倭国、大和国とヘブライ王国

ヤマトとはヘブライ王国の神・ヤハウエの民を意味するヘブライ語‘ヤァ・ウマトゥ’が変化したものであろう

古事記編集会議『天孫降臨』

2007-08-19 13:22:38 | 歴史
 小委員会から国譲りの細かい物語の報告があった。最後の建御雷神と建御名方神神の戦いで、建御名方神を諏訪の地に閉じ込めたと言う筋書きに、このところ民に人気があり、諏訪の神と言われるようになってきている建御名方神に対し、書き過ぎではないかと言う声が少数あったが、そのまま承認された。
その分大国主命を祭る宮を前例のない壮大なものを造り、大国主命を厚く祭ると言う物語を加えれば民の反感が和らぐであろうと了解された。
今日の議題は出雲から国譲りを得た後、神武東征に至る物語をどう纏めるかに移った。今日はその第一回と言うことで高天原から地上への降臨の物語をどうするかに絞られた。
実際に天津神一族が天上に居たわけではないから、何時、どの時代から、誰を地上の住人とするかはかなりの論争が有った。
「天照大神自ら降臨することにしてはどうだろう」などと言う意見も有ったが、物語の構成上、高天原を永遠に残さなければならないことから、天照大神は天上に残す事とした。当然その子の天忍穂日命と言う案があったが、この神は元々線が細く地上に降り立つ軍団のトップには似合わないと言う事になり、三代目であるが、若くして頭角を現していたニニギノ命を降臨の将軍にしたら如何?と言う意見があり、みんなの賛同を得て決定した。ここに天照の孫である事から‘天孫降臨’と言う名コピーが出来上がった。
人は何とか決まったが、何処に降臨するかが大激論となった。
最も容易な案は現在都になっている大和の地に降臨する案が、その後の物語の展開を考えた時一番イジーな案であった。しかしそうすると大和一族がしばらく過ごした日向の国の物語が一切語られないため、やはり九州・筑紫の国の何処かに、降臨の地を探すべき言う意見が圧倒的となった。
最終的に数箇所に絞り込まれたが、中々決着しなかった。
一つは霧島山系の高千穂の峰。
今一つは阿蘇山系の南にある高千穂峡。
そして邪馬台国の地と言う意見も合ったがあまりに歴史そのもので宜しくないと言う事で却下された。
高千穂の峰の推薦者は、霧島山系がこの世の景色とは思えぬ神々しさがある。この地が天より降るに最も適した地である。
一方高千穂峡の支持者もその渓谷の荘厳にして仙境を思わせる景観は神が降臨するに相応しいと一歩も譲らなかった。
しかし日の御子である事を考えると、霧島の山々は朝日が最初に指すところであることから霧島の高千穂の峰を降臨の地とすることに決定した。
降臨する神と、降臨する地が決まった。何よりも『天孫降臨』と言う名キャッチフレーズが出来た事が一番の収穫となった。
まだ時間も有ったので本来小委員会の仕事であるが、ニニギノ命が高千穂の峰に降り立った時の台詞まで決めてしまった。
以下がその時決まった台詞である。
「ここは韓国に向かい、笠沙の岬を真来通りて、朝日のただ刺す国、夕日の照る国なり。故、ここは甚(いと)吉き処。」
編集委員たちは「今日も夕餉の一杯が上手そうだ」と言いながら散会した。

古事記編集会議「大国主命の国造り」

2007-08-05 19:08:07 | 歴史
 大国主命の艶福家振りを物語の中心にすえ、八十神との戦いを絡ませ、愛と迫力ある物語が出来そうだ。
大きくなった出雲王国を如何に纏めるかについては、さすがの大国主命も前例のない事でもあり上手い知恵が浮かばなかったと伝わっている。
大国主命が女にだらしなく、国も一人で造れなかっただらしない男と言うイメージに描けば、大和朝廷にとっては望んだとおりの展開となる。言い換えると「そんな大国主命に任せて置けないから、国を譲らせたのだ」という大儀を前面に出せるからだ。
そこで大国主命一人では国が出来ず、進んだ隣国の知恵者の意見を取り入れたと言う設定で、海の向こうの新羅国から来た少名彦神と浜で巡り会う物語を盛り込むこととした。その時大国主命の身内の中にも少なからず居た参謀・崩彦も登場させる事とした。
少名彦神の協力でほぼ出雲王国の形が出来たが、まだ至らない事があるのに、少名彦神は帰ってしまったらしい。言い伝えでは最後の仕上げもまた今一人の神の力を借りたと言う。その神の名は大年神と伝えられている。只大年神についての伝承が少なかったので、少名彦神と同じく韓国からの知恵者と言うことで、海から現れる設定とした。しかしある伝承では大国主命の別名である大物主神とも言われているため、その話を無視も出来ないので加えることとした。この大年神の協力で出雲の国はほぼ固まったという。
大国主命に関わる物語はこれで骨組みがほぼ纏まった。各物語の肉付けは各節を担当する執筆者に任せることとし、編集委員会としては最も大事な国譲りをどう描くかに議題を変えることとした。
 まず高天原が好戦的であったのではなく、仕方なく武力による侵略になったという話を基本とすることとした。そのため「平和裏に国を譲るよう、‘平和の使者'を出雲王国へ何度も派遣したにも拘らず、出雲王国がこれに応じなかったので仕方なく武力の行使をせざるを得なかった」という筋書きにすることになった。
この基本線が上手く書き表せれば、やむを得ず大国主命を打つことになった大和朝廷の立場が理解され、大国主命を慕う多くの民も大和朝廷に対する憎悪が減り、‘出雲の侵略も決して無茶な侵略ではなかった’と理解されるとの期待が込められていた。
この戦略は何かに似ている。そう。アメリカが日本の生命線を次々に閉鎖し、無理矢理「窮鼠猫を噛む」状態に持っていった、太平洋戦争開始前の状況に似ていないか。歴史は繰り返す。古事記編集委員もまさかアメリカが大和朝廷と同じ手を使うとは、思いも及ばなかったであろう。