トーキング・マイノリティ

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書かれなかった叙事詩 その②

2010-06-04 21:25:27 | 読書/小説
その①の続き
 1947年の印パ分離独立はウルドゥー文学の大きな転換点になった。インドからはムスリムがパキスタンへ、パキスタン側からはヒンドゥー、シク教徒がインドに逃避する過程で未曾有の大惨事が起き、数十万ともいわれる犠牲者が出た。印パ双方で競うように虐殺、陵辱、略奪が繰り返され、こうした状況は文学者にも多大な影響を与え、所謂「動乱文学」と呼ばれる作品が生みだされた。このジャンルでも印パ双方の作家たちが傑作を書いている。インティザール・フサインも分離独立後ラホールに移住、その体験が文学スタイルを大きく変えたといわれる。
 フサインの短編集にも「動乱文学」が3編ほど収録されており、中でも『書かれなかった叙事詩』は短編集の中で私が最も気に入った作品で、一番の秀作だと思う。

『書かれなかった叙事詩』の舞台はカーディルプルの町。架空なのか、現実にある町なのか不明だが、著者の故郷ウッタル・プラデーシュ州の何処かをモデルにしたのかもしれない。冒頭を一部引用する。
カーディルプルでも聞く者が手で耳をふさぐような激戦が起きた。混乱はもちろんだが、至るところで端金で売られでもするかのように、人の命が失われていった。1、2歩後ずさりして死ぬ者もあれば、3、4歩進み出て命を失った者もいた。背中に傷を受けた者もあれば、胸で攻撃を受け止めた者もいたが、それは大した違いではなかった。カーディルプルなど取るに足りない存在だった。この洪水は山々を根幹から揺るがすほどのものだったのだ…

 主人公ピチュワーはムスリムの有名なパヘルワーン(レスラー)だった。敵対するのがヒンドゥー教徒のジャート族。ジャート族は昔から勇猛で知られる部族であり、現代のインド軍にもジャート族を中心とした精鋭部隊があるそうだ。“パヘルワーン”はレスラーと邦訳されているが、ピチュワーは棒使いの名手であり、棍棒を巧みに操り敵を倒しており、取っ組み合いの場面はない。ちなみにインドにも棒使いの戦士カーストがあったそうだ。
 ピチュワーは弟子たちの部隊を率い、ジャート族と激闘しつつ、やはり邸宅に集まっている女たちのことは一番心配していた。「邸宅の中には深い井戸があり、なさねばらない義務が女たちにしっかりと教え込まれていたが、念のためにいくつかの首吊り用の縄が用意されていた」の箇所から、いざとなれば集団自決が求められていたことが伺える。これはヒンドゥー、シク教徒も同じであり、インドの現代文学『タマス(暗黒の意)』にも、井戸に入水自殺する女たちが登場する。

 ピチュワーのような勇敢なパヘルワーンが住民を守るため戦っている一方、アリーガル大学を出たインテリたちは、陰に隠れている始末。少し前はデモ行進で胸を張り、「必ずやインドは分割され、必ずやパキスタンが建国されるぞ!」とスローガンを叫んでいたが、本当にインドが分離独立すると、彼らはいつもびくびくするようになったのだ。日和見主義のムスリム連盟の指導者も、早々にパキスタンのラホールに亡命する。
 いくらピチュワーが勇敢でも、世の中の流れは止められない。彼もまたパキスタンに逃れるも、移住先では住む家や食にも困る惨めな暮らしであり、威勢も威厳も失われていく。独立したばかりの国は押し寄せる避難民を世話する余裕もないのだ。翻訳者・萩田氏は『書かれなかった叙事詩』を、「この時代に生きた市井のインド・ムスリムの姿が活写されている」という。

 小説『悲しみの町』もまた動乱時を描いたものであり、3人の男たちの会話で物語が進行する。動乱時には女性への暴行が相次ぎ、少女を辱めた者が、今度は被害者の兄である若者により自分の娘が暴行されるという因果応酬を思わせる展開。その男たちの正体が明かされるラストも衝撃的。印パ分離独立時を描いているのかと思ったら、解説を見たら1971年のバングラデシュ独立時の状況を暗示した作品だったそうだ。かつてバングラデシュは東パキスタンと呼ばれ、第三次印パ戦争後、独立を果たす。民族、宗教紛争は日本人には極めて理解しにくいテーマだが、「動乱文学」を見ただけで重いテーマに言葉もない。

 外国の文学を見るのは、自国以外の思想や文化にも触れられるので、下手なTV番組を見るよりずっと有意義だと私は思う。かつて国際基督教大学で英文学の教鞭を取っていたデレク・ブルーワー/Derek Brewer ケンブリッジ名誉教授が語ったことは意味深い。
古書を読むこと、外国の書を読むこと、外国に住むことはよく似た体験だ…
■参考:『インティザール・フサイン短編集』アジアの現代文芸シリーズ、パキスタン⑧、財団法人大同生命国際文化基金

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