北九州、宗像市の沖60キロの玄界灘の荒海の中に、周囲4キロの小さな孤島がある。ここに沖津宮という神社があり、多紀理姫が御祭神として祭られている。この神は天照大神とスサノオの‘天の安河原の誓約’のときに生まれた、三柱の女神の一人である。この三神は宗像三神としても有名で、昔から海上交通安全の神として祭られている。多紀理姫は、古事記の出雲の物語で大国主命に嫁いだとされている。沖の島はその小さな島に係わらず、4世紀から10世紀に跨る国宝、重要文化財が、なんと12万点も発掘されていることでも知られ、海の正倉院と呼ばれている。
このブログのタイトルを「不思議の島」とした理由は、地図にも載らないような小さな島、小さいだけでなく、陸から60キロも離れ、周辺にも全く島影が見えない孤島に、何故12万点にも及ぶ国宝・重文が出たのか??と言う驚きからである。ちなみに関東地方に置き換えると、伊豆の下田から神津島くらいの距離である。日本海が穏やかなのは夏の間だけで、特に10月から4月の半年は荒海が続く。その孤島へ手漕ぎか帆船かは定かでないが、運が悪ければその途中に遭難してしまう。
かなり有名な一ノ宮を訪ねても国宝が有るのは珍しく、せいぜい重文が宝物殿に飾られているのが実情である。国宝とは重要文化財の中で、国が特に貴重と判断したもので、一寸データが古いが、1970年代の国宝の数は1000点であった。現在上野で開かれている「最澄と天台宗の国宝」展で展示されている国宝が31件、重文が100点と発表されている。沖ノ島の国宝と重文の比率は解らないが、日本の全ての国宝の数が1000点と考えると、異常な数と言えるのではないだろうか。
先日千葉県佐原市にある「国立歴史民俗博物館」へ行ってきた。そこで再び沖ノ島が‘不思議の島’である事を再確認した。
この博物館は日本の歴史・民族の全ての時代のものを、五つの区画に分けて展示している。その第一展示室が縄文時代から律令国家までとして、様々な物を展示している。この第一展示室の一割のスペースを占有して、「沖ノ島」と言うコーナーがあったのだ。私が手もとに置いている2001年発行の「日本史総合図鑑」の何処を開いても「沖ノ島」に関する記述は無い。
博物館の資料は沖ノ島について次のように説明している。
「玄界灘の孤島沖ノ島には、宗像大社の沖津宮があり、古くから神の島として信仰の対象とされてきた。・・・・・沖ノ島における古代からの祭礼は日本と朝鮮半島或いは中国大陸との海上交通に係わるものであったと想像される。又海外からの移入品を含む各時代の豪華な奉献品から、その祭礼はヤマト王権によって始められたものと考えられる。」としている。別の資料にはその豪華な移入品の中にはペルシャからのものも有ったと記されている。又遺跡からの出土品は鏡、玉類、宝器、武器、工具、馬具、剣などあらゆる品に及ぶとしている。
ここで私の考えを述べたい。国立博物館の説明によると「ヤマト王権が祭礼のために奉納した」としているが、先に述べた地理的条件から考えて現実的ではないと考える。1000年以上も前の時代の航海術で、60キロ沖の小島を往復するのは至難の業である。航海の安全を祈るのであれば、出航前に陸で祭礼を行うのが自然であり、陸にある宗像大社で祈願し、宝物を奉献するのが一般的な見方ではないか。運が悪ければ安全祈願の目的の航海で、遭難してしまうことになる。ペルシャや中国から輸入した大事な宝を、再び孤島に奉献することは、常識からしても到底納得いくものではない。
では何故この沖ノ島から12万点余の国宝・重文が発掘されたのであろうか。
沖ノ島が載っている大きな地図を見ると、舟の流れが想像できる。朝鮮から九州に渡る時は対馬、壱岐島を経由する。これは魏志倭人伝の邪馬台国に至るルートとして有名である。朝鮮から出雲、隠岐に行く時、この沖の島は丁度良い中継点になる。古代、「失われたイスラエルの支族」のある一族は、朝鮮から倭国に渡る時、九州には既に強い勢力があったため(黒潮に乗って倭国へ来た他のイスラエルの支族・天孫族)、それらとの接触を避け一旦沖ノ島に拠点を定めた。後続の一族は沖の島を中継地として隠岐島、出雲の国を目指した。逆に出雲から朝鮮へ行く時も沖の島を経由した。そしてその支族の一部が島に留まり、島を経由する人々の面倒を見るようになった。航海者は、はるばる異国から持ってきた宝を、お礼として沖ノ島の人々に残していった。それらが積もりに積もって12万点に及んだのであろう。
沖ノ島から、質も量も想像を遥かに超えた宝物が、出土した理由、以上のように考えると納得が行くと思うが如何であろうか。
宗像三神に祭られる神がスサノオの子であること、大国主命が沖の島の姫を娶っている事も、これらの歴史の一コマを現しているのではないだろうか。
このブログのタイトルを「不思議の島」とした理由は、地図にも載らないような小さな島、小さいだけでなく、陸から60キロも離れ、周辺にも全く島影が見えない孤島に、何故12万点にも及ぶ国宝・重文が出たのか??と言う驚きからである。ちなみに関東地方に置き換えると、伊豆の下田から神津島くらいの距離である。日本海が穏やかなのは夏の間だけで、特に10月から4月の半年は荒海が続く。その孤島へ手漕ぎか帆船かは定かでないが、運が悪ければその途中に遭難してしまう。
かなり有名な一ノ宮を訪ねても国宝が有るのは珍しく、せいぜい重文が宝物殿に飾られているのが実情である。国宝とは重要文化財の中で、国が特に貴重と判断したもので、一寸データが古いが、1970年代の国宝の数は1000点であった。現在上野で開かれている「最澄と天台宗の国宝」展で展示されている国宝が31件、重文が100点と発表されている。沖ノ島の国宝と重文の比率は解らないが、日本の全ての国宝の数が1000点と考えると、異常な数と言えるのではないだろうか。
先日千葉県佐原市にある「国立歴史民俗博物館」へ行ってきた。そこで再び沖ノ島が‘不思議の島’である事を再確認した。
この博物館は日本の歴史・民族の全ての時代のものを、五つの区画に分けて展示している。その第一展示室が縄文時代から律令国家までとして、様々な物を展示している。この第一展示室の一割のスペースを占有して、「沖ノ島」と言うコーナーがあったのだ。私が手もとに置いている2001年発行の「日本史総合図鑑」の何処を開いても「沖ノ島」に関する記述は無い。
博物館の資料は沖ノ島について次のように説明している。
「玄界灘の孤島沖ノ島には、宗像大社の沖津宮があり、古くから神の島として信仰の対象とされてきた。・・・・・沖ノ島における古代からの祭礼は日本と朝鮮半島或いは中国大陸との海上交通に係わるものであったと想像される。又海外からの移入品を含む各時代の豪華な奉献品から、その祭礼はヤマト王権によって始められたものと考えられる。」としている。別の資料にはその豪華な移入品の中にはペルシャからのものも有ったと記されている。又遺跡からの出土品は鏡、玉類、宝器、武器、工具、馬具、剣などあらゆる品に及ぶとしている。
ここで私の考えを述べたい。国立博物館の説明によると「ヤマト王権が祭礼のために奉納した」としているが、先に述べた地理的条件から考えて現実的ではないと考える。1000年以上も前の時代の航海術で、60キロ沖の小島を往復するのは至難の業である。航海の安全を祈るのであれば、出航前に陸で祭礼を行うのが自然であり、陸にある宗像大社で祈願し、宝物を奉献するのが一般的な見方ではないか。運が悪ければ安全祈願の目的の航海で、遭難してしまうことになる。ペルシャや中国から輸入した大事な宝を、再び孤島に奉献することは、常識からしても到底納得いくものではない。
では何故この沖ノ島から12万点余の国宝・重文が発掘されたのであろうか。
沖ノ島が載っている大きな地図を見ると、舟の流れが想像できる。朝鮮から九州に渡る時は対馬、壱岐島を経由する。これは魏志倭人伝の邪馬台国に至るルートとして有名である。朝鮮から出雲、隠岐に行く時、この沖の島は丁度良い中継点になる。古代、「失われたイスラエルの支族」のある一族は、朝鮮から倭国に渡る時、九州には既に強い勢力があったため(黒潮に乗って倭国へ来た他のイスラエルの支族・天孫族)、それらとの接触を避け一旦沖ノ島に拠点を定めた。後続の一族は沖の島を中継地として隠岐島、出雲の国を目指した。逆に出雲から朝鮮へ行く時も沖の島を経由した。そしてその支族の一部が島に留まり、島を経由する人々の面倒を見るようになった。航海者は、はるばる異国から持ってきた宝を、お礼として沖ノ島の人々に残していった。それらが積もりに積もって12万点に及んだのであろう。
沖ノ島から、質も量も想像を遥かに超えた宝物が、出土した理由、以上のように考えると納得が行くと思うが如何であろうか。
宗像三神に祭られる神がスサノオの子であること、大国主命が沖の島の姫を娶っている事も、これらの歴史の一コマを現しているのではないだろうか。