陽明門前ではどなたも記念写真にご熱心ですが、門全体を背景に使うと人の顔は“点”になってしまい、人物をアップすると門は写りません。さていかが処理されているのでしょう。
陽明門を入って正面に本社拝殿が・・・平成の大修理で外観は拝観出来ませんでしたが、拝殿内石の間迄は昇殿参拝出来ました。写真撮影は御法度件のごとし。奥の院への入り口辺りに2つ目の“それ”は有ります。こちらは通路真ん中に看板があり矢印が上を指しているので見逃すことはないでしょう。「眠り猫」ちゃんです。
眠り猫をくぐり抜け石段を登ると奥宮です。杉の木立がみずみずしく目に映っているので、こちらもかなり雨が降ったようです。中禅寺湖周辺だけ、雨がなかったようでした。東照宮周りが荘厳な雰囲気に包まれているのは、聳え立つ杉の立木の群れに囲まれるから?と、感じます。杉林が、自然が漂わせる霊気でしょうか?!御宝塔は御祭神、つまり家康のお墓所ですが、ぐるりと回遊してお参りです。
三猿、眠り猫、奥宮・・・巡ってきて耳にした共通の言葉は“ここだけ限定”です。???通路脇社務所脇に台を置き絵馬・土鈴・お札・おみくじなど縁起物を並べ神職や巫女さんが声高に口上を述べていました。曰く、「OOOの絵馬は、OOOの鈴・・・お札はこの場所だけの限定です。他のお堂にはありません!!!」。ここだけといわれて求めていくとかなりの数になるはずです。素通りする人が大半ですが、それでも買い求める人も数いました。
陽明門を出て門の左右に続く廻廊の見事な彩色と彫刻を眺めながら本地堂に向かいました。回廊の先に「本地堂」が見えていました。
本地堂にはあれがあるからですが、これそれあれの三つ目になる“あれ”は“鳴き竜”です。この項纏めていて「東照宮のサイト」に“鳴き竜”と「本地堂」の記載がありません???他のサイトで理由が分かりました。「本地堂は寛永12年(1965)に建てられ、桁行7間、梁間5間、入母屋、銅瓦葺き、3間の向拝が付いています。規模としては東照宮最大の建物・・・中略・・・天井には狩野派が描いた8mの竜がありましたが、昭和36年に火災により焼失し、その後再建されています。」
表門から始まって東照宮の多くの建築物は重文、国宝に指定されていますが、焼失後近年再建された本地堂は新参者扱い、いずれの指定もないので書くに足りないとの判断??再建ですから本来の姿の“写し”です、胸を張って由来を述べておくべきでしょう。鳴き竜も複製画となる訳ですが、鳴き声はかってのものより理論的に構築されていますから共鳴は強化された・・・筈!初めて東照宮を訪れたのは昭和30年代半ば、焼失前の鳴き竜だったか否か、記憶がはっきりしないのです。
震災以降観光地の集客が悪く人出が少ないと各地から嘆きの声が聞かれますが、東照宮はかなり人が入っていました。それでも以前に比べかなり人出は少なくなったのでしょう。“外人さん”の姿が少なかったようです。「日光を見ずして結構という無かれ」誰が言ったか知らないのですが、大道商人まがいの縁起物の売り込みにうんざりして、「日光を又見てもう結構」の心境になりました。
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