倭国、大和国とヘブライ王国

ヤマトとはヘブライ王国の神・ヤハウエの民を意味するヘブライ語‘ヤァ・ウマトゥ’が変化したものであろう

不思議の社‘元伊勢籠神社'

2006-05-20 23:47:31 | 歴史
 出雲大社参拝の折、天橋立に立ち寄った。丁度満開の桜の時期と重なり、松の緑、宮津湾の海の青さもあって、日本三景の名に恥じない美しさであった。しかし勉強不足で、天橋立が、日本古代の神話と関係ある名所とは知らなかった。ガイドの説明によれば、「伊邪那岐命は籠宮にいた伊邪那美命に会うために、高天原からこの宮津に梯子を降ろした。その梯子が倒れて宮津湾に横たわり天橋立になった」と言う事であった。説明の後、伊邪那美命が御鎮座しておられた籠宮(現在の元伊勢籠神社)を参拝した。こちらも勉強不足で、「天照大神が伊勢に来る前にここに鎮座していたので‘元伊勢'と言う」事くらいしか知らなかったが、社務所で買った御由緒略記を読んでビックリした。
「籠神社はかって山陰八国を代表する官幣大社で、最高位の正一位の位を賜っていた」と書かれていた。あの出雲大社ですら正二位である。読み進んでいくと更に驚きが続く。天照大神の話から元伊勢と呼ばれ、江戸時代の頃は‘お陰参り'の行列が天橋立を埋め尽くしたと言う。その様子を民謡で次の様に歌われた。
 ‘伊勢に参らば 元伊勢参れ 元伊勢伊勢の故郷じゃ 伊勢の神風海山越えて 天橋立吹き渡る’
驚きはこれで止まらない。籠神社からは国宝が二つ出ている。一つは雪舟の描いた「天橋立図」(京都国立博物館所蔵)、いま一つは「海部氏家系図」である。特にこの海部氏家系図が只者ではない。この家系図は昭和51年に現存する日本最古の家系図として国宝に指定されているもので、海部氏の始祖・彦火明命から現在の宮司までなんと82代、2000年の歴史を途切れることなく示しており、特に当主の事跡だけではなく、兄弟の傍系に至るまで詳細な記述がされていると言う。中には他の古記録には失われている古代の貴重な伝承も含まれていると言われ、今考古学会で注目を集めていると言う。確かにこの海部氏家系図の話は、以前読んだ本の中に「これら全ての伝承が白日の本になると、日本の古代史がひっくり返る」と書いてあったような覚えがある。天皇家の2600年、出雲大社の千家とこの海部家が、2000年の時の流れを今に引き継いでいることは、ただただ驚きでしかない。伊勢神宮、熱田神宮など他の歴史のある神社の宮司も、皆同じような歴史を刻んでいると想像される。不思議の国、‘日本'である。
 紹介が遅くなったが元伊勢籠神社の御祭神は海部家始祖の彦火明命であり、天照大御神の御子の一人である。御由緒略記はこの命の別名を、饒速日命であるとし次に驚くべき事が書いてあった。それは別伝に曰くとして「大汝命(大国主命の事)の御子である」と書かれているのだ。
この二つの事から私が長く頭から離れない謎が解けた。その謎とは「大和の地の神の山・三輪山に何故出雲の主・大物主神(大国主命と言われている)が祭られているのか?」と言う疑問だ。大和朝廷は大国主命の怨霊を恐れ、出雲大社に封印したほどなのに、何故大和王朝の神聖なる三輪山にその怨霊を祭っているのか。この疑問は私だけではなく、古代史に興味を持つ者の共通の疑問ではないだろうか。
日本書紀には饒速日命は天の磐船に乗って難波に降臨したとしている。難波の王・那賀須泥彦の娘を娶り、入り婿として実質難波の国を治めていた。そして神武天皇との戦いに敗れ、以後物部氏と名乗り(古事記)天孫族に仕えたと書かれている。
籠神社の御由緒略記には饒速日命は大和国および河内、丹波(丹後)に降臨し、丹波国造りの祖となったと書かれている。
記紀と御由緒略記を重ね、私が考えた三輪山の大物主神の物語は以下の通りである。「出雲を後にした饒速日命は、丹波の宮津湾に上陸した。ここを拠点として力を蓄え畿内に攻め入った。那賀須泥彦は思いのほか強く、戦いが長引く。最後は政略結婚という手段で那賀須泥彦の娘を娶り、娘婿として難波の王と成った。饒速日命の治世は民にも認められ、その名は九州・日向の神武天皇まで聞こえるほどであった。その後故郷の出雲が天孫族の手に落ち、父大国主命(大物主神)が無念の死を遂げた事を聞く。弔い合戦に及ぶほどの国力は無かったので、戦いを諦め、大和の三輪山に大物主神を祭り、父を偲んだ。大神神社である。その後神武天皇がこの地を攻めてきた時、難波の軍の猛攻に一度は退いたのは、饒速日命が父の恨みを果たすべく、果敢に戦ったからと考えると理解できる。神武天皇は難波(大和)を征服した後、三輪山の大国主命の対応に苦慮したが、出雲大社に厚く祭ったように、大国主命を他に移すことは民の反応を考えると為政上も得策ではないと判断し、そのまま三輪山の主として祭り続けた」。
このような仮説を立ててみると、大和の聖地・三輪山に出雲王国の王・大国主命が祭られていることに納得がいく。
又私の持論に結びつけると、出雲族の傍系となる饒速日命・物部氏も、イスラエルの失われた十支族のうちの一部族であると考えられる。
最後になったが籠神社の名の由来は彦火明命が‘籠’舟に乗って、海神の宮に行った話に由来すると述べられている。これも一寸引っかかるがこの次にしたい。

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2 コメント

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股のぞき   (虚庵)
2006-05-25 01:14:48
かれこれ20年ほど過ぎたであろうか、

義理の姉の葬儀で、宮津を訪れた。



娘が始めてミシガンへ留学した際に、虚庵夫人と

義姉が「付き添い」と言う名目で、実は娘に

連れられて、

3週間ほど渡航して、二人だけで帰国した。



それから丁度1年目に、義姉が亡くなった。

急遽帰国した娘と、米原駅のホームで落ち合って、田舎の小さな寺に馳せ参じた。



葬儀の済んだ後に、義姉の枕元に飾ってあったという、

娘と3人で撮った写真を見せられて、熱いものが

こみ上げてきた。子供の無かった義姉にとっては、

実の娘との海外旅行のような素晴らしい思い出で

あったことだろう。



見晴らし台に娘と立って、あの長く続く松原を

しみじみと眺めた。



親娘3人で股のぞきしたのは、後にも先にも

あの時だけだった。

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追憶 (へぶらいびと)
2006-05-25 10:24:50
私のブログが虚庵様の胸を締め付けるような思い出と繋がっているのですね。これも天照大御神、饒速日命のお力の成せることなのでしょうか!
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