倭国、大和国とヘブライ王国

ヤマトとはヘブライ王国の神・ヤハウエの民を意味するヘブライ語‘ヤァ・ウマトゥ’が変化したものであろう

日本古代史200年の空白を埋める

2006-09-05 00:29:46 | 歴史
 日本の古代史は中国で書かれた魏志倭人伝他の、各王朝の歴史書の中に記述された倭国に関する記述以外に、国内には正史を記した書物は無いと言うのが通説である。世界に誇る我が国の古事記、日本書紀が語る古代倭国の物語は、‘史実ではない’と言う説が大通りを堂々と歩いているのが現状であろう。
しかしそれらの人達も記紀の記述の凡てが‘作り話である’とは言い切れずにいるのも確かである。それらの人達は「記紀の神代の物語は各地に伝わった伝承を、脚色したり、つなぎ合わせたりしているのであろう」とある意味で記紀は史実である事を認めている気配もある。
先の私のブログで記紀が史実を基にして書かれていることの片鱗を示した。これからこれまで展開してきた記紀の解釈を基にして、更に想像力を膨らませて記紀の記述から倭国の空白の200年の古代史を大胆に推理してみたい。
前回の推理の如く各世代の政権機関を10年として推理を進める。()内は中国の歴史書からの史実を記す。
西暦140~189年年頃・・・魏志倭人伝に倭国大乱と有る。この頃イスラエルの失われた支族の末裔達が倭国へ渡来。内一支族が淡路島に上陸、他の支族も壱岐の島や佐渡島に上陸し倭国を侵略していた頃を、‘倭国大乱’としているのではないかと推察する。
西暦190~230年年頃・・・この間にイスラエルの支族の末裔達・伊邪那岐命・伊邪那美命の連合軍が四国から北九州を中心に侵略、北九州筑紫に都を構える。イスラエルの神`ヤハウエの神の子'と言う意味の`ヤァ・ウマトゥ'から自らをヤマトと名乗る。(魏志倭人伝はこのヤマトに漢字を当て邪馬台国と記した)
他の支族も出雲や越の国を侵略。
西暦240年頃・・・伊邪那岐命の時代に瀬戸内までその勢力範囲とした後、国を天照大神(卑弥呼)に任せる。(魏志倭人伝は倭国が乱れたので、卑弥呼を女王として立て国が治まったとし、239年に魏の国は卑弥呼に‘親魏倭王’の金印を与えたと記されている)
西暦248年・・・・天照大神(卑弥呼)、素戔鳴尊(狗奴国)との戦いに敗れ北九州・筑紫の都を捨て、宮崎県の高千穂峡の山中に隠れる。魏志倭人伝は卑弥呼の死を伝えているが、古事記はこれを天岩戸騒動として表わした。天照一族はこの高千穂峡を拠点として政治を行った。高千穂峡(霧島の高千穂の峰ではない)には、天岩戸神社他古事記の記述に沿った旧跡が多いことから推理した。
西暦250年頃・・・天照大神天岩戸から甦る。ここでは天照二世とする。(魏志はこれを卑弥呼の宗女・台与が13歳で女王を継ぐと残している)二世はスサノオとの戦いに勝ち、スサノオを追放した後も、高千穂を拠点として政をした。この時代に古事記の国譲りで有名な出雲の国と戦い、天孫族(邪馬台国)の属国とした。この台与の記述を最後に中国の歴史書から倭国に関する記述が消える。
西暦260年頃・・・天照二世の子(台予の子)天忍穂耳命に政権を譲る。命は引き続き高千穂を都として政をした。
西暦270年頃・・・天照(二世)の孫、天忍穂耳命の子・ニニギノ命に政権を譲る。天孫降臨である。天孫降臨の地を霧島の高千穂の峰とした理由は次のように考えている。ニニギノ命は高千穂峡に生まれた。古事記の作成時に、ニニギの命を天孫として降臨する筋書きが出来たとき、降臨する地は高千穂という名を使うこととし、降臨するにふさわしい景観・雰囲気を持っている場所を探す必要があった。あまり高千穂峡から離れていても都合が悪い。そこで神が降りるに最も相応しい地として霧島の峰が選ばれた。一度訪れた方はこの意味が理解いただけると思う。訪れた事のない方のために簡単に説明しよう。沢山の火山性の山が重なり、多くの火口が月の世界を思わせる。正に神が降臨するに相応しい神秘的な地と言える。高千穂が九州に二箇所あるのはこのためであろう。ニニギノ命は都を高千穂峡から日向の国の笠沙(薩摩半島)に都を移した。この地でニニギノ命は大山津見神の娘・木花咲夜姫と出会い娶る。大山津神は言い換えると陸の神であり、強力な陸軍を持つ一族を意味する。二人の間に海幸彦と山幸彦が生まれる。ニニギの命はこの地に没した。川内市の可愛山上陵がニニギノ命の墓とされている。川内市は笠沙の岬から50キロ北にある。
西暦280年頃・・・山幸彦は兄海幸彦との戦いに、海の神(対馬の安曇一族)を味方につけ、兄と隼人族を破り、山幸彦(火遠理命)が政権を握る。この時点で山幸彦には妻・豊珠姫の父・綿津身の神(海神)安曇族と、兄・海幸彦に従っていた隼人族の二つの強力な水軍を得る。この話の詳細は拙著のブログ7/30付けの‘山幸彦の戦略’を参照されたい。父の代に味方にした大山津神・陸軍とあわせ強力な軍備を備えた事を意味する。山幸彦の御陵は霧島の高千穂の峰の東、蛤良郡溝辺町に有る事から、都を笠沙から現在の鹿児島空港付近に移したのではないかと考えられる。妻・豊珠姫が鵜葦草葺不合命(鵜命と略す)、神武天皇の父を産む。
西暦290年頃・・・鵜命の治世。鵜戸神宮や宮崎神宮などから鵜命は宮崎県の海岸線、現在の西都市辺りに都を移したと考えられる。ニニギノ命から鵜命までを日向三代と呼んでいる。(古くは薩摩半島を含め日向と呼んでいた)
西暦300年頃・・・鵜命の子・カム・ヤマト・イワレビコ・ミコト(後の神武天皇)の東征が始まる。日向三代で二つの水軍と陸軍を従えていたことが、東征の動機につながったのであろう。16年余をかけて難波に至り、那賀須泥彦彦を倒し都を構え、都の名をヤマトとした。後に大和(大倭の倭の字を和に変えた)という字が当てられる。
 古事記の‘国生み’を‘国取り’と解釈すれば、天孫族(邪馬台国)は伊邪那岐命から天照大神の時代に、四国、北九州、瀬戸内、出雲をその支配下に治めた。その後日向三代が、抵抗勢力であった熊襲や隼人などの南九州の反抗部族を改めて従え、天孫族(邪馬台国)が西日本を代表する王家となった。そして神武天皇が東の良き国を目指すまでが古事記の神代の物語として記述されたのではないだろうか。
 これが先のブログで神武天皇の治世開始を西暦300年頃とした、空白の200年を埋める仮想の倭国の歴史である。神武天皇以降、有史の天皇といわれる第15代応神天皇までの時間を、応神天皇から第50代桓武天皇までの平均治世期間10年と同じとして約140年を加えれば、応神天皇在位時期は西暦440年頃となり、空白の日本の古代史は無事埋まった事になる。



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