出雲大社参拝の折、一番印象に残ったのは、神楽殿と拝殿の巨大な注連縄であった。インターネットで注連縄について調べてみた。
「注連縄は古事記の天の岩戸騒動で、天照大神が洞窟から出てきた時、二度とそこへ戻れぬようにその入り口に張った縄を‘尻久米縄’と呼び、それが注連縄の始まりである」と書かれていた。そしてその目的について「一本の縄が境界を示し、占有の印、清浄・神聖な場所を区画する、立ち入りを禁止する意」として、各地の色々な注連縄が紹介されていた。その中で一際目立ったのが、やはり出雲大社の注連縄であった。神楽殿の注連縄は長さ13M、重さ8Tと紹介されていた。圧倒的な迫力である。拝殿の注連縄は一回り小さいがそれでも長さ8Mに及ぶ。次の説明文に目が止まった。「出雲大社の注連縄の向きは他の神社と逆で、左が本で、右が末になっている」と書かれていた。
インターネットの説明はこれで終わっているが、私にはこれが大変な意味を持つと直感した。それは注連縄を逆に張った理由が、大国主命を二度とこの世に出さないためではないかと思ったからである。普通の神社の御祭神は、注連縄によって縛られていない。それは次の習慣で説明できる。工事現場で安全祈願の式典を行う時、神主が「降神の儀」と称して神に現場までご来臨戴き式を進め、終わると「昇神の儀」で神を神社に御送りしている。
天孫族は大国主命が二度とこの世に出てこられないように、注連縄を逆に張ったと考えられないか。それだけでは心配で、巨大な注連縄にして大国主命の強い霊力を遮断したのではないかと考えられる。更に永遠にその意思を引き継ぐため、出雲大社の宮司は代々天照大神の子・天穂比神の末裔・千家が勤めていると考える事ができる。現在の宮司は神代の時代から数えて84代目と言う。
それでは天孫族は何故それまでして、大国主命を封印したかったのだろうか。古事記では建御雷神と建御名方神の争いはあったが、大国主命とは話し合いで国譲りが行われた事になっている。しかしその事実は前述のような注連縄を使って、閉じ込めなければならないほど、大国主命の霊は怨霊になっていたのではないだろうか。それは大国主命が怨霊になるような、卑怯な戦術が使われたか、残忍な手段で殺されたと考えれば納得が行く。
井沢元彦氏の大作「逆説の日本史1・古代黎明期」にも同様な記述があり、この考えが異端な物でない事に安堵した。井沢氏は注連縄の話に続け、出雲大社の本殿の中に祭られた御祭神について述べている。それは「大国主命は西を向いて祭られ、その西に古事記の別天津神五神として登場する神達が、正面を向いて祭られている」と記述している。その意図を「参拝客が大国主命を参拝しているつもりが、実はその五神を拝む事になるようにした」としている。私もその考えには共感するが、更に井沢氏は、五柱の神は大国主命がこの世に出る事を防ぐための、見張りの役目も持っていると言う。大国主命の強い霊力を抑えるためには、天地創造の神達を総出演させる必要があったのであろう。それほど大国主命の怨霊は強かったと言える。
古事記の中では、天孫族が大国主命の言うがままに、壮大な社を造りそこに祭ったとしている。しかし私は先に天孫族が出雲を治めるに際し、出雲の民達の大国主命に対する敬慕の気持があまりにも大きいので、民の反発を恐れ、政の意味から大きな社を築いたと説明してきた。民は大きな社の建設により、大国主命が強い怨霊に成っている事を知るすべも無く、天孫族に支配される事を渋々納得したのであろう。一般の神社では二拍するのを‘幸せ・四合わせ’の四と教わり、四拍して参拝した。実は大国主命に死(四)を宣告するための‘四拍’(出雲大社は二礼四拍一礼)とも知らずに・・。
「注連縄は古事記の天の岩戸騒動で、天照大神が洞窟から出てきた時、二度とそこへ戻れぬようにその入り口に張った縄を‘尻久米縄’と呼び、それが注連縄の始まりである」と書かれていた。そしてその目的について「一本の縄が境界を示し、占有の印、清浄・神聖な場所を区画する、立ち入りを禁止する意」として、各地の色々な注連縄が紹介されていた。その中で一際目立ったのが、やはり出雲大社の注連縄であった。神楽殿の注連縄は長さ13M、重さ8Tと紹介されていた。圧倒的な迫力である。拝殿の注連縄は一回り小さいがそれでも長さ8Mに及ぶ。次の説明文に目が止まった。「出雲大社の注連縄の向きは他の神社と逆で、左が本で、右が末になっている」と書かれていた。
インターネットの説明はこれで終わっているが、私にはこれが大変な意味を持つと直感した。それは注連縄を逆に張った理由が、大国主命を二度とこの世に出さないためではないかと思ったからである。普通の神社の御祭神は、注連縄によって縛られていない。それは次の習慣で説明できる。工事現場で安全祈願の式典を行う時、神主が「降神の儀」と称して神に現場までご来臨戴き式を進め、終わると「昇神の儀」で神を神社に御送りしている。
天孫族は大国主命が二度とこの世に出てこられないように、注連縄を逆に張ったと考えられないか。それだけでは心配で、巨大な注連縄にして大国主命の強い霊力を遮断したのではないかと考えられる。更に永遠にその意思を引き継ぐため、出雲大社の宮司は代々天照大神の子・天穂比神の末裔・千家が勤めていると考える事ができる。現在の宮司は神代の時代から数えて84代目と言う。
それでは天孫族は何故それまでして、大国主命を封印したかったのだろうか。古事記では建御雷神と建御名方神の争いはあったが、大国主命とは話し合いで国譲りが行われた事になっている。しかしその事実は前述のような注連縄を使って、閉じ込めなければならないほど、大国主命の霊は怨霊になっていたのではないだろうか。それは大国主命が怨霊になるような、卑怯な戦術が使われたか、残忍な手段で殺されたと考えれば納得が行く。
井沢元彦氏の大作「逆説の日本史1・古代黎明期」にも同様な記述があり、この考えが異端な物でない事に安堵した。井沢氏は注連縄の話に続け、出雲大社の本殿の中に祭られた御祭神について述べている。それは「大国主命は西を向いて祭られ、その西に古事記の別天津神五神として登場する神達が、正面を向いて祭られている」と記述している。その意図を「参拝客が大国主命を参拝しているつもりが、実はその五神を拝む事になるようにした」としている。私もその考えには共感するが、更に井沢氏は、五柱の神は大国主命がこの世に出る事を防ぐための、見張りの役目も持っていると言う。大国主命の強い霊力を抑えるためには、天地創造の神達を総出演させる必要があったのであろう。それほど大国主命の怨霊は強かったと言える。
古事記の中では、天孫族が大国主命の言うがままに、壮大な社を造りそこに祭ったとしている。しかし私は先に天孫族が出雲を治めるに際し、出雲の民達の大国主命に対する敬慕の気持があまりにも大きいので、民の反発を恐れ、政の意味から大きな社を築いたと説明してきた。民は大きな社の建設により、大国主命が強い怨霊に成っている事を知るすべも無く、天孫族に支配される事を渋々納得したのであろう。一般の神社では二拍するのを‘幸せ・四合わせ’の四と教わり、四拍して参拝した。実は大国主命に死(四)を宣告するための‘四拍’(出雲大社は二礼四拍一礼)とも知らずに・・。
「どてっ」とした、あの特大注連縄をまじまじとみつつ考えた。これまでは、正月の注連縄もお飾りにしか観てこなかったが、太いのは「誰かさん」を閉じ込めるネライかも?
世の中ボケッとしていると、トンダコトになるのだろうか・・・。