倭国、大和国とヘブライ王国

ヤマトとはヘブライ王国の神・ヤハウエの民を意味するヘブライ語‘ヤァ・ウマトゥ’が変化したものであろう

第3回古事記編集会議「国生み」

2007-04-25 06:04:59 | 歴史
 T・親王から国生みの物語についての提案があった。「私が神であったなら`大八島国’(本州)を先に造り、四国、九州と続け、順に大きな島から小さな島へと生んでゆくこととしたい」。この提案に対し天武天皇からの命を受けていた皇室の高官から「もっともな意見であるが国造りは吾らの祖先が倭国にたどり着き、そこから領地を広げていった過程を何とか残せないか」との要望があった。
会議は中々結論が出なかったが、この高官の意見を取り入れ、イスラエルから倭国へたどり着いた地を最初に生み、順次侵略の過程を国生みの順序とすることに決まった。しかし読んだものがすぐに‘国生みの物語'が侵略の歴史を書いたものであることに気が付かないようにする必要もあり、国生みの流れの中に他のイスラエルの支族が倭国へ入った地を、国生みの物語に取り入れることにした。他の支族とは出雲王国を作った一族と、越の国を造った一族である。これらの原案を基に言い伝えを次のように整理する事となった。
 黒潮に乗って太平洋を北上してきたヤマト族の祖先の人々は、その時の季節風のため九州には上陸できず、四国を通り過ぎ、紀伊水道に入り、その幾つかの島に上陸した。しかし最初の`水蛭子(ひるこ)島’と‘淡島’は小さすぎて拠点にならなかったため、更に紀伊水道を深く入り淡路島を発見し上陸した。この島は倭人が少なく、倭国侵略の拠点にするには最も適当な地と判断され、ここを拠点とすることにしたと伝えられている。
しばらく淡路島に留まり体制を整えたヤマトの一族は、東の紀州を攻めるか西側の四国を取るか迷ったが、紀州に強い勢力が在る事が解り、攻め易そうな四国から入る事となり、瞬く間に四国4国を占領した。
国生みの序章はこの言い伝えを基に作ることになった。このあと筑紫の国に攻め入ったと伝えられているが、このまま筑紫の国生みに繋げると、後の世の人々に「この国生みは侵略の歴史ではないか」と見破られる恐れがあるため、最初の筋書きの通り他の支族(以下出雲族とする)が出雲取りに入っていた言い伝えに基づき隠岐島生みとした。出雲族の隠岐の島取りも、四国の前に淡路島を取ったヤマトの戦法と同じで、まず出雲の沖に浮かぶ隠岐の島を拠点にしたと伝えられている。
隠岐島を生んだ後は再び大和族の話に戻り、筑紫の国生みとした。筑紫攻略の初期段階では日向国までは取れていなかったので、日向を除く筑紫国4国の国生みに留める事とした。筑紫の国4国を平定した後周辺の壱岐の島、対馬を取ったのでこれも国生みに入れた。この後は先の手法を取り入れ、もう一つの支族が越の国を侵略した事を入れ、佐渡島を生むこととした。
対馬を取った後大和族は瀬戸内を戻り、淡路島を拠点に畿内を除く紀州の周辺地を侵略した。畿内にはかなり強い勢力があったため、その勢力地を避けた事による。
畿内攻略は後にする事とし、しばらく淡路島にて休養した後、瀬戸内を通って筑紫の国に帰る途中、吉備児島、小豆島、大島、女島を従えて行った。筑紫へ戻った後残っていた大きな島・知訶島(五島列島)と両児島(男女群島)を取った。
国生みは初期の意図通り、イスラエルの支族の侵略の歴史を残しながら、それとは直ぐには解らない様な物語として纏める事ができた。
古事記の第3回の編集会議はここで終わった。古事記はこの後国生みについて一切触れず神生みに移る。この国生みの記述だけでは山陰地方や越の国(今の北陸から新潟まで)が含まれていないが、先に記したように隠岐の島を生んだ記述が山陰地方までを意味し、佐渡島を生んだ記述が越の国を造ったと解釈すれば、北限を越の国とした当時の倭国を全て生んだと解釈する事が出来る。九州の日向や勿論関東や東北を生んでいないということは、その当時イスラエルの3支族による国取りが、そこまで及んでいなかったと考えれば理解できる。即ち国生みの物語とはイスラエルの支族の支配地を表わした記述に他ならない。そしてそれらの残りの地は古事記の以後の記述の中に、例えば出雲の国譲りや日向3代の物語、神武東征、日本武尊による関東征伐などによってヤマトの領地と成っていく様が表わされる。
ここで改めて古事記の記述はここに表わさないが、こうしてイスラエルの3支族による国取りの様子を、国生み物語にアレンジするという難題を解決し、無事‘国生み物語’の節は完成した。
国生み物語がこの様にして作られたと仮定すれば、国生みが何故本州から始まらず、淡路島から始まり、何故壱岐島や佐渡島に跳んだのかと言う疑問が全て解ける事になる。

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