祭り、宮司も意味の解らない祝詞を上げていることなどを考えると、藤原氏もまた「失われたイスラエルの十支族」の一族であるような気がしてくる。

<追記>
執筆後春日大社から祝詞についての資料を送っていただいた。誠に残念ながらその祝詞は「ひーふーみー」ではなく、ヘブライ語でもなかった。大和言葉であるが小生には到底理解できなかった。


伊勢、奈良へ、日本の古代を尋ねて

2005-10-21 23:56:24 | 歴史
 これまで色々日本の古代について書いて来たが、実は今まで一度も伊勢、奈良を訪ねたことがなかった。意を決して古代を肌で感じるべく車のハンドルを取った。
 最初に尋ねたのは「神社から何かが見える」の項で書いた、皇室で第二位に位置づけている「熱田神宮」。今まで関東地区ではそれぞれに一ノ宮に位置づけられている鹿島神宮、香取神宮へ参拝し、それなりに広く、深い森に覆われ荘厳な神社であると感じていた。しかし熱田神宮はさすがに皇室が第二位に位置づける神社であった。神宮の森は、創立以来1900年と言われる時を感じさせ、樹齢千年以上あるのではと思わせる大木で覆われていた。そして境内に警察官が警備する物々しさには圧倒された。神宮はやはりただならぬ雰囲気を肌で感じさせる。
御神体は皇位継承に欠かせない三種の神器の一つ「草薙の剣」であることは言を待たない。
参拝後、宝物館を尋ねた。御神体の‘草薙の剣’のレプリカぐらいは見られるだろうと期待して望んだが、全くそのかけらも無く空振りであった。先に「神武東征を読む」で記したが、神武天皇が家来を従え筏に乗って敵地を目指す絵に、神武天皇が腰に帯びている刀が、サダムフセインが刀をかざして写っている写真の刀と同じであることを述べた。神宮から頂いた資料には刀の由来などが述べられているが、草薙の剣の写真も絵も、勿論レプリカも無いことにとても違和感を覚えるのは私だけだろうか。
御祭神は熱田様と呼ばれている天照大神、素戔鳴尊、そして皇室の中では第一のヒーローであろう日本武尊である。この日本武尊が草薙の剣を使って活躍し、それまで蝦夷の地であった伊勢以東を切り従えたのである。
頂いた資料に熱田神宮の神官は尾張氏と記されていた。私はこの草薙の剣が多分アラビア風の剣であろうと想定し、これを管理する尾張氏が、出雲大社の宮司の千家、諏訪大社の守矢氏と同じように、イスラエルの失われた支族の一族のような気がしてならない。
熱田神宮を後に次に訪ねたのは伊勢神宮である。日本国内最高位の神宮であることは言うまでもない。昔西行法師がこの地を訪れ「何様がおわしますかはしらねども かたじけなさに涙こぼるる」と詠んだその荘厳な雰囲気を、自らの肌で感じることが出来ると期待で胸が膨らんだ。お祓い町を通り、おかげ横丁を覗いている内にどんどんタイムスリップして過去へ戻って行く。宇治橋から眺める五十鈴川の上流、下流の美しい景色に、既に他の景色と違う‘何か’を感じた。そして玉砂利を踏んで参道を行くと木々の全てが年輪を重ねた大木で覆われ、熱田神宮の歴史を更に遡っていることを感じる。うっそうと茂る木々の葉のため光が届かぬことが、いっそうその荘厳な雰囲気をかもし出している。
伊勢神宮の警備は熱田以上であった。ちなみに全国数ある神社・神宮の中で警察により警備されているのは、伊勢と熱田の両神宮のみと言う。写真撮影も本殿近くなると禁止され、ただならぬ雰囲気が緊張感を呼び、身を引き締める。日本国の安泰を祈念しいつもより多くの賽銭を投じて参拝した。
周知の如く拝殿、本殿共に「式年遷宮」と呼ばれる習いにより、二十年ごとに神殿を作り変えるので神社の古さは感じ無い。次の遷宮は平成25年に行われる。
説明するまでも無いが伊勢神宮の御祭神は天照大神であり、御神体は三種の神器の一つ「八咫の鏡」である。神宮を参拝し沢山のパンフレット、資料を頂いたがどれにも「八咫の鏡」のことには触れていなかった。熱田神宮では「草薙の剣」のことが詳しく説明されているのと比べると、又別の違和感を感じざるを得ない。何故なのだろうか。この鏡は先に述べたことが有るが、M.トケイヤー氏の著「日本・ユダヤ封印の古代史」の中に以下のように記述されている。「鏡の裏面にはヘブライ語で‘我在る故に我在り'と記されている。しかし皇室の方もこれを見ることが許されない」と。頂いた資料に「八咫の鏡」のことが何も書かれていない事と、何か因果関係があるのだろうか?
この旅の一番の目的は伊勢神宮の内宮と外宮を繋ぐ参道に在ると言う、ダビデの星(イスラエルの国旗の星)が刻まれた石灯籠を、この目で確認することであった。
内宮と外宮の参拝を終てから、両宮を繋げる参道を探したが見つからなかった。警備に当たっていた人に尋ねたが「そのような参道は無い」と言うことだった。それでも納得できず神宮の社務所の神官に尋ねたところ「そういう石灯籠は在りますが参道にはありません。神宮司庁へ行く道の両側にあります。但し神宮で立てた物ではなく、何方かが寄贈されたもので、そこにダビデの星が刻んであるようです。」とのことであった。「日・ユ同祖論」の筆者にとっては誠に残念な結果であった。しかしこの一事は他の沢山の事例から見れば本の些細な事ではあるが、私がイスラエルの失われた支族と言う問題に、大変興味を持つきっかけになったことから考えるとやはり残念ではあった。
一寸出鼻をくじかれた感があるが、気を取り直して古代の都・奈良へ向かった。

難波の国(那賀須泥彦軍)は何故強かったのか

2005-10-09 12:55:39 | 歴史
 古事記の記述の中で、天孫族が倭国を取るのにてこずったのは、出雲の国と畿内の難波の国くらいである。特に難波の国(旧やまと王国と言う本も多い)を攻めるために神倭伊波禮毘古命軍は多大な損害を出した。兄五瀬命を戦いでなくした後、高天原の助けを借りたがそれでも勝てず、最後には敵の内紛で漸く戦いに勝利を治めた。
何故難波の国はそれほど戦いに長けていたのだろうか。その鍵は難波の国に居た将軍‘ニギハヤヒの命’に有ると考えている。古事記の中では戦いの終わり頃に登場する様子が、次のように描かれている。
「故、ここにニギハヤヒの命参赴きて、天つ神の子(神倭伊波禮毘古命)に白ししく、『天つ神の御子天下りましつと聞けり。故、追いて参降り来つ。』とまをして~~~」。この意味は「天孫族の嫡流が来たのでこれに従う」としている。この‘ニギハヤヒの命’とは何者だろう。
古事記の注釈には‘アメノオシホミの命’の子とされている。古事記を遡ってこの‘アメノオシホミの命'なる神を探してみると‘天照大神と素戔鳴尊’の章に記されていた。この章で素戔鳴尊が「天の真名井を振り滌(すす)ぎて噛みに噛みて成れる神」の中にその名があった。素戔鳴尊が生んだ神の子神と言うことであれば、ニギハヤヒの命は天孫降臨のニニギの命と又従兄弟同士の関係になる。神倭伊波禮毘古命はニニギノ命の曾孫に当たることを考えると、ニギハヤヒの命とは4代のずれが生じることに成り、この場面で出会うことはありえない。ニギハヤヒの命の何代か後の子と言う事になろう。いずれにしても亜流では有るが、素戔鳴尊の子孫が那賀須泥彦の軍の中に居たと言う事になる。
古事記ではニギハヤヒの命についてこれ以上の説明が無いが、日本書紀にいま少し詳しく書かれている。日本書記によるとニギハヤヒの命は、神武東征のかなり前に‘天の磐舟’で難波の国に降臨したと記されている。
私は先に出雲の国も天孫族以外のイスラエルの支族が侵略したと書いてきた。これと同じように、難波の国にも別のイスラエルの支族(出雲族系)が先に、難波の国に入っていたということになるのであろう。
先に「国生みの秘密」で天孫族が倭国侵略に際し最初に淡路島に上陸し、東を伺ったが強い国(難波の国)が在った為、西に向かい四国を侵略したとした。ニギハヤヒの命もこの強い国を攻めたが攻めきれず、戦術を変え和平工作の後、同盟軍になったのではないのか。その後婚姻関係を結び、難波の国に温かく迎えられ副将軍の地位まで登って行ったのではないか。
そこでニギハヤヒの命は自分が持っていた武器、技術、戦術など全てを難波の国の軍に与えた。そして神倭伊波禮毘古命の軍にしても敗れない、強い軍隊に成長していったのであろう。そして神倭伊波禮毘古命の軍が、自分の出目の本家に当たる天孫族の直系の御子であることを確認した時点で、その軍門に降ることになるのである。
那賀須泥彦の軍が何故強かったのかについての考察は如何でしょうか?

このニギハヤヒの尊が後の物部氏の祖となると記されている。
ここにいま一つ失われたイスラエルの十支族の行方が解った。物部氏がその一族の一つであったのだ。天皇家、出雲族、秦氏、諏訪の守矢氏そして物部氏。まだ何の裏付けも無いが越の国や紀の国にも何かが見えてきそうな気がしてきた。