トーキング・マイノリティ

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ケマル・アタテュルク:トルコ国民の父 その②

2017-03-18 21:40:21 | 読書/中東史

その①の続き
 祖国解放運動の第一歩となったサムスン上陸時(1919年)にもケマルは体調不良、ハウザ(現サムスン県)に立ち寄り腎臓病の治療を受けている。解放運動指導者としての地位を確立したエルズルム会議、シヴァス会議時にあっても、腎臓病に苦しんでいた。さらに1925年と27年、冠状動脈血栓を起こしている。36年11月は肺炎となり、37年に入って肝硬変と診断された。しかし、彼は大統領としてハタイ併合などの様々な任務をこなしていたのだ。
 没年である1938年1月にケマルの病状は悪化、ヤロヴァで温泉治療が行われ、2月になりイスタンブルにしばらく滞在したのち、アンカラに戻る。5月6日、政府はケマルの病状について公式発表をする。ついに10月17日、最初の昏睡状態に陥るも一時回復、首相バヤルに10月29日の共和国成立15周年記念式典への指示を出したが、11月8日に再び昏睡状態となり、10日午前9時5分、ドルマバフチェ宮殿において永眠した。

『ケマル・パシャ伝』には晩年の数年間、ケマルは毎晩、強いラクを2本以上も飲んでいたことが書かれている。さらに過労の身でありながら、朝は珈琲1杯、昼食は簡単な豆料理、夕食はオードブルの類しか食べなかったとか。これでは酒害に対しひとたまりもない。これほど大飲しても政務に支障をきたさなかったというのだから、著書の大島直政氏のいうとおり、まさに“鉄人”に相応しい。
 それにしても、享年57歳は早すぎる。ケマルがもう少し長生きしていれば、と想像する人は多いだろう。長く盟友として行動を共にしてきた首相イノニュ(後に共和国第2代大統領)とも外交や経済で意見が対立、死の前年9月にイノニュを解任している。これで祖国解放運動から共和国時代の戦友・同志は全てケマルの元から離れてしまったのだ。いかに鉄人でも、精神面で堪えたのは想像に難くない。

 ケマルがトルコ語純化運動を推進したのは知られているが、全ての言語はトルコ語から発生したという「太陽言語論」を支持したこともあったそうだ。トルコ民族の源流は中央アジアにあり、太陽のように崇高な文明の所持者であった、世界の言語も歴史もその源はトルコ民族に属するというのが「太陽言語論」のテーマなのだ。
 荒唐無稽さではウリナラファンタジーと存分に張れるが、さすがに科学的思想により短期間で消滅、当局はトルコ語純化研究に移行していく。この組織は後に言語協会に発展する。

 ケマルは1923年2月のイズミル経済会議の冒頭で、メフメト2世セリム1世スレイマン1世オスマン帝国の輝かしい英雄たちをこう批判している。
彼らは遠征を行ったが、「国の基本」である民族の経済的利益を無視し、腹心たちに各種の特権や免税権を与えて国家の自滅の遠因をなした。国の基本は、剣による征服で併合した土地に暮らす者たちに特権や自治権を与え、鍬を手に土地を耕させることである。鍬を持つ手は剣を握る手に勝る。剣で征服した者は、鍬を手にする者に破れるのが道理である

 植民地主義に対抗、経済立国の宣言なのだが、オスマン帝国の英雄時代は遠征を行うことが国を富ませ、腹心たちへ各種の特権や免税権を与えてこそ国の安定に繋がったのだ。

 ローザンヌ条約で、対外的にオスマン帝国の第一次世界大戦の戦後処理はほぼ終了する。ケマルは「母国に平和世界に平和」を謳い、平和中立主義を以って、かつての対立国とも友好関係を樹立する。特に隣国ギリシアとは住民交換を行ない、23~24年の間に殆どの当該住民は交換移住する。住民交換といえば聞こえはいいが、実質的には平和裏な民族浄化でもあった。
 30年、イスメト首相は住民交換で発生した財産処理などの問題解決のため、ギリシア首相ヴェニゼロス希土戦争の仕掛け人)をトルコ共和国に招待、両国の和平関係構築を成功させた。この会議で両国間に残っていた多くの問題は解決され、ヴェニゼロスはイスメトをノーベル平和賞候補に推薦するほど、トルコに友好的対応をしたという。1932年7月、トルコは国際連盟の正式な加盟国となるが、スペイン・ギリシアの加入推進運動もあった。

 33年9月、トルコはギリシアと友好不可侵条約を、10月にルーマニアと同条約を、ユーゴとは11月に同条約を、各々2国間で締結する。また37年7月、トルコは近隣のイラン・イラク・アフガンと4か国友好不可侵条約(サーダーバード条約)をテヘランで調印した。
 同盟諸国が互いに国境問題の憂慮をなくすための同盟であり、調印によって国境問題の憂慮が消滅したものでも、友好不可侵が保障された訳でもなかったが、その外交方針は見事としか言いようがない。

 改めてケマルの国父ぶりには驚嘆させられる。ケマルは生前、日本の明治維新を見習えと言っていたそうだが、トルコやバルカン諸国のような強かな外交を日本も見習えと言いたい。しかし、これは無いものねだりだろう。

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