倭国、大和国とヘブライ王国

ヤマトとはヘブライ王国の神・ヤハウエの民を意味するヘブライ語‘ヤァ・ウマトゥ’が変化したものであろう

新刊「失われたイスラエル十支族」

2007-03-30 18:02:57 | 歴史
 私がこのブログでテーマにしている内容が、そのままタイトルとなっている本を見つけた。著者は「日本・ユダヤ封印の古代史」を書いたM.トケイヤー氏と同じ、ユダヤのラビ(ユダヤ教の牧師)エリヤフ・アビハイル氏である。初版の発行が2005年9月であるから、新刊と言ってよいだろう。著者の略歴を本の裏扉からそのまま引用する。「1932年、エルサレムで生まれる。1961年より失われたイスラエル十支族の研究と探索活動に従事する。1975年特務機関アミシャーブを設立し、失われた支族の探索活動を本格的に開始した。探索範囲はインド、ビルマ、タイ、中国、日本、ヨーロッパ、南米に及び、各地で十支族の末裔を発見した。アビハイル師は十支族の改宗、イスラエル帰還事業も推進しており、既に約1000人の十支族の末裔がイスラエルに帰還している。」
この略歴が示すように特に「日・ユ同祖論」にこだわって事業を進めているようではないが、巻末に「日本におけるイスラエル十支族の研究」として40ページほどのページを割いている。しかしその内容は特に真新しいものは無く、既にトケイヤー氏やアイデルバーク氏などが発表している内容とほぼ同じである。
特別機関として調査しただけあって、世界中に散った支族のその後を詳細に記述しているが、日本については殆ど新しい記事は無い。只気になった記述が二つほどあったので紹介したい。
一つは「3.絵画に示された伝承」と言う節で、ある神社で発見された絵画に、神武天皇が部下や民衆を連れて彷徨している様子で、なんとラクダが描かれ、神武天皇はラバに乗っていると言う。更に神武天皇が舟に載っている絵もあり、彼らが持っている盾・槍・弓矢等の武器が、アッシリアの武器のようである、としている。
私も鹿島神宮の宝物館で、筏に乗った神武天皇の軍隊を見た事があるが、持っていた武器は同じように倭製には見えなかった。
今一つは「5.古代の遺物」と言う節の次のような記述である。「京都から車で1時間程の所に、ヘビライ文字の刻まれた石のアークがある。これは淡路島で発見されたものだが、それは現在ホテルの庭の一部になっている。」
この一節は前後に何の説明もなく、又前後との脈略も感じられず、単独にこの記述だけであるが、私にとってこの数行は非常に重く、大発見である。著者は見逃しているが、多くの読者もこの記述が重要である事は見逃して当然であろう。
何故大発見であるか。私の仮説「イスラエルの失われた支族は黒潮に乗って淡路島に辿り着き、倭国侵略の最初の拠点とした」を思い出していただきたい。淡路島に辿り着いた伊邪那岐命の一行が、上陸記念に淡路島に記念の石碑を建てていたのだろうか。或いは解らないようにどこかに隠しておいたのであろうか。それがなんであるか解らないまま、京都に持っていかれてしまったのであろう。正に‘猫に小判’という諺はこのようなときに使うのであろう。
何方か石のアークを庭石にしているホテルをご存知の方がいらっしゃったら、何処の何と言うホテルなのか教えて頂けないであろうか。
昨年12/10付けの幣ブログで「市民権を得た日ユ同祖論」と題し東京テレビで放映された「日本のミステリー!真実に迫る・・日本のルーツは古代イスラエル」について紹介した。放映の中で2007年2月からイスラエルの調査団が、日本で本格的に日ユ同祖論について調査を始めると述べていた。その調査団と言うのは、冒頭に書いた「特務機関アミシャーブ」のことを言っているのであろうか。今は3月末である。既にアミシャーブによる調査が何処かで始まっているのかもしれない。京都の某ホテルの`庭石'になっているかもしれない`石のアーク'についても十分な調査を期待したい。
                         

倭国への道

2007-03-23 00:57:19 | 歴史
 大陸からの倭国への道で最も有名な道は、魏志倭人伝に書かれた「朝鮮~対馬~壱岐島~末慮国(まつろくに・今の唐津あたり)」であろう。
これまでにこの海の道については何度か書いてきた。昨年の10/9付けブログ「古代海路と越前クラゲ」、同6/25付けで「海の道、高句羅~越の国」などで述べてきた。要約すると、倭国への道は大きく分類して三つの道がある。その一つが黒潮に乗って倭国へ辿り着くルート、これは幅広く西は九州西海岸から四国、遠くは関東までに及ぶ。次が大陸からの道として朝鮮半島からの魏志倭人伝コースであり、次が新羅や高句羅から親潮に乗って山陰地方から越の国に至るコースである。そしてこれらの三つのルートがそのまま古代倭国の三つの王朝に関わったのではないかと言うのが私の仮説である。今一度少し具体的に書くと、黒潮ルートが天孫族、親潮ルートのうち新羅からが出雲王国、高句羅からが越の国をそれぞれ造ったと考えている。そして黒潮コースで九州に邪馬台国を造った天孫族が、後に魏志倭人伝コースを使って百済との関係を密にしていったのではと想像している。前回のブログでも「イスラエルの失われた支族の有る一族は、黒潮に乗って倭国に辿り着き・・・・・」と言う話をした。
私のこの仮説を裏付ける著書が、既に発行されていたことを最近知った。それは岩田明氏が学研社から発行している「消えたシュメール王朝と、古代日本の謎」と題した著書である。初版の発行が2004年3月20日と、まだホヤホヤの本である。著者の岩田氏は某大手海運会社の航海士として世界中を回った折に、アラビアからインド洋を経て日本に至る航路の港に立ち寄った時、港で出会った風俗習慣の中に、日本のそれと酷似している物が多い事に気がついた。中近東の文化が陸のシルクロードだけでなく、この海のシルクロードを経て古代日本に伝わったのではないかと言う思いに取り付かれたことが、この本の出版になったとしている。その思いを航海士としての経験と知識を総動員し、更に氏の巾広い人脈を使い、大英博物館やルーブル博物館の資料を基に、紀元前のシュメール人が乗っていた葦の舟を見事に復元する事に成功したのだ。そして航海士である氏がその舟を自ら操って、インド洋を経て日本までの苦難の航海を実践し、古代船による中近東から倭国への海のシルクロードの航海が可能であったと言う仮説を、見事に証明したのだ。
本の内容は後半がこの航海日誌で占められているが、前半は「シュメール王朝が、海のシルクロードを使いインド洋から太平洋に出て、黒潮に乗って倭国へ辿り着き、天孫族となって大和王朝を築いた」と言う説を展開している。更に素戔鳴尊を取り上げ、この神は朝鮮半島経由で倭国に入り、出雲の国を造ったとしている。
どうだろう。私の仮説と違うのはイスラエル人がシュメール人になっている事だけだ。シュメール人とはチグリス川とユーフラテス川の河口に、紀元前5000年・今から7000年前に(エジプトより2000年古い)、人類最初の文明を築いた民族で、楔形文字の発明で有名である。しかし紀元前2000年にシュメール文明は、この地上から忽然と姿を消した。それからおよそ800年後、今のイスラエルの地にヘブライ王国が建設された。ヘブライ王国を作ったイスラエルの民はユーフラテス川の上流からエジプトに渡り、その後イスラエルの約束の地にヘブライ王国を造った事を考えると、忽然と消えたシュメール人と何らかの繋がりがあっても不思議ではない。イスラエルの人々が高貴な人をスメラ(シュメールが変化した?)と言い、スメラミコト=天皇となったと言う話が妙に引っかかる。
ここではシュメール人とイスラエル人との関係は、想像の域を出ないのでこのくらいにしたい。
古代舟による中近東から倭国への民族の大移動は可能であったと言う、岩田氏の実験航海の成果を基にすれば、古代船がメソポタミアからインド洋を経て苦しい航海の末太平洋に出た後、黒潮に乗って北上し季節風の関係で九州を通り過ぎ、漸く四国の淡路島に辿り着いた可能性は十分に考えられる。
淡路島への上陸を前にして、古代船の船首にはイザヤの子を名乗るイザナギ(伊邪那岐命)が立っている。そして倭国侵略に思いをはせる‘命’の姿が目に見えるようだ。
               

葦原の国と約束の地・カナン

2007-03-10 00:48:44 | 歴史
 大和朝廷は古事記の中に一族の祖・アブラハムの生誕の地・‘タガマ・ハラン’を、‘高天原’として残す事ができた。大和一族にとって今一つ、どうしても残したい地名があったと推察している。それは神がアブラハムに与える事を約束した地・カナン(現在のイスラエル)を古事記の中に残す事であったのではないだろうか。
大分昔になるがアメリカのTVドキュメンタリードラマで「ルーツ」と言う番組があった。物語はアメリカのある黒人が、「奴隷であった自分の祖先は、アフリカの何処から連れてこられたのか」を追求し、遠くアフリカをさまよう話であった。自分達は何処から来た何者なのか?と言う事はどの民族にとっても非常に重い命題である。
自分達の祖先について今は解っていても、記録に残しておかなければ将来忘れ去られる可能性は十分有る。その心配をしたのが為政者であれば、歴史書を編纂しその中に残す事であろう。
話を戻す。アブラハムの孫に当たるヤコブは、神からイスラエルと言う名を与えられた。モーゼに導かれてエジプトから約束の地カナンに辿り着いた一族は、その土地をヤコブの聖名を取り、‘イスラエル’とした。
古事記の編者はまず最初はイスラエルに漢字を当てて、倭国のある土地の名にしようと試みたのではないだろうか。しかしもともと大和言葉の言の葉とはかけ離れた‘イスラエル’と言う言葉に、高天原のような上手い大和風となるような漢字が見つからなかったと思える。次はイスラエルの本来の意味「神のように支配する」、「神と争う人」、「神の兵士」を意訳して地名にすべく考えたが、どれも上手く行かなかったのであろう。そこでイスラエルを諦め、次に考えたのが、イスラエルの別名`カナン'であったのではないか。
既に倭国の九州の地に築いた王国の名は、‘神ヤハウェの民’と言う意味の‘ヤァウマトウ’から`ヤマト'(邪馬台国・大和)としている。ここでカナンとして残そうとしていたのが、出雲の地であったと考えている。その理由は天照大神が出雲の国に国譲りを迫るとき、出雲の国を次のように呼んでいる。「「・・・豊葦原の水穂の国は我が御子・天忍穂耳命の知らす国ぞ」と。(葦原の国は倭国全土を意味する見方もある)なんと驚く事にカナンとは、ヘブライ語で‘葦原'と言う意味になると言うのだ。
折角このように命名された‘葦原の国’であったが、記紀から出て地名として残ることなく、元の地名の出雲で通されるが、‘葦原水穂の国’と同義で使われた‘葦原中津の国’の‘中つ国’が‘中国地方’として残っている。
どうだろう。イスラエルの支族の末裔にとって、自らの出目に係わる重要な名称を、それとは解らないように見事に後世に残す事ができたではないか。
整理してみよう。
1)イスラエル人の祖・アブラハム生誕の地タガマ・ハランを高天原とした。
2)アブラハムが神と約束した地カナンを葦原の国とした。
3)神ヤハウェの民と言う意味のヤァウマトゥをヤマトとして残した。
4)イスラエルの十支族がアッシリア帝国の奴隷から解放され、流浪の民となった忘れえぬ年・紀元前660年頃を、神武天皇の即位の年として残した。
以上を物語風に記述すると次のようになる。
イスラエルの支族の有る一族は黒潮に乗って倭国に辿り着き、北九州に都を築いた。その王国をヤマトと定めた。魏の国はこの卑弥呼のヤマトの国を、邪馬台国として記録に残した。一方大陸から朝鮮半島を経由して倭国に渡来した一族は出雲に都を造った。後に両国は争いとなり、出雲はヤマトに国を譲った。時が流れ邪馬台国が畿内に移り(神武東遷)大和朝廷となり、天武天皇の時代に国の記録を残す事になった。神武天皇以前を神話の世界とすることにし、九州の都(邪馬台国)をイスラエルの祖・アブラハム生誕の地・タガマハランの名を取り高天原とした。更に出雲の国との戦いも神話とし、出雲の地を神との約束の地・カナンを和訳し、葦原の国として残した。その後九州から東遷して神武天皇が大和に都を開いた年を、流浪の旅の始まった年・紀元前660年を当て、皇紀元年として残した。
こうした見方で記紀を見ると、記紀の編纂者達は想像を越える創作力を持っていたようだ。「イスラエルの古事を残したいが、自分達が渡来人と解ってはならない」と言う、二つの相反するテーマを、邪馬台国を高天原(タガマ・ハラン)とし、卑弥呼を天照大御神とし、出雲を葦原の国(カナン)とする事により見事に纏め上げたのだ。稗田阿礼と太安万侶に脱帽するしかない。

高天原とタガマ・ハラン

2007-03-04 00:30:30 | 歴史
 前回‘高天原’と言う名は、天武天皇の時代に大和朝廷の出目であるイスラエルの支族の祖・アブラハムの故郷‘タガマ・ハラン’を記憶に留めるために、古事記の神達の住む世界の名とし、‘高天原’と言う漢字を当てたと言う話をした。
今回、タガマ・ハランについて説明したい。
旧約聖書に記された最初の人類・アダムとイブから数えて11代目のノアの時代に、有名な大洪水が起こりノアの家族8人だけが地上に生き残った。ノアたちの乗った箱舟は旧約聖書の中に、現在のトルコにそびえるアララト山(標高5137M)に漂着したと言われている。2003年、人口衛星による撮影でアララト山のトルコ側・標高4663Mの氷河の中に、旧約聖書に記載されているノアの箱舟と同寸法の物体が発見された事が報道された。米国ヴァージニア大学のリッチモンド教授は色々検討した結果、ノアの箱舟であろうとした。更にロシアの探検隊が現地を探索し、木製の箱舟の残骸と思われる物体を発見し、放射性炭素年代測定法を用いて調べた結果、その木材は紀元前数千年のものと推定されると報道されている。ここでも旧約聖書が架空の話ではなく、史実を基にして造られた物語であることの一端が見られる。
ノアの一族は箱舟のお陰で大洪水の被害をまぬかれて生き残り、新たな人類の歴史が始まった。現在の人類は全て、このノアの家族から枝分かれしたとされている。ノアの時代からセムへ、セムの世代からテラへと代が変わり、テラの子として生まれたアブラハムが、イスラエル民族の祖となった。そのアブラハムの生まれた地がアララタ山のアルメニア国側の、タガマ州ハラン町であった。インターネットでアララタ山を調べてみると、日本の霊峰富士山と同じ形の美しい山である。何かを感じさせる。
アブラハムの子イサク(諏訪大社の御頭祭のモデル)、イサクの子ヤコブ、そしてヤコブの時代に、末の子ヨセフがエジプトに売られてしまう。しかし全てに優れていたヨセフは、その才能を認められ後にエジプトの宰相となる。その後預言者モーゼの時代にイスラエル民族はエジプトを追われ、放浪の末に神との約束の地・カナン(現在のイスラエル)に辿り着く。この話はハリウッド映画の大作で有名な`十戒'で描かれた。
イスラエル人はここにヘブライ王国を築き繁栄を極めたが、後にバビロニア帝国とアッシリア帝国に滅ぼされ、イスラエル十支族の放浪の旅が始まった。
長くなったが以上がアブラハムと、その生誕地タガマ・ハランに係わる話である。
放浪の旅人となったイスラエルの支族は、アララタ山のような美しい山を探しながら東へ向かったのだろうか。そして辿り着いた倭国にはアララタ山と瓜二つの富士山があった。「この地こそ捜し求めていた国だ!!」と思ったのではないだろうか。その後倭国の王となり、大和朝廷を築いたイスラエルの支族が、祖国の地名を何とか後の世に残したいと思ったとしても何の不思議もない。
天武天皇の時代、国史を纏めることとなり、古事記、日本書紀が編纂された。そして記紀の神代の話の中に、遠い祖先の故郷の地‘タガマ・ハラン’を何とか残そうと考えた末、これに漢字を当て、神代の時代の神々の住み処の名にしたのであろう。大和言葉には濁りが無い。従ってタガマという音は、タカマとなり、タカァマに変化し、これに漢字を当てると‘高天’となる。ハランの`ン'は字と成り得ないので省かれ、ハラには当然‘原’が当てられた。タカマガハラのガは、~~ヶ原のヶであろう。関ヶ原、戦場ヶ原などと同じと解釈できる。このようにしてタガマ・ハランは、タカマガハラ・高天原となって、神達の住むところの名として残った。
こうしてヤマト民族の祖・イスラエル支族が流浪の旅を始めた年を、神武天皇が即位した年・皇紀元年(紀元前660年)として残し、イスラエルの祖・アブラハムの故郷を”高天原”として記紀の中に残した。それらは正に関係者しか解らないように、自らの出目の証とし暗号のようにして残したのではないだろうか。