伊勢を後にして三桁の国道368号を通って奈良に向かった。伊勢自動車道(高速道)を使って亀山市を経由し、阪奈自動車道(高速道)で奈良に向かうのが時間的には早いが、あえて366号を使ってくねくねの山間道を通ったのには、訳がある。
古事記には神武天皇が難波の国を攻めるのに苦労し、正攻法を諦め熊野灘を回り、日を背に攻める戦法を取ったと記述されている。そして熊野の山中から難波に向かったと言う古事記の記述について、その上陸地点が伊勢であると考えているからである。かねてより私は色々な事象について、皆イワレ、由来が必要であると述べてきた。日本で最高位の伊勢神宮が伊勢に在るその由来は‘神武天皇がそこに上陸したからだ'と考えている。伊勢に上陸したとすれば難波(奈良・橿原)に向かうには今の国道368号が最も適切な道と思えたので同じ道を選んだ。地図にも旧名として‘伊勢本街道'と記されている。そしてこの街道が神武天皇を祭る橿原神宮へと通じている事も、私の仮説を裏付けているようで更に勇気付けられる。
奈良市の最初の宿は橿原神宮のすぐそばに決めた。橿原神宮は神武天皇が天皇の即位の礼を取られたと言う‘橿原宮’跡に、京都御所の建物を使い明治23年に建立されたと言う。パンフレットには載っていなかったが神官から聞いた話では現在の神宮は今から65年前、皇紀2600年を記念して新たに造営されたと言う。太平洋戦争開戦の1年前であり、この年の紀元節(今の建国記念日)は大変な盛り上がりを見せ、皇居を提灯行列が埋めたと言う。その熱気が戦争へとなだれ込んでいったのであろう。母と昔話をすると戦争を思い出し「紀元は2600年・・・・」と歌っている。(従って今年は皇紀2665年に当たる)
そんな歴史からか伊勢神宮、熱田神宮に比して森は広いが木々が年代を感じさせない。しかし神宮は真に立派で初代天皇を祭るにふさわしい威容を誇っていた。神武天皇の東征物語を思い出しながら、神宮に深く参拝した。
翌日、翌々日と市内の世界遺産をゆっくりと見学した。三日間かけてもとても見切れなかった。薬師寺、法隆寺、東大寺の大仏・・・・・ここではそれらは本筋ではないので別の機会に旅行記として書いてみたいと思っている。
奈良でイスラエルを感じたのは春日大社である。東大寺の大仏を仰ぎ見て祈り、鹿が我が物顔で歩く奈良公園を歩き、春日大社の深い森の中を参道に沿って本殿に向かった。
春日大社は天皇家の外戚として紀元700年からほぼ100年にわたって権力をほしいままにした藤原氏の氏神である。御祭神は鹿島神宮の御祭神・建御雷神が祭られている。由来には藤原氏の祖といわれる中臣鎌足が鹿島神宮のある茨城、鹿島の生まれであることと、ある時建御雷神が奈良の春日山に白馬に乗って降臨したというイワレから御祭神とし、長く藤原氏の氏神としたとしていると説明されていた。古事記の天岩戸の節で天照大神が岩戸に隠れたとき外で「ひー、ふー、みー・・」と祝詞を詠んだあの天児屋命(アメノコヤネノミコト)が中臣氏(藤原氏)の祖と記されている。
春日大社で頂いた‘浄(きよめ)'と言う大社発行の機関紙・第27号に面白い記事が乗っていた。春日大社で6月と12月に行われる‘大祓式'であげられる祝詞について説明されている。この大祓詞の起源は藤原氏の祖である中臣氏が聞いた神の声をそのまま祝詞としているが、機関紙の中で宮司は「毎日心をこめて唱えてもまったく意味が解らない」と述べている。その意味の解らない祝詞とは「ひーふーみー・・・」ではないのか?!天岩戸の物語で藤原氏の祖となった天児屋命が岩戸の前であげた祝詞ではないのだろうか。先に「天岩戸騒動」の節で述べたように「ひー」の後に「とーっ」、「ふー」の後に「とーッ」と繋がるため「ひ、ふ、み」とも関連付けて考えられないのだろう。思わぬところで大発見である。1000年以上意味も解らずあげている祝詞はヘブライ語だった可能性がある。何かの機会に大社の関係者に尋ねてみたい。
皇室は血を最も大事にしている。その皇室が100年にわたって婚姻関係を続けた藤原氏、そしてその祖先が天孫族の天子屋根命であること、天孫族のエース・建御雷神を御祭神として祭り、宮司も意味の解らない祝詞を上げていることなどを考えると、藤原氏もまた「失われたイスラエルの十支族」の一族であるような気がしてくる。
<追記>
執筆後春日大社から祝詞についての資料を送っていただいた。誠に残念ながらその祝詞は「ひーふーみー」ではなく、ヘブライ語でもなかった。大和言葉であるが小生には到底理解できなかった。
古事記には神武天皇が難波の国を攻めるのに苦労し、正攻法を諦め熊野灘を回り、日を背に攻める戦法を取ったと記述されている。そして熊野の山中から難波に向かったと言う古事記の記述について、その上陸地点が伊勢であると考えているからである。かねてより私は色々な事象について、皆イワレ、由来が必要であると述べてきた。日本で最高位の伊勢神宮が伊勢に在るその由来は‘神武天皇がそこに上陸したからだ'と考えている。伊勢に上陸したとすれば難波(奈良・橿原)に向かうには今の国道368号が最も適切な道と思えたので同じ道を選んだ。地図にも旧名として‘伊勢本街道'と記されている。そしてこの街道が神武天皇を祭る橿原神宮へと通じている事も、私の仮説を裏付けているようで更に勇気付けられる。
奈良市の最初の宿は橿原神宮のすぐそばに決めた。橿原神宮は神武天皇が天皇の即位の礼を取られたと言う‘橿原宮’跡に、京都御所の建物を使い明治23年に建立されたと言う。パンフレットには載っていなかったが神官から聞いた話では現在の神宮は今から65年前、皇紀2600年を記念して新たに造営されたと言う。太平洋戦争開戦の1年前であり、この年の紀元節(今の建国記念日)は大変な盛り上がりを見せ、皇居を提灯行列が埋めたと言う。その熱気が戦争へとなだれ込んでいったのであろう。母と昔話をすると戦争を思い出し「紀元は2600年・・・・」と歌っている。(従って今年は皇紀2665年に当たる)
そんな歴史からか伊勢神宮、熱田神宮に比して森は広いが木々が年代を感じさせない。しかし神宮は真に立派で初代天皇を祭るにふさわしい威容を誇っていた。神武天皇の東征物語を思い出しながら、神宮に深く参拝した。
翌日、翌々日と市内の世界遺産をゆっくりと見学した。三日間かけてもとても見切れなかった。薬師寺、法隆寺、東大寺の大仏・・・・・ここではそれらは本筋ではないので別の機会に旅行記として書いてみたいと思っている。
奈良でイスラエルを感じたのは春日大社である。東大寺の大仏を仰ぎ見て祈り、鹿が我が物顔で歩く奈良公園を歩き、春日大社の深い森の中を参道に沿って本殿に向かった。
春日大社は天皇家の外戚として紀元700年からほぼ100年にわたって権力をほしいままにした藤原氏の氏神である。御祭神は鹿島神宮の御祭神・建御雷神が祭られている。由来には藤原氏の祖といわれる中臣鎌足が鹿島神宮のある茨城、鹿島の生まれであることと、ある時建御雷神が奈良の春日山に白馬に乗って降臨したというイワレから御祭神とし、長く藤原氏の氏神としたとしていると説明されていた。古事記の天岩戸の節で天照大神が岩戸に隠れたとき外で「ひー、ふー、みー・・」と祝詞を詠んだあの天児屋命(アメノコヤネノミコト)が中臣氏(藤原氏)の祖と記されている。
春日大社で頂いた‘浄(きよめ)'と言う大社発行の機関紙・第27号に面白い記事が乗っていた。春日大社で6月と12月に行われる‘大祓式'であげられる祝詞について説明されている。この大祓詞の起源は藤原氏の祖である中臣氏が聞いた神の声をそのまま祝詞としているが、機関紙の中で宮司は「毎日心をこめて唱えてもまったく意味が解らない」と述べている。その意味の解らない祝詞とは「ひーふーみー・・・」ではないのか?!天岩戸の物語で藤原氏の祖となった天児屋命が岩戸の前であげた祝詞ではないのだろうか。先に「天岩戸騒動」の節で述べたように「ひー」の後に「とーっ」、「ふー」の後に「とーッ」と繋がるため「ひ、ふ、み」とも関連付けて考えられないのだろう。思わぬところで大発見である。1000年以上意味も解らずあげている祝詞はヘブライ語だった可能性がある。何かの機会に大社の関係者に尋ねてみたい。
皇室は血を最も大事にしている。その皇室が100年にわたって婚姻関係を続けた藤原氏、そしてその祖先が天孫族の天子屋根命であること、天孫族のエース・建御雷神を御祭神として祭り、宮司も意味の解らない祝詞を上げていることなどを考えると、藤原氏もまた「失われたイスラエルの十支族」の一族であるような気がしてくる。
<追記>
執筆後春日大社から祝詞についての資料を送っていただいた。誠に残念ながらその祝詞は「ひーふーみー」ではなく、ヘブライ語でもなかった。大和言葉であるが小生には到底理解できなかった。