織田信長が家臣に当てた手紙は現代も遺されているが、豊臣秀吉の正室ねねにも手紙を書いていた。手紙からは秀吉夫婦の関係ばかりでなく、とかく苛烈な性格と思われがちな信長の意外な一面も浮かび上がってくる。現代語に訳せば、以下のような内容となる。
-先日はけっこうなものをありがとう。それにしても、そなた、以前合った時よりもずっと美しくなったではないか。そんな美人の妻を持ちながら、藤吉郎(秀吉)は不足を言うようだが、それは藤吉郎が悪い。あんなハゲネズミにはそなたのような上等な妻は2度と見つけられないのだから、そなたも気を大きく持って、軽はずみをしてはいけない。特にヤキモチはは大禁物である。女房の務めとして黙って藤吉郎の面倒を見てやれ。またこの手紙の趣を藤吉郎にも伝えるように…
結婚5年後、秀吉は長浜城の主に出世するも、女癖の悪さで有名な彼は浮気にも精を出すようになり、夫婦間の間もきしみ始める。特に子供がいないねねは肩身が狭い。ねねは主人・信長のもとに挨拶に出た際、ついに思い余り夫の浮気を打ち明ける。ねねへの返答が上記の手紙なのだ。
上司に夫の浮気を相談するのは現代でもなかなか出来ることではない。あまりムキになれば、逆に「あんなすごい女なら、亭主が浮気するのも当り前」となるし、体面を重んじプライドが高ければ言い出すのも難しい。信長の親切極まる手紙を見て、イメージと裏腹に細かな気配り精神を持っていたと解釈する人もいる。ただ、温厚な信長だと時代劇にもならないかもしれない。
永井路子氏は女性作家らしく、信長にこのような手紙を書かせたねねの人柄も大いにあると指摘されていた。その後、ねねは信長の「ヤキモチは焼くな」という言葉に素直に従った。そのため秀吉は次第にねねに頭が上がらなくなり、名門出の側室たちも自然と一目置くようになったという。
しかし、ねねはただ黙って夫の面倒を見ていただけの妻ではない。側室ににらみをきかせる一方、政治のことにもかなり気を配り、夫にそれとなく助言している。彼女の取り成しで助命されたり領地を取り上げらずに済んだ武将もかなりいたと言われる。イエズス会の宣教師にも色々と便宜を図っており、ルイス・フロイスは「大変な人格者」とまで絶賛している。さすが賢夫人(今や死語…)の誉れ高いねねである。
ねねは夫の死後の慶長4(1599)年、徳川家康に大阪城西の丸を明け渡し京都に隠棲するが、永井氏はこれを「はっきりと“反淀君”の旗を翻した」と言う。加藤清正、福島正則らの秀吉の家臣が家康側に付いたのもねねとの関わりがあると氏は言う。そして大阪の陣。「オカミサンは勝ち、美貌の側室は敗れたのだ。自らは表に立たず傷付かず、これはまた何と巧妙な作戦だろう」(永井氏)。天下人の妻となるほどなので、やはりねねもまた稀有の女性だった。
同じ女性作家でも塩野七生氏となれば、視点が微妙に違ってくる。塩野氏は短編小説『饗宴・地獄編 第二夜』で登場人物たちにねねや淀君のことを語らせているが、これは氏の感想なのは明らかだ。
「私の思うには、淀君という人は同時代の内親王や公家の姫たちよりも、余程精神的に貴族であった女だと思うの。そして、そのような女は貴族的な精神を維持するためには、下からのし上がった男を利用することなど、何とも思わないものよ。お節介な北政所の推めを有難く受けて、一大名あたりに嫁ぐことなど、淀君にはつまらないことにしか思えなかったのでしょう…だから、北政所と合うはずがないのよ。あちらの方は、反対にひどく安定志向型だから」
ねねと淀君、どちらの女性に関心を持つのかは個人の趣味もあるだろうが、日本史上あまりにも有名かつ対照的な2人の女たちは信長の家臣の妻と姪であり、関りの深い人物だった。
■参考:「歴史をさわがせた女たち/日本編」(永井路子著、文春文庫)
「サロメの乳母の話」(塩野七生著、中公文庫)
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-先日はけっこうなものをありがとう。それにしても、そなた、以前合った時よりもずっと美しくなったではないか。そんな美人の妻を持ちながら、藤吉郎(秀吉)は不足を言うようだが、それは藤吉郎が悪い。あんなハゲネズミにはそなたのような上等な妻は2度と見つけられないのだから、そなたも気を大きく持って、軽はずみをしてはいけない。特にヤキモチはは大禁物である。女房の務めとして黙って藤吉郎の面倒を見てやれ。またこの手紙の趣を藤吉郎にも伝えるように…
結婚5年後、秀吉は長浜城の主に出世するも、女癖の悪さで有名な彼は浮気にも精を出すようになり、夫婦間の間もきしみ始める。特に子供がいないねねは肩身が狭い。ねねは主人・信長のもとに挨拶に出た際、ついに思い余り夫の浮気を打ち明ける。ねねへの返答が上記の手紙なのだ。
上司に夫の浮気を相談するのは現代でもなかなか出来ることではない。あまりムキになれば、逆に「あんなすごい女なら、亭主が浮気するのも当り前」となるし、体面を重んじプライドが高ければ言い出すのも難しい。信長の親切極まる手紙を見て、イメージと裏腹に細かな気配り精神を持っていたと解釈する人もいる。ただ、温厚な信長だと時代劇にもならないかもしれない。
永井路子氏は女性作家らしく、信長にこのような手紙を書かせたねねの人柄も大いにあると指摘されていた。その後、ねねは信長の「ヤキモチは焼くな」という言葉に素直に従った。そのため秀吉は次第にねねに頭が上がらなくなり、名門出の側室たちも自然と一目置くようになったという。
しかし、ねねはただ黙って夫の面倒を見ていただけの妻ではない。側室ににらみをきかせる一方、政治のことにもかなり気を配り、夫にそれとなく助言している。彼女の取り成しで助命されたり領地を取り上げらずに済んだ武将もかなりいたと言われる。イエズス会の宣教師にも色々と便宜を図っており、ルイス・フロイスは「大変な人格者」とまで絶賛している。さすが賢夫人(今や死語…)の誉れ高いねねである。
ねねは夫の死後の慶長4(1599)年、徳川家康に大阪城西の丸を明け渡し京都に隠棲するが、永井氏はこれを「はっきりと“反淀君”の旗を翻した」と言う。加藤清正、福島正則らの秀吉の家臣が家康側に付いたのもねねとの関わりがあると氏は言う。そして大阪の陣。「オカミサンは勝ち、美貌の側室は敗れたのだ。自らは表に立たず傷付かず、これはまた何と巧妙な作戦だろう」(永井氏)。天下人の妻となるほどなので、やはりねねもまた稀有の女性だった。
同じ女性作家でも塩野七生氏となれば、視点が微妙に違ってくる。塩野氏は短編小説『饗宴・地獄編 第二夜』で登場人物たちにねねや淀君のことを語らせているが、これは氏の感想なのは明らかだ。
「私の思うには、淀君という人は同時代の内親王や公家の姫たちよりも、余程精神的に貴族であった女だと思うの。そして、そのような女は貴族的な精神を維持するためには、下からのし上がった男を利用することなど、何とも思わないものよ。お節介な北政所の推めを有難く受けて、一大名あたりに嫁ぐことなど、淀君にはつまらないことにしか思えなかったのでしょう…だから、北政所と合うはずがないのよ。あちらの方は、反対にひどく安定志向型だから」
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■参考:「歴史をさわがせた女たち/日本編」(永井路子著、文春文庫)
「サロメの乳母の話」(塩野七生著、中公文庫)
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信長と言えば「殺してしまえ!」の人、という印象が強烈なので、この本は以外でした。また読みたい本が増えたぞ!
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故・樋口清之教授によれば、信長の手紙は実に端正な書き方をする一方、幼児が書きなぐったようなひどいものまであるそうです。教授は信長の精神が常に揺れ動いていたと推測していましたが、癲癇気質と言われるのも無理もありませんね。
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私は、某TV番組で、信長がこのような手紙を出していたことを存じておりました。そして、私は、信長という人間が、温厚な人間とは思いませんが、後世の語りのような、悪逆無道な人間とも思えませんが(特に、天下取りが見えてくるまでは)。それだけ、家臣の人心掌握に努めていたという、証左ではないでしょうか?
(武田信玄も上杉謙信も、家臣や親族の離反に、頭を悩めていたそうです。特に、謙信は、担ぎ上げられたにもかかわらず、家臣が離反するもので、ついには、グレて(?)、家出までしてしまうのですが、、、。面従腹背の下克上が世の常とはいえ、上に立つ者も、それなに大変なようで)
また、信長という人物は、「あだ名」をつける名人のようで、秀吉を猿やハゲネズミ、光秀をキンカン頭(禿げているの意)と呼んだそうですが。
ま、そんな信長にしてみれば、わずか数週間とはいえ四国統一を果たした(果たそうとしていた)、地元の英雄も、「鳥なき島の蝙蝠」と、「あだ名」したそうですが。
http://ja.wikipedia.org/wiki/長宗我部元親
信長の妹で、信長や秀吉の間で、流転の人生を送った者に、お市の方(浅井長政に嫁ぐが、長政は信長に討たれ、その後、反秀吉の柴田勝家(信長の家臣)に嫁ぎ、勝家が秀吉に敗れると、秀吉の勧告を無視して、夫と運命をともにする)もいましたが、身内から見る信長の評価も、想像に易しくないでしょうね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/お市の方
追伸、
宮内少輔とは、元親が授かった官位ですが、その子、信親の烏帽子親こそ、かの信長だったのです。
そして、溺愛に近く、後継者にと思っていた信親の死が、その後の長宗我部家の運命を決定付けてしまったのですが、、、。
歴史とは、いつも残酷な現実を、つきつけるものなのですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/長宗我部信親
http://ja.wikipedia.org/wiki/烏帽子
信長が残虐非道と言われるのは、延暦寺の焼き討ちはじめ各宗教勢力への徹底した弾圧姿勢があると思います。
武田信玄さえ、一向宗のような宗教勢力には妥協的でしたが、信長は戦国武将の中でも異質です。でも、仏教勢力も勢いを取り戻すから、ここぞとばかり悪く書いた可能性も高い。
信長も母との折り合いが悪く、母は下の弟を溺愛、家督をめぐり弟と争いとなりました。勝っても万全とはいえないので、家臣の人心掌握に務め、それが天下統一への歩みでした。
お市の方は政略結婚による悲劇の戦国女性として有名ですね。いかに戦国の世といえ、長男・万福丸を惨殺されたのは惨い。
ただ、それで兄を恨んでいたとも思えません。むしろ、憎んでいたのは秀吉の方だったかも。
もし、後継者の信親が戦死しなければ、その後の長宗我部家はどうなっていたでしょうね。
それにしても、四国の諸勢力が拮抗、統一が難しかったにも係らず数週間でも制覇したから、長宗我部元親はやはり英雄です。伊達政宗は結局“奥州の覇者”に留まり、奥州統一など出来ませんでした。東北は現代でも各県のまとまりが悪い。
追伸、
仙台の某和菓子老舗の店のようかんの名に“大納言”があります。この店のモナカやようかんは美味しい。買ってけさ~い
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%9D%BE%E3%81%8C%E3%83%A2%E3%83%8A%E3%82%AB