倭国、大和国とヘブライ王国

ヤマトとはヘブライ王国の神・ヤハウエの民を意味するヘブライ語‘ヤァ・ウマトゥ’が変化したものであろう

四国について更に考える

2005-08-21 14:03:57 | 歴史
 「古代ユダヤと日本建国の秘密」の著者・大杉博氏は四国の剣山にソロモン王の秘宝・契約の箱が隠されている。そして邪馬台国は四国に在ったと言う。
もう一度古事記を読んでみた。
 古事記‘神代七代’の後の章で、伊邪那岐命と伊邪那美命の国創りが物語られる。最初に比蛭子(ひるこ)を生むが葦舟に入れて流した。次に淡島を生むが、子の例(たぐい)に入らなかった。若かった二人の神は最初の子つくりに失敗したが天つ神の助言を得て改めて子創りに励む。その結果最初に出来た子(島)が淡路島であった。(古事記では淡路の穂の狭別島と表現されている)次に四国(同伊予の二名島)を造った。その後は子(島・国)創りに慣れ次々と子を作り日本列島をお創りになられた。
概略は以上の通りであるがこの短い小節の中に二つの発見がある。
一つ・・・‘比蛭子’を流すのに何故葦舟を使ったのか
一つ・・・失敗の後に最初に創る島が何故淡路島なのか?次に創る島が何故四国だったのだろうか
この二つについて考えてみた。
葦の舟はエジプト、メソポタミア文明など木の文化の無かった中近東の産物ではないのか。木の豊富な倭国で葦舟とは以下にも違和感がある。古代の倭国には丸木舟は無く、舟が造られるほどの立派な葦が群生する川や湖があったとは思えない。
前出の大杉氏は「イスラエルの失われた支族の一部は、シルクロードを使った陸路ではなく、葦の舟(パピルスの舟)を使い、インド洋経由し太平洋に回り黒潮に乗って倭国に辿り着いたのではないか」と言う仮説を立てている。有り得ない話ではない。詳細は忘れたが最近実際に葦の船を作り中近東から日本まで航海した冒険家が居たと言う記憶がある。仮にソウだとすると「‘比蛭子’を葦舟で流す」と言う表現の中に、古事記の作者が葦舟で倭国に入られた一族に近い人だったのではないかという素朴な疑問が湧いてくる。
先に私は神社の建屋の形式について、大社造りとその他に分けた。そして大社造りが東南アジアの古い建屋の形式に似ていることから、「伊勢神宮(大社造り)の天孫族と出雲大社の出雲族は船で東南アジア経由で九州・日向の海岸に辿り着いたのではないかと考えている」と述べた。しかし大杉氏の四国高天原説を基に古事記を読み直してみると、失われたイスラエルの支族が最初に辿り着いたのは九州ではなく淡路島だったのではないかと言う考えに惹きつけられる。そしてイスラエルの支族は淡路島から四国へ移動し、吉野川を遡り剣山へ向かったと言う考えが、この国創りで、‘淡路島の次に四国を生んだ’と言う物語として記述したのではないかと想像できる。
淡路島には「伊邪那岐神宮」があり、一ノ宮として地元の人の信望を集めているが決して全国区的な神社ではない。何度も言ってきたがわが国の最高の神社は伊勢神宮である。ここに一つの疑問が湧いてくる。それは、日本国を創った神・伊邪那岐命を最も位が高い神として祭るのが自然であり、なぜ天照大神が伊邪那岐命を超えて伊勢神宮に最高神として祭られているかを次の様に考えた。
古事記編纂にあたり天武天皇は稗田阿礼に対し「倭国に最初にたどり着いた‘イスラエルの失われた支族’の祖である伊邪那岐命は旧約聖書を基に重要な神と位置付けて物語せよ。しかし物語は、四国の剣山に‘契約の箱’があることを隠すために、祖は九州にたどり着いた様に脚色するが、実際に最初に辿り着いた淡路島を国創りの最初の島として古事記に残せ。この国を征服したのは天照大神を祖としたヤマト一族であるので、神の位としては天照大神を最高神として物語を纏めよ」、とこのように指示したと考えることは出来ないだろうか?
いずれにしろ神代の時代に、日本の島々が生まれる時、「最初に生まれるのが何故淡路島だったのか?」は深く考える必要がある。






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1 コメント

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淡路島 (虚庵)
2005-08-22 00:03:05
その昔、虚庵氏がまだ結婚する前のこと、淡路島の「伊邪那岐神宮」に参詣した。

道案内は今の虚庵夫人である。前日、彼女の生家におそるおそる両親を訪ね、結婚の許しを得て、オヤジさんと茶碗酒を酌み交わしたのも懐かしい。



諏訪大社の氏子の末裔と、伊邪那岐神宮の氏子の末裔の結婚とは、神様も乙なお計らいをするものだ。二人とも還暦をとうに過ぎて、

神様の域に近づきつつある。
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