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北へ南へ、東へ西へ

旅と山歩き・街歩きの記録です 今を語りながら過去も振り返って

移転ご挨拶

plalaからgooへ移転してほぼ修正が終わりジャンル・カテゴリーが設定出来ました。タグ付け法が見つからないので、県名・市町村名、東京都は区市町村名で、その他寺社・名所などは固有名詞でサイト内検索して下さい。 サイト内リンク先、アドレスがplalaのpubのままgooに変更していないのでリンク切れしていました。リンク箇所を探して変更するのはかなり時間がかかりそうです。

モノクロですが雄大さは感じます 那智の滝:和歌山県那智勝浦町

2007-07-14 13:10:08 | 思いでの写真館

 袋田の滝を掲載して、日本3大名瀑布を思い出してみました。日光華厳の滝は何度も行っていますが、家族写真の中です。紀州那智の滝を見たのは、1960年3月、瀞八丁にプロペラ船を見に行った時でした。悠久の大地を蕩々と流れる・・たった半世紀です、今年行かれたうたのすけさんの写真と変わりません。滝を一望出来る場所も限られています。



 鳥居から先、長い階段が続きます。うたのすけさんも書いてます、「上を見ると溜め息が出ますので足元だけを見つめ」まさにその通りでした。



 学生生活2年目でした。奨学金を貯めてやっと買った1眼レフカメラ、カラーフィルムなど高嶺の花の時代でした。モノクロで現像だけラボに依頼して、引き伸ばしは写真部の暗室を借りて、自前です。その当時、町の写真やさんには、貸し暗室なるものがあり、機材一式が備えられ、現像定着薬と印画紙を買い、時間賃料を払って作業したものです。デジカメ自家プリントの時代の若者には、“ウッソー”の世界でしょう。しかも、印画紙すら高いので、今では死語と化した「名刺判」が主体でした。
 光と陰だけで表現すると“真”が写せる・・・今でも信じて、止まないのですが、世はデジカメの時代です。時折モノクロ撮影をするのですが、引き伸ばしをラボに依頼をすると“目の玉が飛び出る”料金です。やむを得ず、引き伸ばし機一式購入し、商売ものの狭い暗室で引き伸ばしに挑んでいましたが、寄る年波、暗い暗室内では鳥目でピントが合いません。身動き出来ない狭い空間で、腰が!?!ついに断念!“安い”カラー写真の軍門に下る事にしました。
 金はなくとも若さはあったのでしょう、滝を遠望した後、滝壺まで下って見上げた写真を撮りました。しかしこんなもの、滝の撮影は難しい、骨折り損のくたびれ・・・!!!!


懐かしい北海道です 函館から札幌へ:北海道函館市・白老町・札幌市

2007-06-28 16:23:20 | 思いでの写真館

 “暇なおじさんヒロ”さんのブログを覗いていたら、北海道日本海近くの歴史的な建造物がいくつか掲載されていて、懐かしくなりました。もっとも北海道は、昨年の礼文島を除けば過去2回しか行っていません。それも40年以上50年近く前です、行った場所の記憶が前後してしまっています。もっとも、各回とも20日以上ですから、かなりあちこち行っていますので、余計混乱しています。
 1回目は学生仲間4人で、道東中央の観光モデルコースでした。2回目は単独行、1回目で行かれなかった日本海、オホーツク海沿岸をぐるっと一周、そして開通したばかりの日勝峠の制覇でした。写真の整理を始めると、景色ばかりで意外に建物が写っていません。景色は今も昔もほとんど代わらず、当時は、思い入れたっぷりに構図し光線を意識して撮ったはずですがモノクロでは見劣りします。粒子も粗く、今のデジカメに劣ります。
 とりあえずは、1960年夏の分から時代を映した写真から整理に入りました。夜行急行列車、と言っても、上野を朝出ていますが、夜中に青函連絡船に乗り込み、夜明けと共に函館港でした。





 大沼、洞爺湖と宿泊を重ね室蘭本線経由で札幌に向かいました。途中名所名所で途中下車でした。先ずは、巨大な風呂が名物の登別温泉第1滝本館の温泉天国(当時は呼び名が違っていましたが、記憶がありません)



 白老では、アイヌ村で熊まつりの踊りを鑑賞です。ちょっと見には「差別」問題が起こりかねませんが、文化の保存の意味合いとショートして今も続いていますから、問題はないのでしょう。



 各駅停車の途中下車ですが、苦にならないのでした。降りて観光、次の列車で移動、当時は、そのくらいの間隔でしか、列車が来ないのでした。時刻表を見ると、多少の増便はあるものの現在でも大差はないようです。定山渓温泉も、まだ木造の宿が中心でした。



 札幌大通公園、低い建物ばかりですが、現在を見てみたい気分です。高い位置から撮影していますから、もしかしたら、テレビ塔に登ったかも知れません???


日光沢温泉は、今も素朴なようです 奥鬼怒:栃木県日光市

2007-06-24 16:59:16 | 思いでの写真館

 モノクロ写真の中から、色々見つかってきました。奥鬼怒温泉郷四湯の八丁ノ湯、加仁湯と通り過ぎ、一番奥にあるのが日光沢温泉です。1963年の秋でした。



 四湯の内唯一ホームページがありませんが、山登りの記録サイトのいくつかにレポートがありました。写真が掲載されていて、玄関は45年前と少しも変わっていないようです。何とか時間を作って行きたくなりました。奥鬼怒温泉郷の内では、最も多く行った所です。川原の野天風呂への階段のようですが、全く記憶がありません。



 主は、もう代が代わっているでしょうが、当時はイワナ捕りの名人で、夕餉には捕りたての塩焼きが並び、釣りの講釈を聞きながら感激したものです。木造のままと聞きましたが、増築はしているようですから、宿泊者全員で炉端での食事は無理でしょうが、周りの景色に変わりはないでしょう。昭和40年代に入って、この沢の対岸にある小さな滝に発電機が於かれ、豆球のような灯が点くようになりました。

 

 前回の金精神社の項の写真は、加仁湯のHPの思い出の写真から見て、念仏平の避難小屋の可能性も有りそうです。半世紀近く前の事ですが、まだまだ調べる事が多く、脳の活性に役立ちそうです。
 奥鬼怒温泉郷への出入りは、色々な経路があります。 →鬼怒川温泉、川俣を通り女夫淵へ、川沿いを入ります。一番短時間で楽なコースです。 →奥日光から金精峠へ上がり、温泉ヶ岳根名草山のコースは、奥日光、菅沼丸沼、白根山など眺めも良く、鬼怒沼やヒナタオソロシの滝なども眺められ、快適です。ただし、奥鬼怒から逆をとると、川から崖状態の斜面、高度差1000メートルをくねくねとつづら折れ直登一時間以上、かなり応えます。 →鬼怒沼を見て、物見山越え大清水、そして三平峠越えで尾瀬ヶ原、時間があれば一度で二度分楽しめます。奥鬼怒温泉郷から湯沢峠越えで丸沼へ出るコース、短距離ですが、現在の整備状況は分かりません。ガレ場があって、迷った記憶があります。かっては、丸沼から四郎峠を通って、大清水へ抜けた事がありますが、今は、どうなっているのでしょう、分かりません。 →唯一実現できなかったコースがあります。鬼怒沼、鬼怒沼山を経て栃木、群馬、福島の県境の尾根を延々とアップダウンを繰り返し、小淵沢田代を経て尾瀬長蔵小屋の裏手に出るのです。そのコースを目指したのですが、尾瀬から夜遅く到着した二人組が、道が荒れていて15時間かかったと教えてくれました。単独行でしたから諦めて、丸沼経由で尾瀬に向かったのが思い出されます。
 
 余談ですが四湯の内、手白澤温泉は脇へ入った所の沢です。残念ながら行っていません。平成9年に一年をかけて客室数6室、全室トイレ付きのモダンなロッジに改築した様です。 


金精神社でしょうか? 奥日光・奥鬼怒:栃木県日光市・群馬県片品村

2007-06-23 13:03:50 | 思いでの写真館

 当麻寺を探り当てたので、さらに思い出せない記憶を辿るという作業をしています。昨年の12月、やまちゃんのブログに、金精峠、金精神社の記事が載っていました。金精峠から、温泉ヶ岳、根名草山のコースは、何度も行き来していますから、必ず写真があるはずと探しました。結果スライドで、八丁湯を見付け掲載できました。
 次いで、ハーフサイズモノクロフィルムの中から金精神社らしき写真が見つかりました。



 ここで疑問が出てきました。ネットで調べたら、昭和33年(1958年)にコンクリートに立て替えられていると記載がありました。この写真は木造です。5月ですから、残雪があり高い所です。念仏平の避難小屋かとも考えましたが、大きさが違いますし、明らかに祠の形です。金精道路の開通(1963年8月)以後に地盤が崩れ立て替えられていると記憶していたので、混乱してしまいました。記憶の確かな読者募集!!
 この写真のネガには撮影日が記入してありませんが、前後の写真から、1963年(昭和38年)5月と判断されます。(1959年とも考えられるのですが、1962年八丁湯が最初ですから??)何しろハーフサイズですから、75枚を1回の山旅で使い切れず色々写っています。ヒナタオソロシの滝、鬼怒川の谷へ下りる途中での撮影でした。



 その頃の加仁湯です。(だと思います?!)ひなびた風情と、素朴な野天風呂です。それでも加仁湯は当時、山男の一番人気だったので、その晩は泊まりました。





 今の加仁湯は、HPで見られますが、びっくりです。有名温泉旅館と見まごうばかりです。当時奥鬼怒温泉郷四湯は、電気もなくランプの宿でした。まさに秘境の秘湯。夕食時、いろりの傍らで、主の語りを聞くのが楽しみでした。遠い思い出となりました。
 前年の台風の影響で、川原は荒れていて、歩くのは、難儀でした。


 


秘境の温泉でした 奥鬼怒温泉郷:栃木県日光市

2007-06-02 15:40:43 | 思いでの写真館

  「世界遺産 日光」さんからコメントを頂き、改めて奥鬼怒歩きの記録を探してみました。1962年の5月、初めて奥鬼怒へ行った時の記録です。ハーフサイズ・スライドフィルムです。見事にセピア色に褪色していました。エイヤー!PC画像処理しました。卑怯者!!
 当時は、東武の路線バスが運行されていて、浅草から朝1番の快速で鬼怒川公園まで行き、乗り換えました。(そのときは、途中逸れて五十里湖に先に行ったので、五十里湖行きは新藤原始発だったかも知れないと、記憶が曖昧になってきました。)川俣温泉が終点で、女夫淵までの道路は、建設途中でした。現在では、鬼怒川温泉駅から女夫淵まで日光市営バスが運行されており、女夫淵から一般車は通行禁止ですから、奥鬼怒温泉の旅館が林道を使って送迎しています・・・数年前、山仲間と鬼怒沼へ行った妻の報告です。(とにかくバス代が高い、浅草-鬼怒川の運賃と同じと憤っていました)
 川沿いの道を歩きます。実に清々しい。林道を、車で駆け抜けては、意味がありません。  途中、滝もあります。さすがに妻たちも、歩いたと言っていましたが、昔とコースが変っているかどうかは、調査していません。

 

 八丁湯の野天風呂は、まさに野天風呂です。掛け値なしの掛け流しです。何しろ電気が来ていないので、循環濾過は出来ません。





 この湯口から湯気の上がる様の写真を旅行雑誌で見付け、居ても立っても・・翌週やって来たのです。野天風呂は、道路脇にあります。当時は、水着で温泉にはいるなんてとんでもない!さすがに女性で入る勇気は出ないでしょう。こちら向きの女性の背後に、登山道の道標があります。野天風呂の脇が、登山道です。通り過ぎる登山者が、入浴中の我々に声をかけて行きます。



 野天風呂の彼方、滝の左手に階段スロープが見えます。スロープの先が、もう一つの野天風呂「石楠花の湯」です。(「滝見の湯」と思っていましたが、別物だったようです。)



 当時は旅館といっても山小屋の雰囲気で、単独行はほとんど相部屋でした。山仲間は、すぐ意気投合します。情報交換をして、日暮れれば就寝時間です。何しろ、ランプの宿です。寝るしかありません。翌日は、初日の内に鬼怒沼往復はしていたので、根名草越えをして金精峠から、奥日光へ下りました。
 昭和50年代は子供たちが幼く、車で移動できるところを選んでいましたから、その頃から行かれなくなりました。山小屋の感覚で訪れていましたが、旅館となると予約手配などで、思いついて即とはいきません。最近は、電話も通じるようですから、もう秘境と言えなくなりました。八丁ノ湯のHPに、最近の野天風呂が掲載されていました。
 奥鬼怒の温泉郷から、鬼怒沼山の近くをトンネルで抜けて、大清水まで林道が開通しています。指定車両のみの通行ですから、一般車両は通行できません。観光道路化しないために、あえて1.5車線と狭くしてあると聞いています。観光用ではありませんと、宣言しています。当事者にとっては重要なのでしょうが、この道路の目的は何かが、よそ者には分かりません。植林などの林業は、この奥には無いはずです。治山用でしょうか?まして山菜採りに大金を投ずるはずはありません。流通のため?川治、川俣・大清水間で何を運ぶのでしょう。川俣からは、山王峠越えの林道を経て、国道の金精道路で沼田まで、高速輸送が可能です。
 確かに地元にとって何かの理由で重要かも知れませんが、今回の緑資源機構、林道談合の報道を見聞きすると、道路を造るための方便という気がしてきます。


橋はどこかが違う?違わない? 再び寸又峡:静岡県川根本町

2007-04-24 12:21:37 | 思いでの写真館

 モダンなロッジやホテルが建ち並んでいます。カラーでないのが残念ですが、40年前(1967年)、初めて行った時の寸又峡です。列車バスを乗り継いで行ったどん詰まりに、チロル風(写真でしか見たことはありませんが)の佇まいです。山小屋のひなびた趣を想像していたので、驚きました。

  

 東海道線の金谷から、蒸気機関車の曳く大井川鉄道の列車に乗って終点千頭まで、乗り換えさらに先、井川線の奥泉駅、バスに乗り換え寸又峡です。大井川鉄道は、現在観光用に蒸気機関車を復活させ、人気を集めています。煙と煤で嫌われ、気動車(古い表現ですが)に座を奪われた蒸気機関車が再び脚光を浴びるとは、“郷愁”は、人の心の奥に潜み時折顔を出す“善玉”なのでしょうか。
 宿泊は、「温泉ホテル」?多分就職して1年ほどの相変わらずの窮乏生活でしたから、小さなロッジだったでしょう、記憶がないのです。翌日吊り橋を渡りに行きました。「夢の吊り橋」?名前も記憶がありません。4月16日掲載の吊り橋と同じような、違っているような。やはり、補修をしたり架け替えたりしたのでしょうか、調査不足です。



 4月16日分再掲



 橋の向こうに滝が落ちています。今回は、気が付きませんでした。何しろ、渡るのに必死でしたから、周りは一切眼中になしです。

   

 湖畔に降りて見上げた写真もありました。下まで降りて、浅瀬にはいることが出来たようです。



 昔の観光地でも、人は沢山押しかけていました。しかし、立ち入り禁止などの規制は少なかったように思います。実際、日光霧降の滝の滝壷、蔵王のお釜、日光小田代ヶ原の沼畔等々、近年立ち入ることの出来なくなった場所が、数多くあります。浅間山山頂のように、自然の持つ危険性によるものは、やむを得ないと思いますが、多勢が押しかけ人による自然破壊が進み、隔離されたものは残念です。湯の丸高原に行くと、池の平湿原の奥、三方が峰の斜面、コマクサ群生地を囲む人の背丈の何倍にも及ぶ金網のフェンスを見ると、虚しさを感じます。
 バスで奥泉へ戻り、森林鉄道まがいのディーゼル車牽引のトロッコ風列車で、井川ダム、草薙ダムへ向かいました。現在も、同じように運行されています。



岩ばかりの荒涼とした賽の河原でした 秋吉台:山口県美祢市(旧秋芳町)

2007-03-24 16:31:50 | 思いでの写真館

 写真を整理していても、3月までの旅の写真は少ないのですが、学生時代には、社会人にない春休みがありました。3月まではスキーに行っていましたが、貧乏学生にはリフト代などで、行かれる日数と回数に限度がありました。今と違って、コンビニや居酒屋などのアルバイトはありません。せいぜい家庭教師くらいが安定したバイトでしたが、有名大学の文系でもなければ、そうそうにありつけません。仕送りと奨学金以外、現金収入は皆無でした。
 その点、ふつうの旅行は学割(今と違って5割引です)均一周遊券で、夜行列車で移動をして宿泊代を浮かせ、泊まる時は、1泊350円後に500円だったか?のユースホステルを主にしていましたので、比較的よく出かけられました。さらに乏しい時は、山を歩いていました。ホステルがない時は、地方でも必ずと言っていいほど駅前にあった木賃宿(商人宿とも言いますが)が、ほぼ同じくらいの料金でしたので、学生を口実にいくらか値切って泊まりました。だいたい翌日のお昼の握り飯をつけてもらっていました。
 夜行列車で広島へ、安芸の宮島、岩国の錦帯橋、湯田温泉の素泊まりを経て、秋吉台にたどり着きました。1962年の4月でした。秋芳洞から突如広い空間へ出て、目を見張りました。枯れ野原に岩がごろごろしているだけの荒涼とした眺めが、何処までも続いているだけなのです。



 何か無いかと歩いていきました。何処まで行っても同じ光景が続きます。カルスト台地とは、こういうものかと納得しました。



 10年後1972年、結婚後長女2歳の夏、家族で再び訪れました。家族にあの荒涼とした石灰岩の眺めを見せようとやってきたのですが、緑に覆われた伸びやかな大地が広がっていました。新婚旅行以来の長旅となり、それ以来毎年恒例の家族旅行となりました。



昔の旅は“晴れ”の行事でした 岩国錦帯橋:山口県岩国市

2007-02-13 14:06:31 | 思いでの写真館

 自然の風景や神社仏閣の景色は、時代が分かりません。時を経ても、面々とその佇まいを保持し続けます。そのことに価値があるからです。開発された建物などが現れれば、時代が推測されます。錦帯橋は、老朽のため2004年に全面改修されましたが、この写真は、1962年の撮影です。橋は復元されたのですから、現在と全く同じです。
 橋の上の観光客の風体から、今でないことが推測されます。男性の多くは、正月の明治神宮と同じネクタイにスーツ姿です。女性の多くもスーツやアンサンブルです。少人数ですが女学生もセーラー服が見えます。もちろん、ジーパンや、ブルゾン姿はありません。旅は、“晴れ”の行事だったのでしょう。



 モノクロで撮った風景写真は、季節も分かりづらいのです。写っている人物の服装でおおよそを判断します。意識して、雪や特徴のある花を撮し込んだりします。錦帯橋に桜の花が添えられています。4月の初め、山陰山陽を一周した時の記録であったと、思い出します。



 右端の・・竣工の看板が読めれば、状況がもっとはっきりしますが、現像後気が付きました。撮影状況を完全に把握していないのは、今も昔も変わりません。これからは、もっと注意力散漫になるでしょう。年のせいには出来ませんが・・。


プロペラ船では会話が出来ませんでした 瀞八丁:和歌山県新宮市・奈良県十津川村

2007-02-03 13:37:01 | 思いでの写真館

 雪のある時期の旅行はあまりしませんが、この年1960年3月、雑誌で見たプロペラ船が無性に見たくなって、夜行列車で紀伊勝浦へ向かいました。紀勢線が1959年開通直後、友人と3人で大峰山奥駆けコースを縦走して以来の紀伊半島でした。それまで新宮、熊野、尾鷲あたりで(三木里・新鹿間の間と記憶している)東線西線に分断されていたので、一番乗りを兼ねての山行きでした。紀勢本線全通により、名古屋から直接串本や勝浦まで行かれるようになりました。
 その翌年です。新宮の船着き場からプロペラ船に乗船、熊野川を遡上、瀞八丁の船着き場まで2時間以上かかった記憶があります。その間、プロペラのエンジン音風きり音で、話も出来ないような状況でした。



 なぜプロペラかというと、川底が浅く、スクリューでは川底にすれて使用できないので、風の力で推進させていました。現在は、ジェット船となり、水を噴き出して、推進しています。(新宮の乗船所スカート姿のガイドさんが、時代を感じます)



 瀞八丁の中州には、テントが張られ船着き場となっています。切り立ったがけの上には、旅館らしき建物が見えます。



 この先上瀞、奥瀞と続きますが、プロペラ船が何処まで遊覧に連れて行ってくれたか、記憶がとぎれています。プロペラは、回っていると何のことやら分かりません。結果、こんな写真しか残っていません。



 帰路は、途中(志古?)で下船して、バスで新宮に戻りました。道路は舗装されておらず、すれ違うのもやっとでした、というのは曖昧な記憶です。この時の交通手段は、蒸気機関車、プロペラ船、ボンネットバスでした。これらは、今や観光用のレトロな見せ物となっています。便利になった現在、懐古趣味に走るつもりはありませんが、記憶の消失と共に、感慨深いものがあります。 


ハーフサイズカメラで撮りました 再び水道橋:千代田区

2007-01-12 17:37:04 | 思いでの写真館

 若い頃から写真が好きでした。父の影響でしょうか。ベスト版と呼ばれる蛇腹のついたカメラから、ガラスの乾板、引き伸ばし器など写真関連の物が押し入れにぎっしりありました。学生時代は、スキー、山登り、旅行、芝居、ジャズバンドそして写真、同人誌、まだまだ他にも趣味と言うより道楽ですが色々手を出していました。当然お小遣いは足りません。奨学金はすぐに、当時出始めたばかりの一眼レフカメラに化けました。当然フイルム代が必要です。モノクロ主体ですから引き伸ばしは自分でやりました。写真部の暗室を、こっそり拝借して。
 カラーフィルムも流通し始めていました。お金に余裕のあるクラスメイトが、カラー写真を撮ってくれました。もちろん名刺サイズです。富士・さくらは発色が悪い、コダックが一番が定評でした。しかし、現像は、東洋現像所(イマジカ)1社の独占、当然フィルム代も現像引き伸ばし料金も高かったのです。そこで35ミリフィルムを半分にして使うカメラ、オリンパスペンを買いました、中古で。さらに、引き伸ばし代を節約するため、リバーサルフィルム・スライド中心です。フィルムスキャナーでスキャンしてもこの程度です。色も褪せています。ボンネットトラックに箱型の乗用車。

        

都電の前は、多分プリンスグロリア?茶色の電車の総武線。1969年頃の、水道橋です。

   

 昨夜の水道橋の交差点です。後楽園ゆうえんちは「ラクーア」に、後楽園球場のあった場所には、ドームホテルが建ってます。コンパクトデジカメは手ぶれがひどい、光のページェントと考えれば、これで我慢です。