倭国、大和国とヘブライ王国

ヤマトとはヘブライ王国の神・ヤハウエの民を意味するヘブライ語‘ヤァ・ウマトゥ’が変化したものであろう

大国主命の治世、出雲王国の成立

2006-02-26 09:51:45 | 歴史
 出雲の八十神の迫害を逃れ、根の国に渡った大国主命はそこでも直ぐに姫に見初められる。因幡の姫にもてたとき、結果的には八十神の恨みを買うと言う‘女難’であった。この根の国のスセリ姫との恋もまた、姫の父の色々な攻めに会うという女難となる。出雲の地では母に助けられたが、この根の国での虐めでは、スセリ姫の内助の功によって、全ての攻めをしのいだ。しかし最後の結果を見るとこの父の攻めは、婿殿を男にするための修行の意味があったような気がする 。
古事記はこの父をスサノオとしているが、大国主命の6代前の人が生きているのは現実的ではない。スサノオ直系か、或いはスサノオの一族の長であったのであろうと解釈している。
古事記では父の執拗な攻めから逃れるため、姫と一緒に根の国から逃げることになるが、出雲の地まで追ってきた父君が、婿殿に次のようなアドバイスをしたことから、攻めは虐めではなく、婿殿を男にするための修行であったと考えた。そのアドバイスとは「その汝が持てる生太刀、生弓矢を持ちて、汝が庶兄弟(八十神)をば、坂の御尾に追い伏せ、また河の瀬に追い掃いて、俺大国主命となり、その我が娘スセリ姫を妻とし、・・・」であった。
紀の国で八十神の執拗な追尾を逃れてかなりの時間がたっていたが、八十神の執念は深く、いまや遅しと大国主命の帰りを待っていた。
根の国の修行で一回り大きくなって出雲の地に帰った大国主命は、今度は逃げなかった。スセリ姫の父から盗んできた弓矢と剣は、倭国より文明の進んでいた朝鮮製である。生太刀、生弓矢の‘生'とは‘生まれた’と読めば、‘生まれたばかりの新型’という意味と解釈してよいのではないだろうか。根の国=朝鮮で新型の武器と考えれば、出雲の武器より数段優秀であったに違いない。父のアドバイスどおり、その‘生’弓矢と‘生’剣で八十神を山に追い詰め、河に追い落とし、瞬く間に亡ぼした。
古事記はこれを「初めて国を造りたまいき」と記している。古事記には記述が無いがスサノオが出雲の国を造り、根の国に去った。その後出雲の国は再び細かく分かれ、国としての体裁がなくなっていたと想像する。代を経るに従い更に細かく分かれ、スサノオから数えて6代後の大国主命の時代になると、正に八十神によって治めらる、豪族の集まりの様な状態になっていたのではないだろうか。
そこに‘双葉より芳しかった’大国主命が、一回りも二回りも大きくなって帰ってきた。その大器が新兵器を持って帰ってきたのであるから、全ての八十神は敵ではなかった。
此処に大国主命が治める、新しい出雲の国が誕生した。しかし前途多難であった。スセリ姫の父から「スセリ姫を嫁として迎え、王と成れ」と言われていたにも拘らず、先に八十神に追われる原因となった因幡の八上姫を正妻に迎える。この辺は善人の大国主命の一面が見られる。しかし根の国からはるばる大国主命に着いてきたスセリ姫も立場がない。大国主命に対する父の攻めを、姫の機転で乗り切ってきた気丈夫な姫である。これには納得が行かなかったであろう。その激しい嫉妬に、八上姫は実家に帰ってしまう。帰り際、大国主命との間にもうけた御子を、木の股に挟んで帰っていったと記されている。御子の名は木俣神という。
大国主命が治める出雲の国は、どのような国になっていくのであろうか。

根の国について考える

2006-02-18 00:18:04 | 歴史
 大国主命は因幡の浜で助けた兎の予言どおり、兄達(八十神)が娶ろうとしていた稲羽の八上姫が、優しい大国主命を好いて、婿に選んだ。これに嫉妬し、憎んだ八十神は大国主命に対し数々の虐めをする。虐めと言うような生易しいものではなく虐待である。
古事記はこの様を「八十神の迫害」として記している。その迫害の概要は次の通りである。
最初は灼熱の大石を山から転がして、大国主命を下敷きにする。しかし大国主命の母(刺国若姫は邪馬台国から出雲へ嫁いで来た姫)は実家に助けを求めた。邪馬台国には出雲には無い治療法があったのであろう。ここに治療のために派遣されたのが、さき貝姫と蛤姫であった。姫達の「母の乳汁を塗りしかば・・・」と言う秘術により、大国主命は奇跡的に甦る。古事記の注記に‘さき貝’とは赤貝の意、蛤貝は字の通り‘はまぐり’を意味し、その秘術とは‘赤貝の殻を削り、蛤の汁で溶いた火傷の治療薬’と説明している。八十神はこの秘術に驚くが、大国主命に対する恨みはかなり深かったようだ。
次の虐めをすぐに実行する。次の陰謀は大木を二股に裂き、これに仕掛けをしておき、その二股の間に大国主命を誘い出したところで楔を抜いてしまう。大国主命は大木の又に挟まれ圧死状態になる。しかしこの時も母の必死の努力により甦生する。
八十神の迫害が止まらない事を感じた母は、大国主命を木国(紀の国)の大家毘子神(木の神)へ匿って貰うことにした。私は先に伊邪那岐命の時代に天孫族は紀の国の南部を取っていたと言う仮説を述べた。大国主命の母は天孫族から嫁いで来た事を考えると、この話は順当な話である。大家毘子神はきっと母の実家に繋がる親族であったのであろう。
しかし八十神の恋の恨みは深い。はるばる紀の国まで追いかけて来て大国主命を出せと弓矢で脅し要求する。これを古事記は次のように表わしている。「ここに八十神まぎ追い至りて、矢刺し乞う・・・」。そこで母は八十神が追う事を‘絶対に諦める’遠い国へ逃がすことを考えた。その遥かに遠い国とは父方の祖・スサノオの国「根の堅州国」であった。
今までスサノオは「根の国」へ隠居したとしている事から、「根の堅州国」とは「根の国」と同一の国と考えられる。先に「スサノオから大国主命へ」でその根の国は伊邪那美命が隠れた「黄泉の国」と同一であるとした上で、具体的にはそこは朝鮮であろうと言う仮説を紹介した。このしつこい八十神の迫害を逃れるために、紀の国より遥かに遠いところを地図を眺めたが、時代背景的には朝鮮しか無いと言えるのではないか。越の国や関東では逃げ切れないであろう。東北、北海道はこの時代全く未知の国であったから。と言うことは根の国=黄泉の国=朝鮮と言う私の仮説を、後押ししてくれる話と考えることができる。
大国主命は舟で、伊邪那岐命が築いた山陽道、瀬戸内を通って朝鮮まで逃げたのであろう。天孫族に知り合いの無い八十神達は、指を加えてその舟を見送るしかなかったと思う。
こうして八十神の追跡から無事逃れた大国主命は、しばらくスサノオの国・根の堅州国で過ごすことになる。

因幡(稲羽)の白兎の物語とは

2006-02-11 15:22:14 | 歴史
 大国主命主の時代とは、スサノオの時代から数えて6代を経過している。この時代大国主命は他の神々から虐めに遭っていたとされている。古事記ではこれを八十神の迫害として記している。その一つが「因幡の白兎」の物語である。この物語はここで説明するまでも無いであろう。ただこの物語の背景を私なりの解釈で説明しておきたい。
この頃の出雲の国は、スサノオの子孫達(八十神・大国主命の兄達))が国を細分化して治めていた。ちょうど戦国時代、尾張の国を織田一族が領地内を細かく分け、治めていたのに似ている。出雲の八十神はどれもどんぐりの背比べであったのであろう。その中で大国主命だけは「栴檀は双葉より芳し」で、その才覚が目立っていたため八十神に妬まれていたのではないだろうか。「出る杭は打たれる」の諺の如く、色々と虐めに遭っていた。
この「因幡の白兎」の時も、八十神(兄達)が隣の国の美しい姫を娶りに行く時、荷物持ちとして従者のように扱われている。そして因幡の浜でワニによって皮を剥がされた、白兎を助けることになる。これらの物語を歴史的事実を抽象化して伝えるものとした時、どんな歴史が見えてくるのであろうか。
出典が定かでなくなったので失礼するが(多分インターネットであったと思う)、以下のような歴史が隠されているという話に惹かれたので紹介する。
 この物語の主役の白兎は、この山陰道のどこかに居た兎荻族のことであろう。対するワニとはなんであろう。日本に昔ワニが居たとは考えられない。古代日本では鮫のことをワニと呼んでいたと言う。鮫族とすると海に長じた一族と考えられる。
九州に和邇族という海人族がいたという史実がある。この事から九州の和邇族が、山陽道まで進出してきて、兎荻族となんらかの敵対関係が生じていたのではないかと考えられる。海軍力に圧倒的に差の在る敵に対し、兎荻族は知略により和邇族を倒そうとした。作戦は成功したかに見えたが、土壇場で見破られてしまった。その結果、兎荻族は、領地は勿論、財宝の全てを奪われてしまった。それが兎の皮が剥がされ‘赤裸'にされたと言う表現になっている。
この史実を更に裏付ける話として次のような話があるという。それは大国主命が出雲王国の王になった後に、全てを失った兎荻族を哀れに思い、宇佐の土地を与えたと言う。この話が「因幡の白兎」の後半に、大国主命が赤裸になった兎の体を蒲の葉で包む事により、兎の皮を元通りにしたという話として語られたのではないだろうか。兎荻族はのちに宇佐族と呼ばれた。
 これらから見えてくることは、宇佐族と和邇族の戦いがあった時、時の王・大国主命が敗れた宇佐族を哀れに思って助けた話が、この「因幡の白兎」となったと言うことである。
この様にして古事記を読むと、裏に秘められた色々な歴史が見えてくる。
今まで古事記の神代記を「大和朝廷は『イスラエルの失われた十支族』の倭国侵略の物語である」と言う視点で読んで来たが、更にこの視点で読み進んで行きたい。

スサノオから大国主命へ

2006-02-05 15:14:12 | 歴史
 スサノオは大蛇を退治した後、稲田姫を娶り斐伊川の上流の須賀の地に宮を建てた。現在その地にはスサノオを御祭神とする須賀神社があり、その分社は全国に広がっている。スサノオが宮を建てた時、その喜びを表して一句詠む。
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」
これが我が国で読まれた最初の和歌とされている。この歌の意味は「古代神話」の作者武光誠氏は次のように解説している。「直訳すると‘美しい雲に守られた出雲の国の屋敷よ 妻のために作った屋敷よ 素晴らしい屋敷よ’となり解説すると‘愛する妻のために手間を掛けて立派な屋敷を作る行為は、素晴らしいことだ。そしてこの歌には国という大きな家を経営して、民衆の生活を安定させることを祝福している’意味が含まれている」としている。
これ以外にも色々な解釈があって、興味が尽きない歌である。その一つに安田嘉冶氏の著作「古事記の謎が解けた」では‘妻'を投馬国(魏志倭人伝の邪馬台国へ至る国の中に登場する国)として次のように解釈している。「出雲は厳重な国境線(八重垣)を作り、投馬国(つまこく)を閉じ込める(妻籠・つまごめ))ものである」と。魏志倭人伝では投馬国を、邪馬台国に至る手前の国としていることから、九州の北部に在った国と考えられる。出雲が北九州の覇権を掛けて、邪馬台国とにらみ合っていた、と考えればこの解釈もありうる。この歌の解釈にこれ以上の深入りはしないが、何れにしろスサノオは出雲の国の王として、確固たる位置を占めたことを表した歌であろう。
そしてスサノオは稲田姫の父を、この国の長官に定めた。その後稲田姫のほかに大市姫、木花知流姫を娶り多くの子をもうける。大市姫は伊邪那岐命の子・大山津見神の娘となっていることから、草薙の剣を天照大神に謙譲したことにより、出雲王国と邪馬台国はまだ争いに至るような関係にわ至っていなかったと想像される。或いは戦いを避けるための、政略結婚であったかもしれない。その大市姫が生んだ子が、後に大国主命の国造りに協力する大年神である。そして木花知流姫の子から数えて6代目に日本神話で最も有名な神・大国主命が生まれる。スサノオは子供達に出雲を任せ、根の国(母/伊邪那美命の国・黄泉の国=朝鮮)へ隠居した。
古事記では大国主命の名は合わせて五つ有るとしているが、別の資料によると七つになる。先ず古事記の五つを記すと;大国主神、大穴牟遅神、芦原色許男神、八千矛神、宇都志国玉神。更に大物主神、大己貴神がある。これに大国主命は現在でも‘大黒様’として慕われていることから、八つの名を持つ神といえる。
この多くの名に対しても種種の意見がある。例えば「多くの人の伝説を大国主命に置き換えた」と言う意見や、「大国主命は各地に出向き、善行を施したのでその土地その土地で成した仕事によって名が付いた」などがある。私は私のテーマから見ると、大きな問題ではないと思っているので判断は避ける。
古事記はいよいよ大国主命に係わる話に移る。その最初は誰でも知っている「稲羽の白兎」の話である。


素戔鳴尊と氷川神社

2006-02-01 16:46:33 | 歴史
 スサノオは斐伊川の上流の須佐に降臨し、大蛇退治の後須賀に宮を築いたという。現在どちらにも神社がある。そして実はどちらも斐伊川の上流なのである。先に斐伊川は八つ以上の支流があり、それが八岐大蛇の話に繋がったとした。それほどスサノオと斐伊川の関係は深い。ここに今一つその繋がりの深さを示す話を見つけた。
先に大宮市のJR大宮駅前に在る氷川神社の話をした。この氷川神社は明治天皇も参拝したという由緒ある神社で、御祭神はスサノオと大国主命、稲田姫が祭られている、武蔵野国一の宮である。
斐伊川はその音を取り、別の漢字を当てると氷川となる。その昔出雲族が関東地方にも勢力範囲を伸ばしたと言う仮説を立てた。そのような史実があれば出雲の祖スサノオを関東地方に祭ったとしても可笑しくはない。スサノオを祭る神社の名をなんとするか?地名から取るかスサノオの出目に係わる名から考えたであろう。出目からとすれば斐伊川である。漢字が使われ始めた頃は、殆どが漢字の音のみで訓は考えずに当てている。従って斐伊川に氷川と言う字を当てても何の不思議はない。
地方暮らしが長かった私には、氷川神社はあまり馴染みがない。しかし関東地方、特に東関東に目を向けるとかなりの数がある。先日読んだ原武史氏の著作『出雲という思想』に、この氷川神社に関連する記述があったので紹介する。
氏の調査によると氷川神社は東京都には59社、埼玉県には162社あるのに対して、他の都道府県には7社しかないという。それも荒川より西に集中しているという。そして氏は記紀の記述の中に、武蔵野国は大和族より先に出雲族が治めていたと思われる話が見られるとしている。
神社から日本の古代史を眺めてきた私にとって、正に力強い情報である。そして「天孫族と出雲族の国譲りの最終戦争があったのは、関東地方で有る」という仮説を後押しする話が同じ氏の記述の中にあったのだ。それは先ほど氷川神社と名のつく神社200以上が荒川の西にあるという話に対し、天孫族の国譲りの時のヒーローの一人、建経主神を祭る香取神社の分社が、荒川をはさんで東側(千葉側)にほぼ同数が配置されているという事実である。神社を兵士に変えれば、荒川をはさんで出雲族と天孫族が決戦を前にして陣を張っていた様が想像できる。
先に古事記の国譲りの物語では、建御雷神(茨城の鹿島神宮の御祭神)とこれを補佐する建経主神(千葉の佐原市の香取神宮の御祭神)が、出雲の建御名方神と争ったことが記されている。私は鹿島神宮の建御雷神が利根川の北を攻め、建経主神が利根川の南を攻めたという仮説をたてた。
この原武史氏の氷川神社と香取神社の配置は、正に私の仮説を裏付ける‘天孫族と出雲族の戦いの様そのものであると言えるのではないか!
出雲族は天孫族(大和一族)が倭国を従える以前に、この関東地方までもその勢力範囲に治めていたという話の、大きな裏付けとなると考える。