倭国、大和国とヘブライ王国

ヤマトとはヘブライ王国の神・ヤハウエの民を意味するヘブライ語‘ヤァ・ウマトゥ’が変化したものであろう

改めてヤマトとは(2)

2006-04-30 13:42:22 | 歴史
 このブログで昨年の11月9日に同じ題で投稿している。その時の内容は「平安時代の昔、時の朝廷の主催する日本書紀の講読会の席で『‘日本’‘倭'‘大和'と書いて何故‘ヤマト'と読ませるのか』と言う疑問について、質疑されたが的を得た回答は出なかった」と言う話だった。もう一度その時の識者の答えを紹介しておく。
一つは;‘山跡’と解釈するべきで、天地が分かれ、泥の状態でまだ乾かぬ時、人は山に住んで往来していたので、足跡が多かったから‘山跡'と言う。
一つは;住居のない時代に山に留まっていたから、その意味を漢字にして‘山戸'と言う。
この答えでは平安の識者も納得せず、「諸国の人も同じなのに何故(朝廷のあるところ)山戸と言うのか?」と反論している。現代の我々がこの答えを聞いても同じ反応をするのではないだろうか。
最近上田正昭氏の著書「大和朝廷」に‘ヤマト'という呼び名に関する記載があったので紹介したい。
 「奈良意外にも‘ヤマト'は沢山見られる。九州の山門に見られるように‘ヤマト'の由来は(1)山のあるところ・山の間、(2)山の麓、(3)山の入り口、山戸、(4)山の外側などその多くは山に密接なつながりを持つ。・・・しかし畿内の大和の原義はどうも山の入り口とか、山の外側とか言う意味ではなさそうである。」
ここまでの記述に私の胸はときめいた。私の持論、‘ヤマト'の語源は「ヘブライ語の『ヤァ・ウマトゥ』ーヤハウエの神の民から来ている・・・大和一族はイスラエルの失われた支族の末裔」と言う説に繋がるのかと言う期待が湧いてきたからだ。
残念ながら期待は裏切られる。話は次のように展開される。
 「奈良時代までの仮名遣いから甲類と乙類に分けられる。甲類での「ト」は外、戸、門、などが用いられる。山の入り口、外側の場合は甲類が用いられる。乙類は跡、登、等、苔、常などが当てられる。古事記、日本書紀の‘ヤマト'に対する当て字は全て乙類であるので、機内の‘ヤマト'は山の入り口や外側にあるのではなく山に囲まれたところ、山の間、山の麓などと言うところにあることを有力に示唆するものである。・・・ヤマトの名にふさわしいところである。」
この説明で納得する読者がどれほどいるだろうか。先の甲類の説明にも「山の間、山の麓」が出てきており、話の辻褄が合わず、奈良の盆地を何故‘ヤマト'と読んだかについて説得力ある説とは言い難い。
地形からその名がつけられているとすれば、古事記や日本書紀で何故それらしい字を当てなかったのであろうか。ちなみに古事記では「山跡、夜麻登」が当てられ、日本書紀では更にその当て字は広がり「野麻登、夜麻苔、椰摩等、椰磨等」と言う字が当てられている。更に言えば万葉集には「山跡、山常、也麻等、夜麻登、夜末等、夜万登、八間跡」としている。
これ等から言える事は最初に紹介した故事のように、この時代の人々が奈良の盆地の地名‘ヤマト'が、どうしてそう呼ばれていたかのコンセンサスができていなかったことを物語っている。これ等の書籍に名を留める他の地名は殆どが統一されており(例外もあるが)、一つの地名に十以上の種類の漢字を当てられた地名は他にない。神々の名前には‘倭’を当て‘ヤマト'と読ませている例が多いが、これは‘倭'が奈良の地名ではなく広く倭国を意味しているのであって、奈良の地名に当てることまでは徹底されていなかった事を意味しているのではないだろうか。その結果、音のヤマトは行き渡っていたが、当てる漢字は定まっていなかったため、皆思い思いに使っていたため、このように多くの‘ヤマト'を生んだのであろう。

鹿島神宮の御船祭

2006-04-20 22:32:05 | 歴史
 学研発行の「全国一の宮めぐり」と題する本を購入した。今まで巡ってきた神社を思い出しながら、懐かしくページをめくった。
鹿島神宮のページを見ていてふと気になる写真に目が止まった。それは御船祭の写真である。鹿島神宮に参拝した時に入手したパンフレット(鹿島神宮参拝のしおり)にも御船祭の写真は載っていたが、その写真は普通の漁船に大漁旗をなびかせて、多くの舟が進む写真であった。「全国一の宮めぐり」に掲載されている写真は漁船とは全く違う船が写っていた。普通の漁船の十倍はありそうな大きな船の船首に、竜が飾られた立派な船である。写真には次のように説明文が添えられている。「御船祭の水上巡行ーー龍頭によって飾られた御座船に神輿が遷され、大船津川岸から佐原市加藤州へ向かう」。そしてこの祭りは例年行われるのではなく午年の年、つまり12年ごとの9月2日に、90艘以上の大船団がが参加する勇壮華麗な祭りであると説明されている。
この説明を読んでかねてから唱えてきた私の仮説『天孫族と出雲族の最終戦争は関東平野で行われた』と言う話の裏付けではないかと感じた。今一度説明すると天孫族のエース建御雷神は大船団を引き連れ鹿島に上陸し、北関東を攻めた。一方建経主神は同じく利根川の南岸の佐原に上陸し南関東を攻めた。戦勝を記念して夫々の上陸地点に社を建てた。それが現在の鹿島神宮と香取神宮である。
鹿島神宮の御船祭りとはこの上陸の様を再現しているのではないだろうか。神社の祭りで神輿を担いで川や海に入る祭りは多いが、船で河に入る祭りは私は知らない。それも90艘という大船団が、正に建御雷神が天の鳥船神を従えて出雲に乗り込んだという古事記の話と重なる。
もし出雲で決着が着いていたならば出雲の稲佐の浜に、建御雷神を祭った神社が建っていたのではないか。
気になって香取神宮のページをめくってみた。思ったとおりの写真が載っていた。祭りは鹿島神宮と違い「神幸祭」と呼ばれている。しかし写真の船は鹿島と同じように船首に大きな飾りがあるが龍頭ではなく鷊首(ゲキと言う名の・鵜に似た羽の白い想像上の水鳥)が飾られている。説明文には「神輿は御座船に遷されて出立し、対岸の鹿島神宮のお迎祭を受ける」とある。この‘迎える'と言う表現の中に日本書紀に建御雷神は建経主神の副将とされている事が現れている。
船の台数は記載が無いので大船団であるかは定かでないが、鹿島神宮に無い記事があった。それは利根川のほとりに香取の大神・建経主神が上陸した地に木の大鳥居が立っていると言う写真であった。やはり私の推測通り建経主神は利根川南の佐原に上陸し、利根川の南の大国主命の兵と戦った事を裏付ける状況証拠の一つではないか。
香取神宮のこの祭りは鹿島神宮と同じように午年の年に盛大に行われる。日取りは鹿島より早く4月15日にとされている。この事は先ず建経主神が先に関東の南を攻め、半年送れて建御雷神が関東の北を攻め上ったということを現しているのかもしれない。この両神宮の祭りが見たくなったが、次の午年はまだズーと先なのが残念だ。
この関東最終戦争については昨年11月3日のブログ『建御雷神について考える』で詳しく書いているので、興味のある方は覗いていただければ幸いである。
 

大国主命の徳について

2006-04-18 12:03:13 | 歴史
 出雲大社を参拝する機会を得た。それも正式参拝と言う願っても無い環境での参拝となった。ツアーであったため出雲の国を隈なくを見ることもなく 、大社にいた時間も二時間程の物足りないものとなった。しかし十分に収穫のあるツアーとなった。
先ず神楽殿でお祓いを受けた後、本殿の敷地内に入って参拝した。本殿には個人的に行った場合は全く立ち入る事のできない場所であるので十分に満足した。神楽殿に入る時も‘浄掛’というお祓い用の首掛けを戴いてから入殿し、神主と巫女さんのお祓いを受けた後、本殿に廻った。そして有名な’二礼四拍一礼'による古式ゆかしい様式にのっとり、大国主命に深く拝謁した。
本殿は24Mの高さを誇り、私がかって見た神社のどの本殿よりも大きく、伝説の48Mの巨大本殿を想像することは難しいかったが、タイムスリップしてその前に立てばその巨大さに圧倒されたことであろう。参拝後最初に向かったのが、古代出雲大社の基礎柱とされる遺跡を見ることであった。
もう一度その柱について記す。
古代の出雲大社は大国主命の遺言により、天孫族が当時の技術の粋を集めて最大の建造物を作って大国主命を祭ったとされる。古文書(社伝)によれば最古のものは高さが96Mあったとされ、その後48Mになったとされる。奈良時代の貴族の子供達の教育用の図書‘口遊’(源為憲著970年)には当時の巨大建築のベスト3を「雲太(出雲太郎ー出雲大社)・和二(大和二郎ー東大寺大仏殿)・京三(京都三郎ー平安京大極殿)と記していたとされる。大仏殿は今のものと同じであり、その高さは45Mであることから社伝の48Mは古文書からも裏付けられている。
残念ながら御柱の遺跡は見ることは出来なかった。青森の三内丸山の古代望楼の基礎杭の遺跡はレプリカが造られて公開されていたが、出雲の御柱の遺跡のレプリカはもう少し時間が掛かると言う事だった。それでも柱の実寸の模型と写真から、その迫力は十分感じ取る事ができた。説明書きによると48Mの社殿に至る階段の長さは109Mあったと記されていた。
往時(平安の頃であろうか)京より出雲に参拝に訪れた寂連法師は次のように語っている。「天雲たなびく 山の半ばまで 片そぎの見えけるなん この世の事とも覚えざりける」として次の歌を残した。「やはらぐる 光や空に満ちぬらん 雲に分け入る 千木の片そぎ」と、その類例の無い高層・壮大な御本殿を仰ぎ見て感嘆したと言われている。
先に記した天孫族が出雲の国を譲り受けた後、いかに治めるかに苦慮して大国主命を厚く祭ったと言う古事記の話が、今目の前で感じる事ができた。
出雲大社から戴いた社務所発行の「出雲大社由緒略記」に記載されていた一節が、‘如何に大国主命が民に慕われていたか’の証になるので紹介いしたい。
天照大神は第二の御子・天穂日命(古事記では天菩比神)をこの国(出雲)に降ろし遣わして国情を視察するよう命じました。ところが、国の内には大国主大神の御恩恵が普く行き渡っていて、人々は大神を深く仰慕し奉っていましたので、平穏のうちに大神がこの国土を皇孫に奉還なさることについては、周囲の反対が根強く続いたに違いなく・・・・・・」。
この天穂日命は古事記には出雲に降った後の記述がないが、この‘略記'に依ると国譲りでの大国主命に対する説得の功績が認められ出雲の国造りとなったと言う。現在の出雲大社の宮司・千家はその末裔であるとしている。
折角の出雲の旅でありながら、ツアーであったため他の何処にもいけなかったのは心残りであるが、出雲大社を正式参拝できた事で良しとしたい。


出雲大社

2006-04-11 23:32:07 | 歴史
 大国主命は天孫族に破れ、出雲王国を譲った。しかし無条件降伏ではなかった。自分を祭る社を造る事を条件に出した。それも当時では想像を絶する壮大な社を要求した。近藤啓太郎氏の「古事記」の訳文をお借りして紹介する。
「・・・太柱深く地底の岩根を踏まえ、氷椽(ひぎ)高く高天原に届かんばかりの宮を造り、吾を祭れ。・・・さすれば百八十神、言代主神に従って必ず仕え、叛くことはあるまい」。
先にも記述した話をもう一度紹介したい。それはこの大国主命の要求の高天原に届かんばかりの‘太柱’の一部と思われる遺跡が数年前に出雲大社の境内から発掘された話だ。その‘太柱'は古代出雲大社の基礎と思われる物で、直径1メートル余の大木が3本束ねられて1本の柱となっていた。それらの束ねは古文書に従えば9ヶ所有ると見られる。ゼネコンの大林組が調査、検証した結果、この基礎から計算される大社の高さは少なくても48Mに達するという。古文書には最初の出雲大社は96M有ったとされる。当時この出雲大社が日本で一番大きな建造物で、次が奈良の大仏の東大寺、三番目が京都御所だったという。これを「雲太、和二、京三」と呼んでいたと言う話がある。その後何度か倒壊と再建を繰り返し、48Mから現在の24Mになったとされている。
敗軍の大将の為に何故こんな大きな社を造る必要があったのであろうか。世界を見ても破った敵将をこのように厚遇した例があるだろうか。殆どは一族郎党全て抹殺し、場合によっては国の全てを破壊するケースが多い。天孫族の大国主命に対する厚遇振りはは異常としか言いようが無い。
 これまで何度か書いてきたが大国主命の治める国は越の国から関東にも及び、徳の高い政治で倭国の民から深く愛されていた。それらは神無月の話(10月に全国の神が出雲に集まるため、出雲以外の国は神がいなくなった。出雲の国は逆に神が集まったことから神有月という)や、大黒様の逸話が全てを物語っている。
天孫族は出雲王国を破ったが、この出雲王国の地を納めていくには、大国主命を上手く扱わなければ、民が天孫族の政に従わないと考えたのではないだろうか。その一番解りやすい方法が、大きな社に大国主命を祭る事であったと考える。その大きな社も半端なものでは民が納得して付いて来ないと判断し、当時の建築技術の限界に挑戦したのが96M、或いは48Mの社となったのであろう。
この大国主命の処遇と似た話が近代にもある。それは太平洋戦争に勝ったアメリカ軍が日本の戦後処理において、天皇制を廃止する考えが大勢であった。しかし極東地区司令長官であったマッカーサー元帥は、日本国民がアメリカの占領軍に対して「天皇陛下万歳」の声の基、ゲリラ活動などで徹底抗戦する可能性を心配していた。そこで考え抜いて出した結論が、現人神の天皇制を止め、人間天皇としての天皇制を継続する事であった。大国主命の徳の大きさから出雲王国の反抗を心配して大きな社を造った天孫族と、天皇に対する日本国民の思いを考えて、天皇制を認めたアメリカ軍の対応は、共通する要因があったと考えられる。
またこれまでのテーマである「天孫族と出雲族は同じイスラエルの失われた支族であった」事も、要因の一つに成ったとも考えている。

出雲王国の滅亡

2006-04-04 17:02:19 | 歴史
 天孫族の出雲取りの作戦は皆失敗に終わった。人材不足の天孫族は四度、知恵者の参謀・思金神に次の作戦の立案を支持する。
今までの作戦が皆失敗した思金神は、次はどうするか?誰を選ぶか?思い悩む。思案の末に決断したのは、天孫族の中でも武運の誉れ高い、建御雷神を大将とする軍勢の派遣であった。前にも書いたが神の名で‘建'と呼ばれる神は勇猛な神を意味している。‘建(たけ)'は‘武(たけ)'と同じ意味になる。
そしてこの命令を伝える役目を命じられたのが天迦久神である。私はこの神を非常に重く捉えている。古事記の注釈に「この神は鹿を神格化した神で、鹿の皮は鉄の生産に使うフイゴに使われていたことから、刀剣の製作に密接な関係が有るように思える」と書いてある事に注目した。それは天迦久神によって、長い間待ちに待った、出雲に負けない優秀な刀剣が完成した事を意味していると考えたからである。そして天孫族で最も武運に優れた建御雷神に、この事実を伝えたのではないだろうか。正に‘鬼に金棒'となったわけだ。
今まで天孫族が平和裏に出雲取りを進めてきたのは、刀剣の質で出雲に遅れを取っていたからであろうと述べてきた。ここに漸く軍事力において、出雲の刀剣にいささかも劣らない物が揃い、戦う態勢が整ったのであろう。
天孫族は建御雷神を大将として、大船団をそろえ出雲へ向かった。古事記はこの状況を次のように記している。
「ここに天鳥船神を建御雷神に副えて遣わしたまいき。ここをもちて二柱の神、出雲の伊那佐の小浜に降り至りて、十拳剣を抜きて、逆に波の穂に刺し立て・・・・・」。この「天鳥船神を副えて」と言う意味は海軍を司る大将を副官としたと言う事であろう。しかし日本書紀では建御雷神と共に出雲取りで活躍したのは建経主神としている。私は利根川の河口の両岸にこの二柱の神が祭られていることから(鹿島神宮に建御雷神、香取神宮に建経主神)日本書紀の記述のように事実上の副将は建経主神であったのであろう。建経主神は建御雷神の別名と言う説もあるが、同じ神が利根川の両岸の神宮に、名前を変えて祭られるのは可笑しいと考えている。
建御雷神が伊那佐の小浜に突き立てた十拳剣が、天迦久神が作った最新の刀であったのではないかと考えている。建御雷神は最新兵器を見せつけながら、大国主命に国譲りを迫る。もともと戦いの好きではない大国主命は息子の言代主神(別名一言主神)に任せてしまう。
余談になるが大国主命は大黒様であり、言代主神は恵比寿様である。どちらも現代に至るまで庶民の人気No.1を争う、幸福をもたらす神である。勿論どちらも争いは好まない。言代主神はあっさり「この国は天つ神の御子に捧げる」として何処かへ逃げてしまう。しかし出雲にも骨のある神が一人いた。名は建御名方神という。
ここに国譲り物語のクライマックス、建御雷神と建御名方神の力比べが行われる。そしてこの力比べ(実際は激しい戦いであったと考えている)で負けた建御名方神は信濃の諏訪まで逃げそこで降参する。諏訪大社の御祭神はこの建御名方神である。この戦いについて私は出雲で戦われたのではなく、天孫族と出雲王国の最終戦争は関東平野で行われたと述べてきた。この辺の経緯については先に「建御雷神について考える」2005/11/3で詳しく書いているので、興味のある方はそちらのブログを覗いて頂ければ幸いです。
最後に大国主命はこう言って国を譲った。「・・・・又我が子等、百八十神は、即ち八重言代主神、神の御尾前と成りて仕え奉らば、違う神はあらじ」。
これまで出雲を治める神たちは‘八十神’と書かれてきた。この大国主命の最後の言葉で‘百八十神’皆従うと言っている。出雲王国はいつのまにか、かくも多くの神々(国々)を従える大きな国になっていたということであろう。  
大国主命は自分を厚く祭ることを条件に降伏した。天孫族は約束を守り、当時日本で最も大きな大きな社を作って奉った。言い伝えでは奈良の東大寺より、京都の御所より大きかったと言う。言うまでもない。それが出雲大社である。 こうして十数年に及ぶ天孫族の出雲王国侵略作戦は終わった。